36 応援してあげた馬
トレヴァは少しまえのディレンツァの背中を追いかけるように駆けながら、ふと去りぎわのバドの言葉を思いかえす。
「そもそもおまえには婚約者がいたじゃないか。気が強くても、美人だし、なにより気も合うんだろ。それって幸運なことだぜ。いまなら、謝ればなんとかなるよ。親父だってゆるしてくれるさ。おれのせいで人生を棒にふることない――」
そして、なにげなくその内容について吟味してみた。
果たして、仮にここで自分が生まれた街、生まれた家にもどったとして、深々とあたまをさげ、場合によっては土下座をしてゆるしを乞うたとして、峻厳な父親や辛口の元恋人はトレヴァをふたたび家族の一員として迎えてくれるだろうか――。
いまの段階で脳裏をよぎる答えは、かぎりなくノーに近かった。
代々つづいてきた伯爵都大手の銀行業を営んでいるハースト家の当主であり、堅実で生真面目で、なにごとにおいても原理主義的なところがある父親は、そうやすやすとトレヴァの勘当を撤回することはないような気がする。
元恋人もあかるく、あけすけで、陰湿なところは少しもなかったが、几帳面で潔癖で融通がきかないところもあり、そもそも(直截的にではないのだが)トレヴァから別れを切りだされたことを、ある種の心的な傷(あるいは不義理)ととらえているようなところがありそうだったので、こちらもそう簡単には関係修復をほどこすことはできないだろう。
トレヴァは元恋人の勝気な表情を思いうかべる。
元恋人との出逢いは、トレヴァが12歳になってすぐのときだった。
場所は伯爵都にある競馬場だった。
トレヴァはその日、なにも知らされないまま、父親につれられて競走馬の祭典を観にいった。
幼いトレヴァは、コースを走る馬の群れがとどろかせる(腹に響いてくるような)足音が大好きだった。
興奮して歓声をあげる貴族たちの様子をみるのも好きだったし、いつもとはちがいよく笑う父親をみるのが好きだった。
そして、いつもはあまり買ってもらえない露店のジャンクフードを食べるのがなにより好きだった。
何レースかが終わり、昼休みに入り、会場全体が一息ついた雰囲気になり、全員の声がいつもより少し大きくなるほどの盛りあがりをみせていたので、トレヴァは思い切って父親に訊ねた。
「ね、午後のレースまでのあいだ、一人で馬をみてきてもいい?」
父親はとなりにいた友人(いま思えばおそらく要人だろう)と熱心に午前におこなわれた各レースの要点や馬たちの状態について議論していたので、子どもに邪魔されたくないと思ったのか「ああ、レースのまえにはもどりなさい、そのときに紹介したい人もいるから――」とトレヴァに向けて鷹揚に手をふった。
トレヴァはすぐに観覧席からでて、厩舎があるエリアに向かった。
馬のいななきやひずめの音が聞こえただけで、胸が高鳴る。
何人かの調馬師と通りすがりにあいさつした。
午後に出走予定の馬たちがいるところへ向かう。
ゲートに警備員がいたが、トレヴァがなにもいわないうちに笑って通してくれた。
なぜ笑っているのかわからなかったが、目礼をして通過して、つながれた六頭の馬たちのまえまでいったとき、ようやく判明した。
先客がいたのだ。女の子だった。
草をはんでいる馬をよく観察しようとしているのか柵にのぼり、まえのめりになっているので上半身はすぐにはみえなかったが、白地に薄紅色の模様がついた長めのひらひらしたスカートのすそが目に入った。
近くまで寄ると、少女は馬を間近でみようとしているどころか、身をのりだして馬の首筋をなでていた。
ひとつに結った髪が馬のしっぽのようにゆらゆらしている。
トレヴァの気配に気づいて、馬がぶるると顔をゆらす。
それに反応して、少女がちらりとトレヴァのほうをみた。
怪訝そうな目つきだったためトレヴァは若干たじろいだが、気にしないそぶりで「こんにちは」とあいさつした。
少女は返事はよこさず「ふん」と鼻を鳴らした。
馬もつづく。ぶるる。
しかし、ふしぎとトレヴァはその態度に拒絶を感じなかった。
そして、それが彼女なりの親しみの表現なのだと、しばらくあとに知った。
トレヴァは少女のとなりまでいって、「きみも馬が好きなんだね」と訊ねた。
しかし、少女はなにも答えなかった。
いちばんはじっこにいる馬が尿をする音がバリバリと厩舎にこだました。
トレヴァが会話のつづかない気まずい想いに両手の指を交差させていると、少女が柵からぴょんと跳びおりた。
スカートがふわりとふくらんで、ゆっくりとしぼんだ。
トレヴァはなんとなく優雅なその雰囲気にみとれてしまった。
「ね、この仔、いい顔してると思わない?」
すると少女は、唐突に目前の馬を推薦してきた。
トレヴァは「そうだね」とうなずく。
馬を観察するまえに答えてしまったが、仮にそう思わなかったとしても、トレヴァには同意する以外の選択肢などなかった。
草をはみつづけている馬をみつめる少女の瞳はキラキラしており、トレヴァはむしろそちらに目をうばわれてしまった。
そうさせられてしまう求心力のようなものがあった。
「この仔、午後のレースで、ぜったいくるわよ」
少女はトレヴァのおどおどした様子をちらりとみて、にやりとしながらそうつづけた。
とても大人びた笑みに、トレヴァはあいまいにうなずいた。
でも、こなかった。
彼女が見初めた馬は、6頭中3着だった。
馬をみつめながら彼女が放った魔法はただのまぼろしで、その魔力に魅せられたのはおそらくトレヴァだけだったのだろう。
しかし、トレヴァはレース終了時に少女の様子をおずおずとうかがったとき、彼女が「ちぇ、ふがいないのね、わたしが応援してあげたっていうのに」と負け惜しみのようなことをいい、トレヴァをみて「ねぇ?」と微笑をうかべたのをみて、その魔法はまだ生きているような気がした。
なにより、父親があとで紹介したいと話していた婚約者が彼女だったのだ。
彼女は父親に紹介されているときだけ貴族の令嬢らしく、高雅で可憐な淑女を演じた。
スカートのすそをつまんでぺこりと白鳥のようにあいさつしたし、そもそも話し言葉さえていねいで上品だった。
しかし、親たちから離れた直後にさりげなく、トレヴァの耳もとで「ふーん、あなただったんだ。でも、わたしがそんな封建的なしきたりに、その気もないのに従順になると思ったらおおまちがいだからね」と口をとがらせた。「せいぜい、わたしに見合う男になれるようにがんばりなさい」
トレヴァは思わず笑ってしまった。そしてやはり、彼女に好印象をいだいたのだった。




