メンヘラだー!
黒田が本の話をしはじめた。「貧しき人々」は1846年にドストエフスキーが書いた話で、ドストエフスキーの処女作らしい。俺はなんとなくドストエフスキーにも処女作ってもんがあるんだなと不思議な気持ちになる。その話は手紙の往復する形式をとっていて、貧乏で体の弱い若い女がいて、その若い女に恋をしている貧乏で公務員をやってる爺さんが自分の財産をそっくりそのまま女に渡してしまう。女のほうもまんざらではなかったのだけれど、体が弱い他にも境遇が複雑で爺さんがくれた金では全然足りなくて結局別の男に嫌々と嫁いでいって爺さんも若い女も二人とも幸せにならない。
俺は黒田が突然そんな話をしだした意図をなんとなく察して続く黒田の言葉にひどく怯える。
“わたしたち、いっしょにいたらふたりともふこうになるとおもうの”
そんな風に黒田の唇が動いて関係が終わりになるんじゃないかって心臓がバクバクと早鐘を打って口の中がカラカラに乾く。そんなのおかしいじゃねーかこれまで散々愚痴聞いてやっただろと恩着せがましい言葉が喉の奥から出かかって寸でのところで引っかかって止まる。こんなにも怯えている自分がいることに驚く。
「一人で立てる力がいるんだ」
黒田は言った。
「寄りかかってばかりいられない。一人で立てる力がいるんだ」
その日から黒田は図書室にこもって教科書をひっくり返して勉強し始めて、黒田の向かいにいるのは意外なことに下川で英語がダメな黒田が「アルファベット見ると吐き気がする……」とか言い出して下川がくすくす笑って英語を教えてて、下川はダメな現代文の教科書を捲りながら「夏目さんの書いた話でこの冒頭で手紙受け取ってるのって誰よ?」とか言い出して黒田が「この話の主人公。っていうか語り手」、「は?」、「これ巻末の何十ページか切り取った内容なんだよ」、「なにそれ! ネタバレじゃん」とか話してるのを片耳で聞く。
「内川ってどんななん?」
下川が余計なことに切り込む。
「どんなって。うーん?」
黒田が考え込む。
「付き合ってんでしょ?」
「うん。一生へばりついてやるって決めたんだ」
黒田がねばっこい笑みを浮かべて下川は「メンヘラだ―!」ってどん引きしていた。
わざわざ図書室にまで黒田から借りていた本を返しに行って様子を覗きに行った俺は、これなんか俺じゃないみたいできしょく悪いと思いながら図書室を出る。
「恋しちゃったんだね?」
うんうん、わかるよー、って感じで訳知り顔で村雨が頷いてめちゃくちゃムカついた。