空に浮かぶ城 1
白い世界が周囲に広がっていた。
雪のように白い壁と床。白と青と銀で統一された内装。氷を連ねたようなシャンデリア。去年の春に、森に出現した氷の城を連想した。
王侯貴族が使うような、天涯付きの立派なベッドが見える。そこで眠っていた者が目を開けた。
起き上がり、白金の髪が肩にかかる。街の上空に浮かんでいた魔女と同じ顔、同じ姿。だけどどこか雰囲気が違った。
彼女は視線に気づき、こちらを向いて微笑んだ。
「ああ――あなた。この氷の城のものを食べたのね」
そういえば、とアスタは氷の城に取り込まれていたときのことを思い出した。夢か現実か定かでない中で、城の厨房にあった食材を使って料理をして食べたのだったか。
ふと、前世で童話や昔話について考察した本に書かれていたことを思い出した。異界の食べ物を口にすると、異界の存在になる。あるいは――食べるという行為は、そのものの力を得ることと同義。
「道がつながるかもしれない。そのときは……」
言葉がかき消されていく。意識が覚醒していく。夢から醒めていくのを感じた。
アスタが目覚めると、紫の瞳と目が合った。
「……カティヤさん?」
「あら、気がついたのね。よかった」
ベッドの近くに椅子を持って来てアスタの様子を見ていたカティヤは、安堵した様子で微笑んだ。
ここは館の自室だ。なにがあったのだったか。なぜカティヤがここにいるのだろう。狭い部屋に令嬢の真紅のドレスが不釣り合いだが……。
そこまで考えて、アスタは意識を失う前のことを思い出した。
「ヨルンさんは!?」
叫ぶように疑問を口にし、アスタは跳ね起きた。ぼんやりしていた頭が急速に覚醒する。あれからどのくらい時間が経ったのか。ヨルンの所在は。
「館の中にはいないわよ。他のホムンクルスに訊いたところ、主は帰還しておりませんの一点張りね」
「そうですか……」
やはりあのとき連れ去られて、帰って来ていないらしい。庭で倒れていたアスタを、他のホムンクルスが二階のベッドまで運んでくれたのだろうか。
多少は戦い方を習ったつもりだった。でも上空に浮かぶ黒い翼を前にして、なにもできなかった。人より多少強い力があって怪我の治りが早くても、強大な存在の前では、無力だ。
「それで、なにがあったの?」
「あ、はい。実は……」
気を失う前に目にしたことを、カティヤに打ち明けた。ヒスキがヨルンを攫ったことをカティヤに言っていいものかとも思ったが、領主の館で起きたことをカティヤに聞かされ、アスタも包み隠さず話した。
カティヤもここに来る前にヒスキの家へ赴いたという。鍵がかかっていない集合住宅の一室からヒスキとネアが消えていて、兄妹の親と思われる男がベッドで寝込んでいるのを確認したそうだ。
「そう。広場を襲撃した者――魔女と呼ばれていた女性が、ネアに似ていたの」
「はい……」
その上でネアが姿を消している以上、彼女はネア本人だったのだろうか。そう考えるのが自然に思えてしまう。否定できる証拠があるのなら提示して欲しかった。
「ネアさんもですけど、どうしてヒスキさんとラミさんが……」
「アスタが考え込んでも仕方がないわ。そうした事情は、得てして他人が理解できるようなものじゃないのだから」
突き放したような言い方に、意外に思ってカティヤを見つめた。カティヤは友人たちが魔女と手を組んだらしいと知り、ショックではないのだろうか。
情報共有を図っている最中に、アスタが意識を失っている間に一晩経過していたことが判明した。現在は、ヨルンが連れ去られた日の翌日の午前中だという。
「午前中? そのわりに薄暗くないですか?」
ベッドから降りたアスタがカーテンを開けて窓の外を見ると、空には暗雲が広がっていた。外は日中だというのに夜の帳が降りる直前のように暗い。
「これは……」
「今日はずっとこうなの。それから、見て」
カティヤが指さしたほうを見ると、暗雲の中に城のシルエットが見えた。
「街に出現した黒い翼の魔女が住まう城だと、みんな噂しているわ」
アスタは息を呑んだ。
「これからどうなるんでしょうか」
「魔女があんな力を使えるのなら、街一つ焼き払うこともわけはないでしょうね」
「そんな……」
「とにかくアスタの無事は確認したことだし、次はハイメリン家へ行ってみるわ。ファニーに話を聞いてみたいの。もっとも、ラミが魔女側についた原因については察しはついているのだけれど」
「なにがあったんですか? 最近、ラミさんは社交に出るようになって忙しいとは聞いていましたけど」
「半月ほど前、ファニーが怪我をしたの。ラミはその原因が自分にあると思っているのかもしれないわ」
一ヶ月半前のパーティーで会ったときは、ラミとファニーはこれまでと変わらない様子で楽しそうにしていた。アスタを祝ってくれて、今度ハイメリン家でパーティーをする際はみんなを招待したいと言ってくれた。
それからの短い期間でそんな事態になっていたなんて、知らなかった。
そうした話をしていると、部屋の扉がノックされた。ノーラが顔を出す。
「アスタさん、ディック様がいらしています。カティヤ様がここにいらっしゃるのではないかと探しにいらしたようですが、アスタさんとも話をしたいと」
「ディックさんが? すぐ行きます。あ、いや、着替えだけさせてください」
寝起きだったことを思い出した。しかも昨日街に行くときに着ていた服のままだった。
「私が先に行って、アスタから聞いたことと街の現状を話しておくわ」
「はい、お願いします」
アスタが急いで着替えて髪を梳かして階段を降りて行くと、応接間で貴族の若者が我が物顔でお茶を飲んでいた。相変わらず、この館に不釣り合いなきらびやかな装いだ。カップから顔を上げて、ディックは片手を挙げた。
「おお、アスタ。話は聞いたぞ。互いに災難だったな」
「互いにって、ディックさんの屋敷でもなにかあったんですか?」
「うむ。魔女に襲撃され、家宝を奪われた」
さらりと大変な事態を告げられた。
「ここ何年か、国内のあちこちの街でそうした被害が出ていたらしいわ。近隣の街で頻発するようになったのはここ最近ね。犯人が明確な意思を持って、古くから受け継がれてきた宝石を集めていたのだとしたら。それにより、伝承に語られる魔女が蘇った――あるいは魔女が蘇った後に、残りの宝石を回収したのかもしれないわ」
カティヤが予想を述べる。ヒスキがリンドグレン家の宝石を奪った話と合わせると、あり得そうな話だった。
ディックの話によると、王都の貴族街に火が上がり、黒い翼の魔女の姿が目撃されたという。火を放たれた屋敷の中に、十代半ばの子息がいる子爵家の家があると聞き、カティヤは顔を曇らせた。
「街の外に危険区域にいるはずの魔物が出現したという話も聞いたな。遠方の空に竜が飛んでいたとか。王都では既に、騒ぎが収まるまで街の外に出るなとお触れが出たが」
「そんなときに、よくディックさんはこの街まで来ましたね」
感心と呆れが入り混じった声をアスタはディックにかけていた。
「魔女はクーユオの街のほうから来たという目撃情報があったのでな。アスタたちが無事か心配して駆けつけたというわけだ。もっとも、魔女が誰かに似ている気がしたものの、ヒスキの妹とは思いもしなかったが」
魔女のことを思い出してか苦い顔をして、ディックはカップを傾けた。
「それからここ最近、各地での地震や噴火や土砂崩れ、大雨や暴風などの異常気象、冬の間には雪崩などが頻発したが、それも魔女の仕業ではないかと言う者もいるな。去年の雪が春になっても溶けなかったこともだ」
「待ってください。魔女が出現したのはつい最近でしょう。そんななんでも魔女の仕業にしないでくださいよ。去年の雪は原因はわかっていますし……」
「なんと。王都の気象研究所でも解明できなかったことがか?」
ユッカが原因だと事細かに言うわけにもいかないだろうが、ヨルンはあのときの一件をどう領主に報告したのだろう。王都まで詳しい話が伝わっていないようだ。
「よくあることよね。あり得ない事態が起こると、悪いことすべての元凶のように扱われる、なんて」
嘆息しつつ、カティヤがまとめる。
ヨルンは家族と強盗を殺したのではないかと噂されていた。ハイメリン家の呪いの宝石と呪われた子供は、その頃起きた不幸の原因ではないかと屋敷内で囁かれていた。
魔女による被害は実際に多々あったが、それ以外の異常事態や不幸も魔女のせいにされそうなのは、アスタにも実感できてしまった。
人間はわかりやすい理由を、因果関係がはっきりした物語を求めるものだから。