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3  殺意

 ――だが、短剣はジュールの胸に届かなかった。


 寸前で手首を掴まれ、短剣は叩き落とされる。

 そのまま私の体はねじ伏せられ、喉からは「ぐっ」とも「うっ」ともつかない呻き声が洩れた。


「なぜ……っ」

「なぜ? そんな殺気を漲らせて、気付かないとでも?」


 私は唇を嚙みしめた。ジュールは最初から分かっていて、自分の誘いに乗ったのだ。ただの色欲に溺れた男ではなかったのか。やはり腐っても副将軍。戦地を生き延びるのは運だけではない。

 あともう少しで届いていたはずだった。この男の命を消すことができたはずだった。絶好の機会を逃したのだ。悔やんでも悔やみきれない。

 やはり自己流の鍛え方では足りなかったのだ。毎日毎日、裏の林でひっそりと剣の腕を磨いてきたつもりだった。だが、私は失敗した。最大の、そして唯一の好機だったのに。何年もこの機会を待っていたのに。男が丸腰になり、最も油断する、この時を。


 私の願いは叶わない。

 殺したいほど憎い男が、すぐそばにいるというのに……!


 私は絶望のあまり枕に顔を押し付けた。


『お嬢様!』


 側仕えをしていたオッジの、しわがれた声が頭の中でこだまする。

 私は、今は亡いアミザ王国の貴族の家に生まれた。アミザはこのディダルーシ王国とは違い、小国でありつつも各国の中央にあるために貿易が盛んで豊かな国だった。

 だが、今から10年近く前のこと。アミザでの利権を巡り、各国が対立し、戦争が起きた。各国が大軍を率いて押し寄せ、アミザは戦場となった。

 まだ幼かった私は両親と離れ、貴族の子供達を集めた避難所で戦火を逃れた。戦争は3年ほどで終結し、ようやく両親と会えると喜んでいた矢先。

 粗末な馬車で王都へ向かうと、そこにかつてあった王都はなくなっていた。

 がれきを避けながらやっとの思いで屋敷に帰ると、屋敷は荒れ果て、目ぼしい家財道具は全て持ち去られていた。戦争の爪痕を見せつけられ子供心に大きな衝撃を受ける。だが仕方ないと自信に言い聞かせた。家族さえ無事ならば、他には何もいらない。両親も状況が悪化した頃に郊外へ避難していたはずだが、戦争が終わった今、すでに戻ってきているはずだ。今日戻ると手紙で伝えているのだから。私は変わり果てた屋敷への悲しみを堪え、両親との再会に胸を躍らせていた。

 しかし、そこに両親の姿はなかった。父の側仕えだったオッジがただ一人、怪我をしているのか包帯だらけの状態で待っていた。


『お嬢様、ああ、よくぞご無事で!』

『その怪我はどうしたの、オッジ? それにお父様とお母様はどこ?』


 私との再会を果たし感極まった様子のオッジに両親のことを尋ねる。するとオッジは目に大粒の涙を浮かべた。


『ああ、お嬢様! 大変なことが起きてしまったのです……! あってはならないことです! ご主人様と奥様が……!』

『どうしたの、お父様とお母様に何があったの、オッジ!?』


 怪我でもしてしまったのだろうか。だからここにはいないのだろうか。

 両親はもともと戦争反対派だった。それに貴族なので、降伏の意を示せば命までは奪われることはないはずだ。


 オッジはためらい、喉をごくりと鳴らした後で、声を絞り出した。


『殺されてしまったのです……! ディダルーシ王国の軍人、ジュール・アシュリーヴスに……!』


 ……その後の記憶はひどく曖昧だ。私は泣いたのだろうか、喚いたのだろうか。

 3年は長かった。幼い自分にとっては、両親の顔の記憶さえおぼろげになるほどに。でもまさか、永遠に会えなくなるなんて、思いもしなかった。




 私は目の前で自分を冷たく見下ろしている男、ジュール・アシュリーヴスを睨みつけた。

 ジュールはアミザでの功績を受け、東軍の将軍に就任し、伯爵位に叙せられた。彼が親から譲り受けた爵位は男爵である。生涯で一つ爵位が陞爵することはままあるが、二つも陞爵するというのは、異例中の異例だ。それほど称えられた武勲のために、数えきれないほどの命が費やされたのだ。私のかけがえのない両親の命は、その中のほんの一部に過ぎなかった。きっとこの男は覚えてさえいないのだろう。

 両親の命を奪った男。自然豊かで平和だったアミザ国を、消滅させた男。もちろん、この男だけが我が国を滅ぼした訳じゃないことくらいは分かっている。アミザの国力がディダルーシに劣っていたことは明白だ。

 だが、この男さえいなければ私の両親は今でも生きていたはずだ。仮にも貴族、降伏の意さえ示せば命までは取られなかったはずだ。そうであれば、私は娼館(ここ)に存在することもなかったのだ。


 この男は。この男だけは、(ゆる)せない。……赦してはならない。


 今すぐ斬って捨てられるだろうが、命が尽きるその瞬間まで目を逸らさず、呪いの言葉を吐き続けてやろう。両親と同じ天国に行けなくても構わない。この男に呪詛をかけられるのなら、笑顔で地獄に堕ちてやる。


 だが、ジュールは自分の剣に手を伸ばさなかった。


「沙汰は追って知らせる」


 そう言い置くと、寝台から下りて手早く着衣を正して部屋を出ていった。部屋には、唖然とする私が取り残された。


 なぜ、今すぐ私を殺さない?

 殺す価値もない? 馬鹿にしている。今までたくさんの人を殺したというのに。


 私は悔しさのあまり、爪が食い込むほど拳を握りしめた。

 それとも見せしめに全国民の前で死刑でもするのだろうか? 歓声で沸き立つ群衆の前で、娯楽の一環として。あるいは、自分の力を誇示する道具として。

 ……そっちがその気なら、受けて立ってやる。

 自害などしてやるものか。絞首刑だろうが斬首だろうが、最後の最後までこの男を恨み続けてやる。

 そして、無残な死に様を見せつけてやる。

 死んでからもなお、夢に見続けてうなされるくらいに。私はジュールへの恨みを胸に刻み続けた。そうしなければ、復讐を果たせなかった自分を到底許せそうになかった。




 娼館の朝は遅い。夜遅くまで客の相手をしているからだ。明け方に客を見送ると、さっきまでどの部屋でも嬌声が響いていたのが嘘のように静まり返る。夜の灯りの下では華美に見える部屋も、朝の光の下ではその貧相な正体を露見させる。夢の時間の終わりを告げているようで、もの悲しい雰囲気を醸し出していた。


 復讐を失敗したため完全にやる気を失い、まだ惰眠を貪っていた私の元に訪れたマダム・シンシアは、驚くような話を持ち出した。


「リゼ。あなたの身請けが決まったわ」

「えっ」


 私は思わず大きな声を出してしまった。

 身請けとは、娼婦が男に金で買い取られる行為を指す。奥方にするためではない。小さな屋敷や部屋を与えられ、愛人として暮らしていくことになる。身請けされるのは、ごく一部の選ばれた女のみ。何しろ、莫大な金を娼館に請求されるのだ。気に入った女に会いに娼館へ足繁く通う男は多いが、大金を投げうってでも手に入れたくなるほどの女は滅多にいない。

 全ての娼婦にとって、身請けは夢のような出来事だ。毎晩違う男の相手をしなくて良くなる上に、自由に外出したり贅沢したりもできる。男が飽きて捨てられないように努力しなければならないが、それは娼館にいたところで同じこと。

 そう。身請けなど、私にとっては夢のまた夢。いや、夢にさえ見たことがない。何しろ、私は娼婦ですらないのだから。

 そもそも、私はもうじき死ぬ運命にある身。早々にお断りをしなければならないだろう。

 でも、一体誰がそんな奇特なことをしようというのだろう。


「誰が私を? 占いの客の人?」


 先日来たあのいけ好かない成金男だろうか。それだったらお断りだ。

 シンシアは答えを焦らすように微笑んだが、我慢できない様子で相手の名を口にした。


「ジュール・アシュリーヴス様よ」

「は? まさか。冗談はやめてよ、シンシア」


 この世で一番ありえない名前だ。ジュールなら私を身請けではなく処刑にするはず。


「冗談じゃないったら。たった一度で気に入られるなんて、すごいわね」

「……そんな、まさか」


 でも、シンシアの表情は、とても嘘をついているようには見えない。

 これはどういう策略なのだろうか。

 追って沙汰を知らせると言っていた結果が身請け? そんなはずがない。

 もしかしたら身請けというのは建前で、ジュールの邸宅に引き入れられた途端、人知れず虐殺されるのだろうか。でも、それなら昨日の時点で殺した方が手間がいらないはず。より残虐な処刑道具でもあるのだろうか。そもそも、身請けという建前のために大金を払うはずがない。適当な罪名でも拵えて私を捕えさせれば済む話だ。

 では、私の女神と呼ばれる能力を欲して? ……いいや、あの男は私の力など信じてはいないだろう。自分で見たものしか信じない、あれはそういう男だ。


「運をつかんだのよ。行きなさい。あなたはこの狭い館で一生を終えるような身分の女じゃないはずよ」

「……っ」


 私は息を飲んだ。シンシアは私の素性なんて一つも知らないはずだからだ。

 だけど、ここに来た時には、洗濯の仕方も、食事の作り方も知らなかった私を面倒見てくれたのは他の誰でもないシンシアなのだ。元貴族という身分を隠してはいても、何かを感じていたのかもしれない。


 彼女は、私がジュールに本気で見初められたと思い込んでいるようだった。それなら、そう思い込ませていた方が彼女のためになる。

 他の娼婦たちもシンシアと同じように私が幸福になる権利を得たと考えているようで、口々に祝福の言葉を寄越した。

 私は周囲の誤解をあえて解かないことにする。

 人知れず命を奪われるなら、私が貴族に身請けされ愛人として幸せに暮らしていると思わせていた方がいい。


 私は申し出を受け入れることにした。


 これは再び与えられた絶好の機会(チャンス)かもしれないのだ。私はまだ、復讐を諦めていない。

 ジュールはこの娼館には二度と足を踏み入れないだろう。つまり、この申し出を断れば、私は二度とジュールには近付けないということだ。

 殺されようが、何をされようが、近付かなければお話にならない。


 他に選択肢はなかった。

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