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1  予感

 殺したい、男がいる。


 私は、その男の死だけを望んで生きてきた。

 それこそ、寝ても覚めても、その男のことだけを考えていた。

 あの日からずっと、顔も知らないただ一人のことだけを、毎日、毎日、毎日。

 気の遠くなるくらい、ずっと。

 そう、それは、まるで……。




 その娼館は、街の景色に溶け込むようにひっそりと建っている。

 大仰な看板などは一切無い。門は馬車がそのまま通り抜けられるほどの広さはあるが、建物の入り口は狭い。まるで灰色の壁と小さな窓しかないその建物の中で行われる、秘め事を覆い隠そうとしているかのように。


 館の内部、一階には応接間が広がっている。厚みのある豪華な絨毯敷きの部屋にはやたらと椅子(ソファー)が多い。客と娼婦がそれぞれ出会い、語らうためのものである。互いの品定めをし、行為の前の酒―いつかの誰かは食前酒と言った―を楽しむための場所だ。

 そこで今夜の相方を決め、階上の個室へと消えて行く。後から漏れ聞こえてくるのは、忍び笑いと嬌声ばかり。


 その娼館の、二階の北側の奥。

 明かり取りの小さな窓が飾りに思えるほど薄暗いのが、私に与えられた部屋だ。別に冷遇されている訳ではなく、自分からこの部屋にしてくれと願い出た。薄暗くてやや寒気を覚える方が効果的で、商売にうってつけだからだった。


 私はこの娼館・ゲーテノーアに住んでいる。

 だが、私の商売は男に身体を明け渡し、ひと時の夢を売ることではない。


「感謝するぞ、女神。おかげで大きな商談がまとまった!」


 目の前に座る太った豪商の男は、その目に賞賛と、そして幾分の欲望を覗かせる。

 薄暗い部屋な上に私が薄布(ベール)を被っているので見えないとでも思っているのだろう。こちらからは全て丸見えだ。この男の外側も、もちろん、中身さえも。


「いえ。わたくしはただあなたの背中を押しただけ。この未来を選び取ったのは、あなたご自身なのです」


 私が微笑むと、男は気色ばむ。そして露骨に欲望をにじませた。

 まるで全ての星を集めたように金に輝く波打つ髪、朝の水面のごとく清く澄んだ青い瞳、抱きしめれば折れてしまいそうなたおやかな身体。私の容姿に与えられた賞賛の言葉だ。

 頭のてっぺんから、足の爪先まで、全てあの男のために磨きをかけてきた。あの男というのは、決して目の前にいるこの太った男ではない。

 男の重い身体を支えている椅子が、前のめりになった途端にギシリと軋む。


「女神よ。望むなら、ぜひ我が別邸にお迎えしたいのだが。決して不自由はさせないとお約束しよう。そなたほどの気品と美貌と能力(ちから)を持つ女人が、このようなところで朽ちていくのは実に惜しい」


 男は私の手を包むように握る。その瞬間に肌が粟立ち、私はそのまるまるとした手をさりげなく外した。うかつに手を触れていては、要らぬものまで視えてしまう。

 それにしても、朽ちていくとは失礼な。朽ち果てるのは、お前が先だろ。見事にハゲ散らかしやがって。首根っこ掴んで、残り少ない髪を一本一本数えながら引き抜いてやろうか。

 私は表情を代えずに、腹の中で毒づいた。

 自分の愛人になることが私の幸せだなんて、勝手に決めるな。私の幸せは、私が決める。誰があんたなんかと。おととい来やがれ。

 性格悪くて結構。男なんて、大っ嫌いだ。


「あいにく、わたくしには心に決めたお方がいるのです」


 そんな感情は一切出さず、なおも笑みを浮かべると、相手は目を見開いた。私が自分の提案を受け入れると思っていたようだ。男とは、何て自分勝手な生き物なのだろう。

 何年も娼館(ここ)にいたから、嫌になるほど分かっていたことだけど。


「なんと。それはこのゲーテノーアの客か?」

「……」

「違うのか。この私よりも身分も金のある者なんだろうな?」


 男の顔が拒絶された屈辱に歪み、相手の男への嫉妬を覗かせる。その目は「娼婦のくせに自分をコケにして」という憤りが言葉よりも如実に表れていた。女神などともてはやしつつも、私のことなど自分を誇示するための道具にしか思っていないのだ。

 男なんて、皆同じ。皆、金と地位と女のことにしか興味がない馬鹿ばかりだ。そもそも私は、このディダルーシ王国の人間を全て嫌悪している。表には出さないが、誰にも心を許したことはない。


「いえ、そのようなものではないのです」

「では、なぜ私を拒む?」


 面倒くさくなって言葉を濁したが、相手は引き下がりそうになかった。

 あくまでも遊びの範囲内で疑似恋愛を楽しむのがここの(ルール)

 さて、何と答えればこの男は素直に引いてくれるだろうか。下手な対応をすれば逆上してしまうに違いない。

 いや、もうここらが潮時かもしれない。この男からは今まで莫大な金を貢がせたから、(ねえ)さんたちからも文句は出ないだろう。


 すると入口の扉がノックされ「次のお客様がお越しです」と声がする。この娼館の女主人、マダム・シンシアだ。

 彼女自らやってくるとは珍しい。何か不穏な空気でも察したのだろうか。遣り手なだけに、そういう雰囲気にはとにかく聡いのだ。

 助かったと思った。今すぐにでも背後のベッドへ連れていかれかねない雰囲気だったのだ。


「急かしてしまって申し訳ございません。何しろ、リゼは大変な人気で」

「いや、よい」


 男は名残惜しそうに、また来ると言って去っていった。

 その背中に二度と来るなと言ってやりたいが、ぐっと堪える。今のところ一番の金づるだ。


 男が帰った途端に、シンシアが貴婦人の仮面を剥ぐ。シンシアは娼婦上がりで、見た目は美しさをとどめているが、中身は男よりも男のようだというのがここの娼婦たちの総意だ。


「惜しいことをしたね。あの男は見た目は醜いが、金はうなるほどあるというのに」

「私は誰のものにもならないわ。ましてや、客を取るつもりもない」


 男の容姿など、問題ではない。美しかろうが醜かろうが、さして違いはない。敵かそれ以外か、それだけだ。

 私は現在、16歳。この娼館に来て、7年になる。その間、娼婦として客と寝たことは一度たりともない。それが彼女、シンシアとの契約だ。契約が守られる限り、私も彼女に益を与えているので、この関係が成り立っている。

 私が使えないと分かればすぐに客を取らされるだろう。そういう冷静な部分が彼女の魅力だと言える。……こちらに害がない間は、そう思える。心を許したことはないが、そういう意味では彼女を信頼している。


 シンシアは肩を竦めた。私が断るのを分かっていたに違いない。


「それはそうと、次の客って何? 今日はもう疲れたから客は取らないでって言ったはずよ」


 占いは集中力がいるので、体力を消耗する。一日で3~5人くらいが限界だ。無限にできたならもっとボロ儲けができたろうにと言ったのはシンシアである。


「嘘よ。助けてあげたっていうのに、お礼も言えないの、この子は」

「……ありがとう」

「んまっ、今日はやけに素直じゃない。いつもそうしていればいいのに。それにしても、不便ね。自分の未来も見えたら人生楽でしょうに」

「そんなことができたら、ここにはいないわ」

「そりゃそうだ」


 シンシアと私は笑った。

 私は人の未来が視える。時には過去さえも。それはひどく断片的で視たかったものではない場合もあるけれど、視たものから情報を得てそれを占いという名の商売に生かしている。

 だが、自分の未来だけは視えない。家族の未来も、また。それが私の背負った業かもしれないと言ったのは、7年前に亡くなった両親だった。


 視えてさえいればあんなことにはならなかったのに――。


 私は過去の記憶を思い出しそうになり、小さく頭を振った。

 今はそんな場合ではない。


 シンシアは、7年前、私が偶然この娼館の前で行き倒れていたと思っているだろう。

 でも、それは大きな間違いだ。

 自分の未来は視えない。だから、私はここに来た。ここにあの男が来るという未来が視えたからだ。すでに娼館の女主人であったシンシアの未来を視たところ、その中にあの男がいた。だから、わざとその前で倒れてみせた。この国では何の地位も持たない私が、あの男に接近できる可能性はこれしかなかった。

 もっとも、寝る間も惜しんで歩き続けたせいで疲労困憊していたのは真実だけれども。

 ここがこの国で一、二を争う高級娼館だと知ったのは、ずっと後になってからのこと。


 ここにいさえすれば、あの男に会える。夢にまで見た、あの男に。

 あの男に会えたら、その時は――。


「そうそう。クラリスとの戦いを終え、兵士たちが帰還したばかりなのは知ってるわね?」


 シンシアの言葉に、肩がピクリと動く。だが、幸いにもシンシアは気付かなかったようで、話は続いていく。


「褒美として上官階級(クラス)の軍人たちがウチに来ることになったわ。中には余興にとあなたの占いを要求する方もいるでしょうから、頼んだわよ。くれぐれも、粗相のないようにね」


 シンシアの「頼んだわよ」は命令だ。拒否することは許されない。だが、拒否する気など毛頭なかった。

 私は気付かれぬように細心の注意を払いながら尋ねる。


「分かったわ。……誰がどの人につくか、もう決まっているの?」

「客が自分で相手を選ばない限りは位が上の方から売れっ子をつけようと思っているけれど。どうしてそんなことを聞くの?」


 さりげなく聞いたつもりだが、無駄骨に終わったようだ。さすがはこの娼館を切り盛りする女主人といったところだろう。シンシアは私の手を付けていないカップを手にし、口に運ぶ。心の準備ができるのを待っているのだろう。

 私は隠すのを諦め、単刀直入に頼むことにした。


「私につけてほしい客がいるの」

「一体どうしたの!? 今まで頑なに客を取らなかったあなたが!」


 シンシアは目を見開いた。よほど驚いたのか、飲みかけのカップを床に落としてしまう。


「確かに私は、ここにいながら客を取らなかった。でも、その分占いの報酬でこの娼館に報いてきたつもりよ。年端もいかぬ子供だった私を下働きとして雇ってくれたお礼に」


 私は自分の能力をただの占いだと偽っている。

 その方が都合がいいのだ。人は、人知を超える能力を恐れ、迫害するものだから。

 そして当然、私の占いはよく当たる。その機会を作ってくれたのは、シンシアだった。待ち時間を快適に過ごさせるための余興として客に占いをしたところ、すぐに評判となった。

 今では本来の目的ではなく、私の占い目当てにこの娼館へ客がやってくるほどだった。

 普通に客を取るよりも大きな額を、私は全てシンシアに渡している。


「懐かしいわね。あなたがボロボロの恰好でこの娼館の前に倒れていたあの日から、もう何年経ったのかしら。ほんと、大きく美しく成長して」


 シンシアが眩しそうな顔で私を見つめる。だが、思い出話をしている場合ではないとその表情を引き締めた。


「それで、どの男をつけてほしいの?」


 シンシアはどれほど身分のある人でも、“男”と雑に言う。娼婦にとって、“男”は“男”でしかなく、それ以上でも以下でもない。そんな考え方が気に入っている。私も男はどれも同じだと思っている。


 だが、一人だけ例外がいた。どれほどこの機会を待ち望んでいたか分からない。7年は長かった。気が遠くなるほどに。

 ようやく絶好の機会がやってきたのだ。


 自然と鼓動が早くなり、頬が上気してくる。

 長い間淀み眠っていた血液が、一気に流れ出したようだ。


 私は自分を落ち着かせるために深呼吸をすると、シンシアに向かって、ある男の名前を口にした。

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