38 絶望にひしゃいだ顔
街角ですれちがった知らない人に突然平手打ちでもされたかのような気持ちのまま自宅までもどり、それでもここまできたらひきかえせないと父親の居室へと脚をひきずっていったトレヴァは(なかば予想できていたことだが)さらなる痛手をうけることとなった。
トレヴァは父親の不自然にゆがんだ顔を思いかえす。
トレヴァがバドの旅に随伴するために時間がほしい、かつ、その猶予期間だけ彼女との婚約関係を凍結してほしい旨をつたえたときの、父親の表情だ。
憤怒と苦悶と焦燥がいりみだれた目を見開き、「おまえはいま、自分が口にしたことの意味がわかっているのか?」と叫んだ。
口のきわには泡がたまっており、そこまで感情を昂ぶらせた父親をトレヴァはみたことがなかった。
そして、父親が彼女とおなじ問いかけをしていることに逡巡した。
しかし、その意味がもつほんとうのところは、結局トレヴァには理解できていなかったのだ。
「ちょっとでいいんです。どうせバドはすぐに飽きるだろうから……」
「そういう問題じゃない……」
「もどってきたらかならず、兄さんを支援してハースト家の銀行に恥じない人間になりますから――」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
父親は書きものをするためのデスクを思いきりはたいた。
いちばんしびれたのは、トレヴァの涙腺だった。
幼い頃から厳格な父親に対しては怯懦の念を禁じえなかった。
しかし、トレヴァ以上に、父親はわなわなふるえていた。
そのまま古い遺跡のように壊れて崩れて、ただの砂山にでもなってしまうのではないかというくらいのゆれかただった。
「そんなことは容赦されうることではない。そもそも、相手方を愚弄するような、そんな話ができるわけがない」
「でも……彼女にはもう話してあります」
(許可されたとは言いがたいけれど)トレヴァは下くちびるをかむ。
その瞬間、深い失望が父親の顔をよぎり、その顔は不自然で不恰好に、まるで強い磁力でひしゃいでしまったかのようにゆがんでしまった。
トレヴァはもう父親を直視できなかった。
ただうつむいて、時をやりすごしていた。
だから、そのあとのやりとりはあまり憶えていなかった。
ただ最後に、「勘当する」という言葉を死刑宣告のように言い渡されたことだけはなんとなく記憶にあった。
失意にひたる間もなく、バドとトレヴァは伯爵都を出発してしまい、その後はその日その日の問題や悩み(こころもとないふところ事情やバドとの瑣末な軋轢など)に終始することになってしまったため、トレヴァは(展望をもってという意味でさえ)そのときのことを厳密に反省することはしなかった。
そして、そのまま何ヶ月もの時が経過してしまったのだ。
しかしトレヴァは、〈はずれの港町〉で酷薄な現実にうちひしがれ、うしろだてのないみじめさを経験し、世情に通じてきたことでようやく、父親の立場がわかってきたような気もした。血筋(家系、あるいは家族)を守るということの意味を。
トレヴァは自分の人生に対する姿勢が、自分で思っていたほど堅実でも誠実でもなかったことを悟った。
トレヴァが幼い頃、ハースト家の銀行は一度、運営の危機に瀕したことがあった。
いわれのない流言飛語による災難だったが、一族全員が辛酸をなめた時期があったのだ。
どんな人生にも、確実な道などない。
トレヴァはその含意をかみしめる。
銀行業をいとなむ会社の基礎を磐石にするために知略をめぐらし、苦心惨憺するということの意味を、トレヴァはようやく理解しようとしていた。
もう遅いといえば、そういうことなのだろうか――。
トレヴァは考える。
謝ればなんとかなるという思考は、遠くにゆらぐ陽炎のようなものだった。
家に(そして、彼女のもと)に、もどることができるかどうかよりも、もどりたいかどうかだとしたら、おそらく答えはかぎりなくイエスに近いだろう。
無意識のレベルだが、トレヴァは舗道でディレンツァに呼びとめられ、ハースト家の人間であることを指摘されたとき、父親がよこした迎えだと早合点した。
それは無意識裡であったがゆえに、みずからの願望を示していたとも考えられるだろう。
もし時間を巻きもどすことができたら――、そんなことを思ってトレヴァは苦笑いをうかべる。
仮に、過去にさかのぼることができたとしても、自分が旅にでないという確固たる決断ができるかは不明だった。
バドのにやにや顔がまぶたに浮かぶ。
もし仮に、人生をもう一度くりかえすことができるのだとしても、自分がその局面でどういう選択をするかはあいまいで、よくわからなかった。




