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34 忘れられないまなざし

 トレヴァの目が脳裏から離れなかった。

 バドは走りながら、胸中に暗い霧のようなものがたちこめるのを感じる。


 トレヴァの冷静さが正しいことはどこかでわかっていた。

 いつでもそうだったし、それをいままで、だれより頼りにしていたのはバドだったからだ。


 しかし、そうしてばかりではいつか自分自身がたちゆかなくなってしまう……バドはトレヴァとたもとを分かとうとしていることを、そう考えて納得させようとしている自分に少し驚く。


 しかし、それは一方では真実にはちがいなかった。

 いつかどこかで別離を経験するのであれば、それがこの機会であることは悪いことではないはず。


 バドはいいわけにいいわけをかさねるようにして思考する。

 うそもいいわけも何重にも積んでいけば、いつかそれが自分の土台になるだろう。

 強固なうそや、ゆるぎないいいわけだっていい。

 虚飾の基礎に過ぎなくても、そのうえで歴代の勇者たちのように雄然とふるまえるのであれば、それでいいじゃないか。

 人生は何度もあともどりなどできない。

 そもそも人生であともどりなどできるのか?


(おれは……いまが楽しいならそれでいいとは思えないよ)

 バドはメオラの笑顔を回想する。そして、メオラとデュアンのありかたを否定したかった。

(不安ばかりがさきだって、笑ってられないんだ)


 しかしデュアンのことは切り捨てることができても、そのわきにいたメオラの影から目をそらすことができなかった。

 いつかメオラがかけてくれたやさしい言葉のいくつかが、バドの心をつきさす。


 バドはいままで、他人にやさしくされたことなど、数えるほどしかなかった。

 それが自分の(他者への思いやりを欠いた)行動のせいだったり、性格のせいだったりするとは、バドはあまり考えたことがなかった。

 

 メオラはバドを応援したいと言った。

 メオラの笑顔と、トレヴァの(失望のまざった)目がまぶたのなかでかさなる。

 バドは思わずうなる。

 そして、脚をいったんとめた。


 呼吸がいちじるしくみだれているせいで、意識裡も錯綜していた。

 肺が重たく、疲労から注意が散漫になっているため、いろいろなこと(それもいまは思いだしたくないこと)がつぎつぎに浮かんできた。


 バドがうつむいて両膝に手をおき、息をととのえていると、ふと「ああ、バドじゃないか」と町の知人の船大工見習い(〈夕凪館〉によく出入りしているような手合い)が話しかけてきた。


「……ああ」バドはそっけない返事をする。


 なるべくなら、話しかけられたくなかったので、鼓動がおさまったら適当にあしらって、さきをめざそうと思った。


「なんだよ、ずいぶん汗だくだな。まるで逃げまわってる泥棒みたいだぜ」船大工見習いは笑う。


 しかしバドはくちびるをかむ。

 不満をわざと顔にだした。


 それが通じたようで、船大工見習いは「ふぅ」とため息をつく。「さっきもおまえを呼びよめようとしたんだけど、無視されたからさ」


「ああ、急いでるんだ、悪いけど」

 バドは(だから、ほっといてくれないか)という言葉をなんとか飲みこむ。


「――ふん」しかし、その心の声もまた態度でつたわったらしく、船大工見習いは目にみえて不快そうに鼻を鳴らす。

 

 ただバドにとってはそのほうが好都合だった。


「悪かったな、いちいち呼びとめて――」船大工見習いはバドから目をそむける。「オレはおまえのことなんかどうでもいいけど、さっきトレヴァがずいぶん心配してるようだったからさ。オレも少し気にかけただけだよ。余計なお世話だったんだろうけどな。ただパートナーに無駄に気苦労かけるようなことは、オレならぜったいにしないぜ……」


 船大工見習いはそれだけ言い残してバドに背中を向けた。


 しばらくたたずんだのち、バドは右脚をふりあげて地面を蹴る。


(わかってるよ、そんなことは――)


 重い荷物を落としたかのような打音が響き、脚の神経がしびれる。

 痛みが胴体まで駆けあがってきた。


 バドは少しだけ冷静になる。

 そして、ふと通行人の多くがバドをみていることに気づいた。


 しかし、バドと目が合うと多くの通行人たちは関わり合いをおそれて目をそらす。

 知っている顔も見受けられたが、近寄ってはこなかった。


 バドは深呼吸をする。

 通行人たちはやがて、だれもバドのことに関心を示さなくなった。

 行き交う人々のなかでバドは立ち尽くす。

 町にはたくさんの話し声が交錯していたが、具体的な言葉はなにひとつ聞きとれなかった。


 ようやく、バドは自分が独りになったことを実感する。

 ゆくさきでトミーとつるんだり、〈鹿の角団〉の一員になったとしても、それは変わらないだろう。


 バドは鼻をすする。

 もう酒を飲みながらみずからの英雄的将来像について語る相手も、町角でひろったポルノ画をこっそり持ち帰って共有する相手も、ポーカーして「いかさましたな!」と小突きあう相手も……そしてなにより、子どもの頃からおなじ失敗をして肩を寄せあって笑いころげた相手もいなくなってしまった。


 バドはもう一度、鼻から息を吸いこむ。

 風にまざる塩けが現実感を増幅した。


 それでも、そうしていくのが人生なら、それでいい。


 バドはふたたび舗装路を踏みしめる。

 休みをくりかえしても走りつづけて、やがてすべてのものをふっきるしかない。


 しかし、湾岸事務所に向けて走りだしたバドは、ふと思う。


 トレヴァが安定した未来を選ばず、唐突に切りだしたバドの無謀な冒険につきあってくれようとしたのはなぜだろう……。

 

 港にでて、のぼり坂にさしかかって息があがるまで、そんなことを考えたりしたが、バドにはその理由が思い当たらなかった。

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