5. 自涜の効能
説明多め
ベッドの上、差し込む朝日から顔を背け鳥のさえずりを聞きながらカーガスは昨日のことを思い返して頭を抱えた。
ミラバーンの体は四肢がなくとも素晴らしいものだった。だが己の内の熱を吐き出し冷静になった後まず思ったのはひとえに不味いということ。そもそも魔族と交わってしまったということが言い訳しようもなく忌むべきことであり、剣も手放し肌が触れるほどの目の前にその魔族がいたのだ。
そこでもしミラバーンが牙でも剥こうものならパニックとなり下も履かぬまま逃げ出していただろう。
しかし彼女はおとなしいままであり、事ののちに「ミラバーンというのは仰々しいだろう、これからはミラとでも呼んでくれ」などと笑いながら言う彼女は一瞬魔族であることを忘れるような様であった。
昨晩の跡は片付けた。最大の懸念はミラバーンの処遇であったが、驚くべきことにミラバーンは大人しく棺に戻されていった。待っているよと言葉を残して。
どうすればいい。改めて省みると異常すぎる事態に頭がまとまらないが、このままずっと思索にふけるわけにもいかない。現に後ろめたいことがある以上周りに怪しまれるような態度は避けたかった。
昨日から何かと考える暇もないとかぶりを振りつつ、身を整え家族に顔を見せるべくカーガスは部屋を出て行った。
朝食の後、カーガスは午前中は父親に頼まれ集落や散らばった各戸へ父からの伝言と聞き取り、見回りを行った。昼食は昨日のこともあり言葉少なく終わり、できるだけ自分から失言してしまうようなことは避けたかったのもあって怪我の功名に感謝した。
そして今、カーガスは広場の端、納屋の軒先の影の中で訓練用の案山子を眺めつつ何をするでもなく座り、穀潰しとしての時間を過ごしている。
あちこちへ駆ける間はひたすらに昨晩のことに考えを巡らせていた。しかし考えた結果結論付けたのは、考えても如何しようも無いということであった。人に相談を仰ぐには既に関わりすぎてしまったのだ。一度は棺を池にでも沈めてしまうことも考えたが、勇者の遺品としての表向きの姿がある以上それはしないに越したことはない上難しい。
もう良い、打ち込みでもして一旦忘れようとカーガスは癖で携えていた模造剣を握った。
しばらく素振りを行い体を温めたのち、カーガスはいつも通り案山子に向かって型の練習を行う。上段に構えての斬り下げにそこからの斬り返し。半身側面に剣を構えてからの水平斬りから勢いを殺さずの二撃目。その他日課となっている一連の型をこなす。足を使うのも忘れない。安定した踏み込みとその後の間合いの取り方にも気を配る。
実際に動いてみるとすぐに調子の良さを感じた。思うように動く体に気が晴れていく。
気を良くしたカーガスはふと一段上の技能を試してみようと考える。それは魔力を用いた動き。つまりは術ならざる原始的な、しかし今も扱われうる魔法であった。
カーガスは教えを思い返す。魔法とは根本的には”望みを成す”力と言われている。あまりにも巨大で多様なその観念を人の扱う技とすべく、古く魔力や術の概念が生み出されたという。しかし術ならざる純粋な魔法も今の世には脈々とあり続け、その一つがこの人の動きに応え”より強く”、”より速く”を成す技能であった。
生まれながらの才能、あるいは幼少からの訓練が必要とされる技ではあったが、少なくともカーガスは父親の指導のもと後者は満たしている。そして”魔法の薪”として考えだされた魔力の量も。
ただ悲しむべくはカーガスには魔術その他、術の才能はなかった。少なくとも魔術は決して選ばれたものだけの技術ではない。しかし長くの勉学と修練なしで扱える術ではなく、必要とされるそれらはカーガスのみならず多くの才なき身には多大過ぎた。
カーガスの魔法に対する苦手意識はかつて兄と自分の魔術の才の差を知った時からの根深いものであり、好んで使うものではなかった。
しかし調子の良さに気を良くし、異常な状況にどこか浮ついていたカーガスはそれを久方ぶりにやってみようと思い立つ。
案山子に向かい上段に構え相対するカーガス。思うは右からの袈裟斬り。息を整え意識を研ぎ澄ます。己のうちにある魔力の存在に思いを馳せ、その実在を確信する。そして最後に望む。強さを、剛力を。身を超えた強さを。
繰り返された動きに裏打ちされた滑らかで、力強い踏み込み。それに伴う体重の動きに乗せて剣が繰り出される。
その時、集中の内にも何か違う感覚をカーガスは感じた。案山子に触れる剣と予想を超えた重みの手応え。それを魔力で強化された一撃がねじ伏せる。鈍く無視できない音量の異音と振り切られる剣。
左手側へと飛んでいく何か。前を見れば太い丸木の案山子が折り斬られ、そのぎざぎざとした断面が晒されていた。
カーガスは唖然とする。
(俺がやったのか?)
現状では疑いようはないにもかかわらず、その消化のために内心へ問いかける。
信じられない想いはもう一体の案山子を折り斬った時には確信と、新たな疑問へと変わった。
なぜこんなことができたのか。これが素直に実力だと思えるほどカーガスは自惚れてはいなかった。自分が増す事のできる力の強化、あるいは行動の強化などたかが知れていたはず。どういうことなのか。
そこでふとカーガスは”異常な事態”に思い当たる。そう、むしろ困惑の必要などないほどに思い当たる節があった。
(もう一度、会う必要がありそうだ。)
カーガスは今夜の行動を決意した。
昨夜と同じく夜深くに母屋を抜け出したカーガスは再び棺桶の前にいた。自ら血を流すのは慣れれそうにないと思いつつ再び指先から血をにじませ、唾液とともにして蓋を撫でる。
棺のもう一つの中身を開く条件は定められた人間の血と唾液だということは昨日の事ののちに聞いていた。
ここにきて抑えきれぬ緊張とためらいが手を止めさせたが、カーガスは深く息を吸い込み再び合間見える覚悟を決めると蓋を開く。
すでにこちらに気づいていたのだろうか。蓋を開けると同時に灰銀の瞳とカーガスの目が合う。
「やあ待っていたよ。もう私のことが恋しくなったかね?」
「いや違う。お前に聞きたいことがあってきた。」
カーガスはどこから話したものかとふと思案するが、まず端的に問いかけた。
「お前は、俺に何をした?」
「何をと言うと?」
面白がるように質問を返すミラバーン。
「よく理解できんが……俺の力が、特に魔力の強化が異常に強くなっているとでも言えば良いのか。何にせよおかしい。あれは普通ではなかった。」
「ほう魔法をな。早速実感したのか。やはりお主とは相性が良いようだね。」
そういって笑う。
やはり何かあったのかとカーガスが追求しようとするがミラバーンが先に続けた。
「言っていなかったかな?勇者はその慰安だけでなく実益も兼ね我を抱いたと。お主は房中術というのを知っているかね。」
「いや、聞いたこともない。」
ふとミラバーンの語ることは知らぬことばかりだとカーガスは思う。その上彼女はよく話す。カーガスは内心彼女との語らいに興味や新鮮さを感じている心の内を思った。
「海の外、遠い地の術だ。ひょんなことから知り得る機会があってね。概念が術を形作り、術は概念を内包する。遠い異邦の地であっても術というものは正しく行えば正しくなされるのだよ、魔術その他あまたの術と同じく。房中術とは陰陽つまりは男女の気の交わり、それを体液や精神の交わりによってなす術のことさ。」
「もう少し、分かるように説明してくれないか。」
苦々しい顔でカーガスは尋ねる。
「まぁ陰陽の気というのは単純に言えば体のうちの魔力を異なる捉え方をしたようなものかね。そうだな、お前もサキュバスは知っておろう?」
「ああ、それは知っているが……、お前はサキュバスだったのか?」
そう思うと昨夜の好色な態度も腑に落ちるとカーガスは納得しかけたが、
「はっ!随分な冗談……いや本気のようだね。違うよ、違うとも私はサキュバスじゃあ、ない。」
憤慨してみせたミラバーンだったが、カーガスの妙に納得した態度を見てため息交じりに否定する。
「サキュバスは魔族として交わりにより精気を、魔力を奪う業をもつ。それに対し房中術では不足を満たし合い時には与え、さらには在りようを整える。交わりを介すのは同じであるがサキュバスの行うそれをより良い形で為す術といったところかね。そろそろ話は見えてきたか?」
「つまり……俺は昨日のことでお前と気の交わりを、お前から魔力を与えられたということなのか?」
「その通り。」
ミラバーンが微笑む。
「付け加えるならばお主と私の魔力量の差により基本的にはお主の魔力がより満たされる方向に効果は現れる。さらにこの術は魔力の流れをよりよく整えるのも目指すところであるからな。その効果、実感できたようで良かったよ。さらには房事の技法こそ房中術の根幹。昨夜は随分と愉しませてやったであろう?四肢があればもっと愉しませてやれたが——」
カーガスはミラの挑発的な言葉は無視して今の内容を反芻する。
(ああクソ、どう捉えるべきか分からん。)
強さはカーガスの求めるところであったが、魔族の手を借りてこうなることは考えの外であった。
「いや待て。何か害があるんじゃなかろうな。」
ひとまずの懸念を尋ねる。
「ないと思うがね。あるとしても私の気が一時目減りする程度か。どうだ?もう一度して確かめてみるかね?」
「からかうな。」
そう言いつつも昼間鍛錬した時の感触は未だ手に残っていた。
スランプを感じていた剣。それに対しあの体をめぐる充実した魔力の感覚と加速する剣。練習台を破壊した時の手応えと全能感。その魅力は昨夜感じた女体の魅力にも劣らぬものだった。
しかし心惹かれると同時に確かな疑念がカーガスの心のうちに生まれていく。
まともに答えられるとは限らない。しかしカーガスは問わずにはいられなかった。
「なあ、何故そんなに俺に与する。何が目的だ?」