37 気の利かない召使い
彼女はトレヴァの父が経営する銀行の大元締めである伯爵直属の金融局長官の家系の血をひく娘だった。
つまり親同士が決めたこの婚約は、世間的にどうみても政略結婚の部類であり、そのまま二人の関係が大人になるまでつづいていき、そのとおりになったとしたら、そのように噂されるのは疑いようもなかった。
両家のあいだにどういうやりとりがあったかは知らないが、少なくともトレヴァの父親にその意図があったことはまちがいない。
トレヴァはそう思っている。トレヴァの父親はなにより、ハースト家の運営する銀行の恒久的な安定を祈念していたから。
しかし、トレヴァと彼女とのあいだで、そういった直截的なことが話題になることはいっさいなかった。
少なくとも二人で過ごしているあいだは意識することはなかったし、そんなことは些細で無意味なことにさえ思われた。
彼女はわがままな王女のようにふるまい、トレヴァは気の利かない召使いとして、それはそれとして適切な関係を築いていったのである。
どこにいても、なにをしていても、被害をこうむるのはたいていトレヴァだったが、バドといるときとはまたちがう楽しさを味わうことができた。
なにより、遊びつかれて寄り添って寝ころんだり、(一冊の本を二人でみる)読書に夢中になってあたまをぶつけてしまって笑ったり、ふとした瞬間に手をつないだりといったたぐいの興奮は、彼女以外からもたされることは決してなかった。
トレヴァは良かったことだけを回想して、思わず笑みをこぼしそうになる。
ふしぎと、ほとんどの場合で彼女はただの暴君だったのだが、思い出のなかの彼女は真夏のひまわりのように笑っていた。
いつまでもそのままでありつづけるのではないかと夢見てしまうような笑顔だった。
しかし、トレヴァはひとつひとつの追想の果てに、ようやく彼女の最後の表情にたどりついた。
そのとき彼女は自室の窓辺で、目のきわに涙をうかべ、蒼白の頬をふるわせながら激怒していた。
トレヴァがバドの旅に追従するために伯爵都を離れるつもりで、だからその期間だけ婚約関係を凍結させてくれないかと切りだしたときのことだった。
「なにを言ってるのかよくわからないんだけど……」
彼女はトレヴァから目をそらして窓のほうをみつめた。
そして、冷静でいようと努めるあまり、爪が手のひらに食いこむほど強く手をにぎりしめていた。
「あ、いや、言葉どおりの意味だよ」
「意味のことなんかじゃないわよ。あなたってそんなにばかだった?」
彼女のつり目にトレヴァは臆する。
じっさい、手脚は小刻みにぶるぶるふるえていたかもしれない。
彼女の態度や物腰がこわかったのではなく、彼女にそんな想いを味わわせてしまったことがこわかったのだ。
「いや、婚約のときの取り決めのとおりにできないからさ、ちょっとのあいだだけなんだけど――」
トレヴァと彼女の婚約のさいに取り交わされた一族間の誓約のなかには、当然ながらトレヴァが義務教育を終えたら、すみやかにハースト家の銀行に入り、次期経営陣候補になるべく努力をすることが項目として盛りこまれていた。
だから、それを守らないことは、一方的な婚約破棄ととられても仕方がない。
とにかく彼女に累がおよばないようにするためにも、トレヴァは婚約を一時的に解消する必要があると考えたのだ。
そう遠くない未来にかならずもどってきて彼女を迎えるという確約をつけて。
いま思えば浅はかで稚拙な発想だったが、バドについていくためにはそうするしかないとそのときのトレヴァは本気で結論づけていた。
画一的な貴族社会のなかで、立場がどちらかといえば弱いほうのハースト家からのそんな不確かで不平等な提案が通用するはずもないとは思いもしなかったのだ。
彼女にはトレヴァのそういうところが理解できなかったのだろう。
「――そのお友だちとやらのために、あなたはそこまでしなきゃいけないわけ?」
彼女は「お友だち」という単語で語気をいやらしく強めた。
そのときのトレヴァはその冷淡さにむっとしたが、いま思えば論を待たないことだと納得できた。
彼女の性格は昔から知っていたのだし、トレヴァに非があるということは純然たる事実なのだから。
「……言いだしたら聞かないし、一人だと危なっかしいやつなんだよ」
トレヴァがそうつぶやくと、彼女の長いまつげがぴくぴくふるえた。
「だって、あなたとおなじ歳ならもう働いているってことじゃない。危ないっていったって、それくらい想像できなければうそだし、自分の選択に責任をもつなんてあたりまえのことだわ、もう子どもじゃないんだから」
「そりゃそうだけど……」
バドはまだ精神的には子どもなんだよ、とつづけようとしたが、そんなことを彼女にいっても結果は変わらないのでトレヴァは口ごもる。
「なんのボランティア精神かわからないけど、あなたにはがっかり。ほんとうに、心から。もうちょっと物がわかる人かと思ってた。責任の価値くらいはわかる人であってほしいわね、あなたも、そのお友だちとやらも」
トレヴァが黙ったので、彼女の怒りは増長した。
「ここであなたを強引にひきとめるなんてこと、わたしはしないわよ。そんなぶざまなこと絶対しない。そうよ、親が決めた封建的なしきたりなんだから、勝手にすればいいんだわ――」
トレヴァが興奮する彼女をなだめようと手をさしのべようとしたが、彼女はそれを払いのけた。「さわらないで!」
トレヴァが払われた手をみると、赤くなっていた。
憎悪がこもっている赤みだった。
「わたしからだって、婚約なんか破棄できるのよ。あなたが救いようのないばかだったって理由でね」
彼女にそこまで言わしめる悪魔がいったいなにかがわかっていなかったので、トレヴァは格式ばった家々のしがらみのくだらなさと、柔軟に生きられないみずからの運命の過酷さを内心嘆いていた。
バドを見捨てておけないという事実は、それほどの不協和音をひき起こす原因になりうるというのか――。
「あなたをひきとめるなんて絶対いや。あなたに執着してるみたいでとてもいやなの。ばかみたい。さ、もう、でてってよ。顔もみたくない。もう忘れてしまいたいの――」
すぐ近くにいるのに、どうあがいてもとどかない長さのクレバスができてしまったかのようだった。
トレヴァは、足さきからあがってきて腰と下腹部を重くし、胸を悪くする感情の嵐と戦ったのち、彼女の部屋をあとにした。
最後にみた彼女は、背筋をのばして窓のそとをみつめているうしろ姿だった。
彼女がなにをみていたかは、そのときのトレヴァには想像もつかなかった。
悲しみや虚無感といったもののなかに、取りかえしのつかないことを軽々しく考えていた自分を呪う気持ちもあった。
バドのことを稚拙だと笑えるような高邁な精神はみじんもなく、自分もまたバドとおなじように無鉄砲で無教養で無配慮な青二才なのだと、地団駄を踏みたい気分だった。
だれかの心を思いやることで、だれかの心を踏みにじってしまうのであれば、なんの意味もなく、なんの救いもない。
後悔するには遅く、いまになってトレヴァは彼女に悪口雑言のかぎりを尽くさせたものをようやく理解した。
トレヴァは、逆に彼女が自分に対してそういうことをしたとき、自分がどう感じるかまで想像できないでいた。
その想像力のなさが悪魔だったのだ。




