一話
森の中にいた。手足は、ある。見慣れた自分の手足だ。鏡も水もないから自分の顔は確認できないが、さわった感じでは特に違和感は感じない。強烈な違和感があるのは、服装だ。オレは中世風RPGの村人か町民のような、いかにもな質素な麻の服を着ていた。ザ・中世庶民。ここがどこなのかわからないが、いざ誰かに遭遇したときに、コスプレ扱いされないことを願いたい。
みんなはどこだ? 同じ場所に飛ばされているだろうか? 周囲を見渡しても、人の気配すらない。
おーい、と声を出そうとして、止めた。何があるか全くわからない状況で目立つ行為は危険すぎる。スタートラインがどこなのか、把握する必要がある。……それに、シオンとアカネが近くにいるならすぐにわかるはずだ。あいつらが暴走しない理由がない。
まず安全で、高いところを探したい。森の全貌を見渡せるような場所が理想だ。飲み水の確保も急務。川を探したいが、安易に近づくことも危険だ。慎重に動きたい。
「グルルルル……」
と、思った瞬間にこれだよ。背後から聞こえてくる、動物特有の喉鳴らしと、鼻息。出来れば振り向きたくない。振り向きたくないが、走って逃げるわけにもいかない。
静かに、足音も立てないように慎重に振りかえりそいつの姿を見ると、オレは異世界に来てしまったんだ、という現実を改めて受け入れた。……実を言えば、ここは日本のどこかで、今まであったことも盛大なドッキリだったのではないかという微かな希望はあった。
そいつは熊でも虎でも狼でもなかった。獅子のような顔と体に蛇のような灰緑の鱗を纏い、背に大きな翼を生やしていた。黒く光沢を持った尻尾は異様に長く、先端から滴り落ちる謎の液体が地面を打つたびにジュウ、ジュウと煙を上げている。
これは、まずいやつだ。なんというところに転移させてくれちゃっているんだ謎の存在! オレに何かさせたくて呼んだんじゃないのか!? ここでこの生物に喰わせるために呼んだってのか? そんな異世界転移、あまりにも虚しすぎる!
戦うための(恵み)を選ぶべきだったか、でもノーヒントで出発早々にこんなモンスターにエンカウントするとか、想像できるわけがない! どうする? 考えろ考えろ考えろ!
「おい、言葉、わかるか?」
なるべく刺激しないように、静かに問いかけた。意志疎通が出来る可能性を信じて。見た目は厳ついが、実は穏和な生物だった、なんてことが、
「ガアァァァアゥ!!」
なかった。大きく開いた口からダラリとヨダレが滴り落ちて地面を溶かす。血走った眼は、逃がすまいと一心にオレを見つめていた。
やがてジリジリと少しずつ近づいてくると、鞭のような尻尾で強く地面を叩き、モンスターは大きく跳躍しながら鋭い爪を振り下ろした。
「うおっ!」
なりふり構わず横に飛んで、ギリギリで避けることができたが、爪が腿を掠めて服を破り、うっすらと血が滲んでいた。
モンスターが着地の勢いで頭から木に激突したが、ケロリと体勢を立て直してオレを見つめる。かなり太かった木の幹が容易く折れていく様を見て、物理的手段でどうこうできる相手ではないことが嫌でもわかってしまった。
食べる気満々じゃねぇか……早かったなオレの異世界転移物語、どうやらここで終わりのようだ。
―――でも、ただでは終わらない。
オレがこいつの腹の中に入ったら、次に襲われるのはあいつらかもしれない。それに、もしかするとあいつらはあいつらで、オレのような状況になっているか、それ以上に危険なことに巻き込まれていたら―――そう思うと、不思議と心が落ち着いてきた。
―――うん、大丈夫、動ける。
眼をそらさず、オレは落ちている木の枝を二本、両手に持った。
「上等だ、やってやる。お前の目玉ぐらいは貰ってやる」
せめて深手を負わせる。枝が刺さらないなら手で抉る。なんでもいい、手段も方法も、オレがどうなってもいい。あいつらだけは、守りたい。
モンスターは距離感とタイミングを見計らうように、再びゆっくりと、だけど確実に仕留めるようににじり寄ってきた。
来るか? 爪で。それとも牙で噛みつくか? 尻尾を振り回してくるかもしれないな。来い、オレに攻撃して近づいた瞬間に、何が起こっても絶対にこの両腕をお前の顔面に叩きつけてやる!
汗が止まらない。額から睫毛に水滴が引っかかる。瞬きは出来ない。全身の筋肉が硬直しそうな恐怖。喉がカラカラに渇いていた。ごくり、と唾を飲んで喉仏が上下した―――そして、その時は来た。
モンスターが大きく口を開けて突進する。だけどもう避けることはできない。このまま牙はオレの腹の肉を抉り取るだろう。オレは死ぬ。確実に死ぬ。しかしそれであいつらの生存率が少しでも上がるなら、この身体はくれてやる。
「ウアアアァァァァァァッッ!!」
躊躇わない。持っていた木の枝を渾身の力で両目に叩きつけようとして―――
「○イガーン♪」
耳慣れた間抜けた声に阻まれて、空を切った。そして今まさにオレの腹に牙をたてようとしていたモンスターが、目の前から消失していた。
「………え?」
呆気にとられているオレに追い討ちをかけるように、突然上から何かが落ちてきた。思わず目を向けると、そこには先ほどまでオレと命のやり取りをしていた、モンスターの首が転がっていた。見るまでもなく、絶命している。
「クロウ、やっと見つけた」
がさがさと茂みが揺れる。聞き慣れた声。間違えるはずがない。オレの名前を呼んでくれる、優しい声。
「………キヅキ」
そこには中性的でかつて男だけでなく女も魅了していた、見慣れた顔の女の子が中世騎士の平服のような小綺麗な格好をして立っていた。
会えた。生きていた。生きている。異世界に飛ばされて変なモンスターに襲われて命の危機に晒されて死を覚悟した瞬間に脈絡なく突然助かってキヅキがいて―――感極まっていたのだろう。絶対にそうだ、この時のオレの精神状態はどうにかしていた。
「間一髪だったね、最高のタイミング―――」
言い終わる前に、オレはキヅキの細い身体を抱きしめていた。強く抱きしめていた。
「………無事だった………よかった………キヅキ………」
「ハハッ、死にそうだったのは君の方だろ?」
キヅキはいつものように優しげな笑みを浮かべながら、オレの背に腕を回した。