宙を舞ういじめっ子
俺はリングに上がると、材質を確かめるために何度もマットの上を踏んでみた。
さすがにトランポリンほどではないが、踏むと力が返ってくる。
ひょっとすると動きにくくなるんじゃないかと危惧していたが、そのようなことは全くなかった。
よし、問題ない。
いつものように動けそうだ。
あとは構えだな。
正直、ボクシング自体たまに試合が目に入ってくる程度で詳しくはないのだが……あれはたしか両腕を軽く曲げ、頭や顎を即座に防御するような態勢で──
あれ?
俺はここでふと違和感に気がついた。
周囲がしんと静まり返っている。
見ると、コーナーの対角線上にいた大島をはじめ、その場にいる全員が目を丸くしていた。
そしてその直後――
〝ドッ〟
と笑いが沸き起こる。
「ギャハハハハハハハ! おいおい、あいつマジかよ!」
「ちょ、オオシマさんとマジで打ち合おうとしてんのか? 正気かよ!」
「頭おかしいんじゃねェの?」
「オオシマさん! その身の程知らず、やっちゃってください!」
なんだろう。そんなに構えが変だったのだろうか。
俺が疑問に思っていると、大島が面白いモノでも見るような顔で口を開いた。
「おう、悪ィな。つい面白くてよ」
「お、面白い……?」
「いやなんつーかさ、前にも気に食わねェヤツここに上げたことあったンだけどよ、どいつもこいつも腰抜けで、隅っこで丸くなってるヤツばっかなんだよ」
「はぁ……」
「だから面食らっちまってな」
なるほどな。つまり俺のナリキリが甘かったと。
それに大島が防具をつけていない事にも合点がいった。
誰もビビって打ち込んでこないんだから、そりゃ防具なんて必要ないよな。
……とはいえ、今もつける素振りは見せてないけど。
「ところでオマエ、リュウボコったんだってな?」
「いや、ボコ……になんてしてない……ですけど……」
「アイツはアイツで、俺には敵わねェがいいモン持ってンだよ」
「いいモン……?」
「俺ほどじゃねェが、あいつもかなり強ェつッてんだよ!」
「そ、そうなんですね……」
「だからトーシローのオマエがリュウをボコしたって聞いた時ぁ正直ビビったぜ。いくらエモノを持ってたとしてもな」
「エモノ?」
「……なあおい。なんで喧嘩でエモノ引っ張り出してくる卑怯モン相手に、俺が持ち物検査しなかったか、わかるか?」
「使われても勝てる自信があったからで──」
「ブブー! ちげェよ……ボケェッ!」
大島は急に姿勢を低くし、左右に体を揺らしたまま素早く距離を詰めてきた。
たしか専門用語だとダッキングって言うんだっけか。
ボクシングの事はよくわからないが、これでは動きを捉えたうえでパンチを当てるのは至難の業だろう。
それに、たしかにこれは一朝一夕で身につくような動きではない。
中学時代に全国で鳴らしていたというのもダテじゃない。
そんなふうに感心していると、大島の左ジャブが俺の顔面を捉えた。
〝パァン!〟
景気の良い炸裂音とともに、軽い衝撃が俺の首に伝わる。
そして間を置かずに、身体を捻って放たれた右ストレートが飛んできた。
「この世にはなァ! どんなことしても! 勝てない相手がいるッて! わからせるためだァ!」
右、左、左、右……。
さらに畳み掛けるように、ラッシュに次ぐラッシュ。
どうやら大島には遊ぶつもりも、時間をかけていたぶるつもりもないらしい。
速攻で俺の意識を刈り取るつもりでいる。
だが、これは……なんということだ。
まったくの予想外だ。
まさか――
まさか、ここまで、痛くないなんて。
最初は拳が当たる直前で受け流して、威力を最小限に留めておこうかとも考えていたが、これはいくらなんでも軽すぎる。
さきほどの俺の褒め言葉を返してほしい。
これならブレイダッド領の酒場にいる酔っ払い共のパンチのほうが100倍痛い。
こんなモノじゃ俺はおろか、低級の魔物すら狩れない。
まぁ、でも今の俺にとっては僥倖。
そもそも受け流すという行為は受ける側はもちろん、攻撃する側の手応えも軽いものになる。
正直そこが一番心配だったが、どうやら杞憂だったようだ。
これならいくらでも受けられる。
「ひょ、ひょえ~、こりゃかなわねっぺ~」
俺はなるべく自然に、情けない声を上げながら尻もちをついた。
そしてさらに目を異様にパチパチさせて、驚いている感じの演出も付け加える。
そうすると〝うおおおおおおおおおお!〟という野太い歓声が周りから沸き起こった。
ちらりと大島の顔を見ると、なんというか、すっかりその気でいるではないか。
こうなってくると俺も(?)つられてしまう。
観客の声援は闘士の気力を上げ、より高い興奮の状態へと誘う。
「立てゴラァ! まだまだ終わンねェぞォ!」
もはや一種のトランス状態になっていそうな大島は俺の襟首を掴み、無理やりその場に立たせようとする。
俺は俺で脚をガクガクと震わせながら、なんとか立ち上がった感じを演出する。
「か、かんべんしてけれ~」
この時、もちろん弱者リップサービスも忘れない。
「勘弁しねえ! 胃の中のモン全部リバースさせてやるぜ!」
「と、とほほ~」
場の空気はもう完全に温まっていた。
こうなってくるともう俺の手のひらの上である。
つぎに俺はあえて腕のガードを上げると、上腹部をがら空きにした。
ヤツのパンチに威力がないとはいえ、顔だとパックリ切れてしまう可能性があるからだ。
たしかに軽い裂傷くらいなら魔法で治療できるが、こんなことで魔力は使いたくないし大島自身さきほど胃を狙うと宣言していた。
なのでこれはまさにウィンウィンの関係。
〝ボスッ! ボスッ! ボスッ!〟
想定通り大島は俺のみぞおちのあたりを執拗に連打する。
衝撃は逃がしていないため音こそ派手だがダメージは毛ほどもない。
あとはこいつが満足してくれればそれで終わりなんだが――
……それにしても、なんなんだこの時間は。
すこしばかり火照っていた頭が急速に冷えていく。
抵抗しない人間を捕まえて、ただひたすら殴り続けている行為がそんなに楽しいのだろうか。
百歩譲って手を下している大島はいいとして、周りは胸糞悪くなったりしないものなのだろうか。
……いや、違うな。
これはそういう一方的なものではない。
こいつらにとって俺は三柳に怪我を負わせた悪者で、大島はそんな悪者を制裁する謂わば正義のヒーロー。
現在、この空間では、そんな勧善懲悪のヒーローショーが催されているのだ。
……うん、なんか自分で言ってて悲しくなるな。
少なくともこの状況、とてもじゃないが姉ちゃんには見せられ――
「ちょっと! あなたたちここで何してるの!」
突然、部屋の外からそんな声が聞こえるや否や──
〝バァン!〟
部屋の扉が勢いよく開く。
「マコト!」
物凄い形相で飛び込んできたのは、紛れもなく姉ちゃんその人だった。
意気揚々と飛び込んできた姉ちゃんは俺を見つけるなり、その場でフリーズしてしまう。
それにつられたのか、この場にいる大島をはじめ全員の動きがとまった。
まずい。非常にまずい。
何がまずいって、昨日の今日で死にかけの顔をしていた弟が、今まさに、その原因と思しき男子生徒たちにボコボコにされているからだ。
このままでは昨日以上に発狂するか、最悪、この場にいる人間全員殺害しかねない。
「マコト、ソノヒトタチ、ダレ?」
姉の盤外からの一手。
返答を誤れば死。
しかし俺がこんな極限の状況下で気の利いた言い訳など思いつくはずもなく、俺は気が付くと――
〝ドシャア……!〟
目の前の大島を殴り飛ばしていた。
コーナーからコーナーへ。
大島の体は綺麗な放物線を描きながら飛び、声を上げることなくマットの上に叩きつけられた。
まずい。殺ったか。
いや、さすがにそれはないと信じたい……が、今はとにかく弁明が先だ。
「ご、ごめん姉ちゃん! これはほら、アレだから! ふざけてただけだから!」
「え、いや、でも一方的に殴られてなかった……?」
「いやいや! 見た!? いま飛んでったやつ! ちゃんと見てた!?」
「う、うん……」
「普通に人殴っただけで、こんな吹っ飛ぶはずないじゃん!」
「それはそうだけど……でもそれ、昼休みに練習場貸し切ってまでやる事?」
「だ、だれにも邪魔されたくなくてさ! 秘密の特訓? みたいな?」
「特訓? あんたもしかしてボクシング始めるつも――」
「て、ていうか姉ちゃん、出てってよ! 練習の邪魔だから!」
「れ、練習? でもさっきふざけてるだけって……」
「あー、もう……!」
これ以上問答していてもキリがない。
俺は急いでリングから降りると姉ちゃんのところへ――
「て、てめェ! リングから勝手に降りてンじゃねえぞ!」
我に返った取り巻きに進行方向を塞がれる。
悪いがいまこいつに構っている暇はない。
俺は魔力を目に集中させると、カッと見開きそいつの目を睨みつけた。
「……ひィッ!?」
取り巻きは顔を強張らせると腰を抜かしたのか、その場に尻もちをついた。
これは俺の胆力……ではなく、一種の催眠魔法。
目から脳に直接働きかけ、恐怖を植え付け……って、今はそれどころじゃない。
「ちょ、マコト……その子おしっこ漏らし――」
「はいはい! そいつも恥ずかしがってるからもう出てって!」
俺は姉ちゃんの体をくるりと反転させると、そのままぐいぐいと肩を押し、部屋から出た。