白魚
人の居ない、何とも寂しい駅舎です。ゲートの脇に釘で打ちつけてある錆びた空き缶に丸めた切符を入れ、赤い土に小石の混じった道へ出ると、丁度乗って来た汽車が長い汽笛を吹いて走り去っていきました。線路はうねる丘陵を蛇のように縫い進み、遠い山並みへと向かいます。あの山の先にはそれなりに大きい町があるそうだから、きっと他の乗客はそこで降りるのでしょう。
麗らかな日和でした。陽はまだ高く、大きな雲がその傍をのんびりと流れていきます。前を向くと、道の先はなだらかな傾斜を蛇行して広い盆地へと下り、赤いとんがり屋根の古風な家々の密集した小集落へと続いているのでした。
「あれを見て」
歩き出そうとした私の袖をつかまえて、お嬢さんが言いました。
見ると、遠くの空を一尾の巨大な白魚が鳥の群れを追って泳いでいます。
「大きいですね!」
「きっとグランデよ。珍しいのね」
お嬢さんの澄んだ瑠璃色の瞳が、少年じみた好奇に爛々と光っています。
「もっと近くへ来ないかしら」
「見つかると、頭をかじられるかもしれない」
「こんな低いところまで降りてこないわよ」とお嬢さんはこっちを睨みました。「図鑑で読んだもの。白魚はあんまり地上に近付くと重力につかまって墜っこっちゃうから、ずっと高いところしか飛ばないのよ」
「そう言われちゃいますがね。昔、丘にピクニックに出かけた連中が」
と私はお嬢さんの顔の正面に左の肘をひょいと突き出して丘に見立て、その上を人差し指と中指とを足とした右手に手首の方からてくてく上らせていきました。
「あんまり高くないから大丈夫だろうと油断してたら……ぱっくり!」言って、お嬢さんの目の前で肘に差し掛かった右手に『ぱっくり』食らいついてみせます。
ひょいと視線だけ上げると、お嬢さんは自分の右手をくわえた私のことを呆れ顔で見ているのでした。が、こらえきれなかった様子で小さくぷっと噴き出し、かと思うとついと顔をそらしました。
「違うわ。下手だからよ」
「それもご愛嬌」
涼やかな風が奔ると、お嬢さんの長い真珠色の髪に虹の紋がぱしゃんと波打つのでした。