2 接近
とうとう男が私の元にやってきた。夢にまで見た男だ。
一度も見たことはないはずなのに、会った瞬間に「この男だ」と分かる。
「初めまして、ジュール・アシュリーヴス様。わたくしはリゼと申します」
私は椅子から立ち上がり、恭しくお辞儀をした。
他の客は一階の応接間で娼婦と会話と言う名の品定めをしている真っ最中だろう。ひどく賑やかな声がここまで聞こえてくる。
「休憩室を、と頼んだはずだが?」
不機嫌そうな低い声が、室内に響く。
部屋に通されたのは、猛々しいという表現がぴったりの黒づくめの男だった。
熊みたいなむさくるしいほどの大男というわけではない。確かに上背があり、服の上からでも分かる屈強さを持っていたが、日々の鍛錬でその肉体を手に入れたことが窺える。本来は細身なのだろう。おまけにその顔はよく見れば整っているらしい。娼婦の姐さんたちが騒いでいたことでそれを知ったが、この男の容貌なんてどうでもいいことだ。
雑にかき上げられた黒髪と凛々しい眉、その下から覗く鋭い黒の眼光は、好みが分かれるところだろう。印象は、獅子に近い。
皆が貴族服で娼館へ来る中、一人だけ真っ黒な軍服というのは、ある意味異様だった。膝まである上衣も、腰のベルトも、ズボンも長靴も、外套まで全てが黒づくめ。……いや、唯一外套の裏地の赤が時折見える。まるで血のような気味の悪い色だ。
この男の名は、ジュール・アシュリーヴス。ここディダルーシ王国が擁する、死神というあだ名を持つ東軍の将である。
こいつが。この男が。
溢れ出しそうな激しい感情を必死で抑え込み、私は嫣然と微笑みかけた。
外套を身に着けたままということは、長居をするつもりがないということである。
「どうぞ、こちらで心ゆくまでご休憩くださいませ」
私は流れるような動作で椅子に手を乗せた。
相手の視線が私に注がれているのが分かる。
自分で言うのもおこがましいが、男を虜にする魅力が溢れているはずだ。くびれた腰も、胸元からのぞくこぼれ落ちそうな膨らみも、華奢な肩も、男の欲望と征服欲をかき立てるに違いない。
全てはこの男に気に入られるために。この男に、組み敷かれるために。何もかもただこの日のためだけに磨き上げてきたのだ。
さあ、私を欲しいと言いなさい。私を抱きなさい。
だが、私の目論見は外れてしまった。
「今宵は女を抱く気はない。付き合いで同行したまでのこと」
ジュールはひどくつれない態度を取る。
だけどここで帰られるのは困るのだ。私は慌てずにゆったりとした動作で立ち上がり、紅茶を淹れる準備をする。
「では、頃合いまでわたくしとお話でもいかがですか。まさか皆様のお楽しみの時間を奪うなんて、無粋なことはなさらないでしょう? ただお待ちになるよりは退屈しないかと」
「……」
部屋の中に芳醇な茶葉の香りが広がる。高級娼館らしく、茶葉は最高級品。それを自分好みに調合しており、占い客にも好評だ。
相手はしばし考えた後、向かいの長椅子へ腰を下ろし、紅茶に手を付けた。
沈黙は了承のしるしである。
上官がここにいる以上、勝手に帰ることは許されない。ただじっと待つよりは暇つぶしになるとの判断だろう。
だが、それだけで終わらせてなるものか。笑顔の裏に殺意を押し込める。
ジュールは紅茶を一口飲み、一度動きを止め、そして再び飲み始めた。気に入ってくれたようだ。死神のくせに舌は肥えているらしい。彼が持つと紅茶のカップが小さく見えた。
私は自分のカップを胸元まで持ち上げた。フリルやレースで透けた衣装へ相手の注意が向くように。
「何でも、ジュール様は三年ぶりのご帰還だとか」
「……ああ。先の戦争から戻ってすぐにクラリスへ向かったからな」
眉間に皺は寄っているが、会話に応えてくれる気はあるようだ。
先の戦争、という言葉にわずかに反応してしまいそうになり、私は紅茶を優雅に飲んだ。その戦争こそが全ての始まりだった。
「久々の母国はいかがですか? 食事や寝床など、異国では不便なこともおありだったでしょう」
「別に、なんということはない。軍に従事して以来、異国生活が続いている。すでに慣れた」
ジュールはこともなげにそう言った。どうやら本心らしい。
遠征は長くなればなるほど体力も精神も削られていくだろう。細かいことは気にしない質なのか、豪胆なのか、それともそれが日常になってしまっているのか。
「そうですか。ですが、見たところ疲れがたまっているご様子。よろしければ、どうぞこちらへ。わたくしが疲れを癒して差し上げましょう」
私はジュールを寝台へと誘う。
ここは娼館だ。ただ身体を揉みほぐすためだけに寝台を利用すると考える者などいやしない。
ジュールは正確にこちらの意図を読み取り、怪訝そうな顔をした。
「女神は客を取らないと聞いたが」
「わたくしのことをご存知でしたか。それは光栄ですわ」
「あいにくと、ここに来る直前に聞いただけだ」
私のことなど、知らなくて当然だ。なのになぜ、こんなに苛立つのだろう。私は一日たりともこの男のことを考えなかった日などないというのに。まるで裏切られた気分だった。
心とは裏腹に、私は微笑んだ。
「久々のご帰還ですもの、お気になさらないでください。確かにわたくしは客を取りません。ですが、あなたは特別なのです。いつかお会いしてみたいとずっと思っておりました。数々の武勲を立てた名将軍ですもの」
間違ったことは何一つ言っていない。
いつか会いたいと思っていた。それはもう狂おしいほどに。
黒い瞳を真っ直ぐに見つめると、それが分かったのだろう。その時、ジュールの軍服には勲章が付いていないことに気付いた。飾り切れないほど貰っているだろうに。まあ、今はそんなことを気にしている場合ではない。ここが正念場だ。
ジュールは何も言わずに立ち上がると、寝台の方へ歩み寄ってきた。女はいらぬと言いつつも誘えば乗ってくる。この男も例外なく薄汚い男たちの一人だったのだ。いや、それでいい。好都合だ。
どうせ戦地でも数多の敵国の女を虐げ凌辱の限りを尽くしたのだろう。そんな最低な男に同情の余地はない。
彼が脱いだ外套を受け取り、壁に掛ける。
「うつ伏せに寝てください。背中をほぐしますから」
ギシリ、と寝台が音を立てる。私以外横たわることがなかったその寝台に、体格の良い男が乗ったのだから当然だ。
私は薄布を外して寝台に上がり、ジュールの横につくと、その背中に手を置いた。
ジュールの背中は大きく、硬い。
私のこの華奢な身体など、すぐに壊されてしまいそうだ。
だから、一瞬の隙を狙う。失敗は死を意味する。機会は一度きりだ。
丁寧にマッサージしていると、いつの間にか、互いの位置が入れ替わっていた。
「ふふ、まだ終わっていないのに、せっかちね」
丁寧な口調を改める。これからより親密になる男女には無用のものだ。しのびやかな夜が始まる合図である。
私はジュールの頭を両手でそっと引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねた。嫌悪感はない。むしろ自分の目論見通りに進み、気分が高揚してくるのを感じる。
冷たく乾いたその唇をほぐすように、ついばむように何度も口づけをする。口づけは次第に深くなり、ようやく離れた時には息が上がっていた。
「娼館にいるにしては、拙いな。それが手練手管というものなのか?」
「ごめんなさい。……実は、初めてなの」
「まさか。女神は男を騙すだけでなく、冗談も上手なんだな」
ジュールは鼻で笑い、取り合わなかった。完全に嘘だと思っているようだ。
嘘ではない。私は生まれてこの方、男性経験がない。口づけさえも。
危険な場面はいくつかあった。だが、常にすんでのことろで切り抜けてきた。
男に抱かれるなんて死んでもごめんだ。男なんて、女を組み敷くことと戦争のことしか頭にない、薄汚くて下等な生き物だ。
そう考えるのも、全てはこの男のせいだった。この男のせいで、私は全ての男を憎んできたのだ。
「私が初めてかどうか、確かめてみて」
私はジュールの手を胸元に引き寄せる。
時には妖艶に、時には純情に。男にとって魅力的な女を演じながら、私は心が急いていた。
早く、早く、早く。
一刻も早く、この男の息の根を止めてやりたい。
私はジュールの上衣のボタンを一つ一つ外していった。
露わになった胸元には古いものから新しいものまで、傷跡がいくつもある。この男がいくつもの戦地を切り抜けた証だ。
私の胸にもある。目には見えないけれど、この男の命でしか埋まらない、大きな傷が。
ジュールの傷跡を指で撫でると、ジュールは誰にも聞こえないほど小さく吐息をもらした。
「ジュール様。今宵だけでも、私をあなたのものにしてください」
私は自分の服に手をやった。胸元の紐を引くだけで左右にはだけ、大きく膨らんだ胸が露わになる。
ジュールは私の身体に覆いかぶさった。そして、身体をまさぐる。
私は声を上げた。恥じらいながらも女の悦びを伝えるための声を。
もっと、もっと。私の身体を暴くことだけを考えなさい。私の身体に溺れなさい。
そして、ジュールの手が私の最奥に近付いた時。
私は枕の下から隠していた抜身の短剣を素早く取り出した。
天下の死神将軍が、娼館の女に討たれるなんて、醜聞もいいところだ。
さっさと死になさい。そして地獄で己の所業を悔いるがいいわ。
「死ね! ジュール・アシュリーヴス!」
私は短剣をジュールの胸に向かって突き出した。