4. 月夜の逢瀬
「アズマガタ?何だそれは。」
他に聞くことは幾らでもある。
魔族であることに加え勇者や慰みという言葉も無視できない。しかし未だ目の前の現実に追いつかぬ自分の頭が絞り出したのはそんな的外れな問いだけだった。
「ふむ知らんか。まぁ私もそれを知った時は物珍しいと思ったものだ。そして実にくだらんともな。」
カーガスの内心の混乱を他所にミラバーンは間抜けな問いにも当然と言った様子で答える。
「しかしてどういうことかは分かろう?思うがままに出来る女体が目の前にある。それは人の姿であれど人ですらない。ならば呵責も要らぬ。男ならどうしたいか。自ずと感じるものがあろう?」
ミラバーンの醸し出す雰囲気が変わった。カーガスに向けた軽薄そうな笑みがふと艶を持ち、裸体を晒しながらもどこか捉えどころのない印象を与えていたそれが妖艶さをまとう。
「なあ、触れてみたくはないか。いや触れてはくれぬか?お主の熱で哀れなこの身の無聊を、慰めてはくれんか?」
ミラバーンがその身を反るように捩ると、肋の上に浮く美しい双丘が際立った。
とろりと熱を帯びたような視線がカーガスを撫でる。
唾を飲み込みカーガスの喉がなる。それでいてカーガスは口の渇きを感じていた。
女の肌を見るのは初めてではない。しかしその身体も器量も、日々の労働に擦れ垢抜けない田舎女のそれとは違いすぎた。
まるで初めて己の前で女が肌を晒した時のように意識が狭く絞られていく。手が自ずと伸び一歩その身へ踏み出そうとする直前。
カーガスは我に帰る。不死と言った。相手は魔族だぞ!カーガスの頭の中で叱責の思いが駆け巡り、気づけば下穿きの布を押し上げていたものも冷静になると萎えていく。
「くく。そんなに怯えずとも良かろうに。まあ良い、懸命だよ。確かにこの身であってもお主を殺す程度わけは無かろうな。」
なっ、カーガスの口から焦りの声が漏れる。嫌な予感の元寝間着の上から履いてきた剣、剣呑な言葉に反応したカーガスはとっさにその剣の柄に手をかけた。
「落ち着け、今更だよ。長々と話しておいてここでどうこうすると思うか?」
ミラバーンはかぶりを振る。
「もっと語り合おうじゃないか、月夜に男女二人きりでの逢瀬なのだから。そもそも例えばだ、駆けることも叶わぬこの身でお前を害した後一体どうしろというんだね?」
ふざけた内容、そして聞き分けのない子供に言い聞かせるような調子にカーガスの顔が険しくなる。
いつでも剣は抜けるように構えつつカーガスは目の前の相手と相対する。警戒はしつつもカーガスは今すぐこの状況を放ってここから去ろうという気にはなれなかった。
「さて、そろそろお主のことについて教えてくれんか?」
ミラバーンの問いかけにもカーガスは黙して答えず、その代わり柄に手をかけていた剣を抜きはなち相手へ突きつけるように構える。ミラバーンを今すぐ害そうというわけではない。カーガスは考える時間を欲していた。
沈黙を続けるカーガスに対し、ミラバーンは自らに突きつけられた剣先を面白がるように一瞥すると大袈裟に驚いて見せる。
「おやおや緊張しているからとて手でなく剣を差し出すのは如何なものか。それとも”そういう趣味”があるのかな?少々なら付き合ってやっても——」
「少し、黙れ……。」
ころころとかわる態度。挑発としか思えない語り。今の状況を持て余しどうにもペースを握られていると感じざるをえないカーガスの苛立ちが呻きとなってミラバーンの言葉を遮る。
「お主はだんまりで私まで黙っても仕方なかろう?まぁ久方の目覚めに少々興が乗ってしまってね、少しからかい過ぎてしまったよ。では私の方から語ろうか。お主も気になるであろう、身の上のことだ。」
記憶を辿るためか、ミラバーンの瞳が閉じられる。
「そうだな、まだ私が五体満足だった頃の話、勇者に会うに至った話などは今語るには少々冗長だね。」
少しの間を置きミラバーンは語り始めた。
「今に続く話であればことの始めは勇者に敗れた私。消滅は覚悟できていたさ。まさか治ることない不具にされた上、人ごときの慰み者にされる覚悟はなかったがね。懐かしいよ。まずは困惑に襲われ、次には怒りに震え、やがては慣れた。順応は長きを生きる不死には欠かせぬものよな。」
言葉を切ったミラバーンからカーガスに流し目が送られるがもはやカーガスにはどう反応すれば良いのか分からない。内心を表すように突き付けた剣先も僅かに泳いでいく。
「その後の私と勇者の仲睦まじさは棺背負いとかいう二つ名から察せよう?いや、そういえば今も勇者は棺背負いと呼ばれているのかね?」
「ああそうだ。棺背負いのトルエバ、確かにそうだが——」
生返事を返す。
勇者トルエバの二つ名である棺背負いの名、二つ名ともなる程特徴とされたそれもその真意を知るものはなく、それは魔族へのメッセージ、あるいは英雄故の凡夫ならざる奇行程度にしか考えられていなかった。それの真の意味が今聞いたそれだとしたら。
頭を抱えたくなるような話だ。
「勇者との出会いの時は今でもまざまざと思い出せるよ。噂に違わぬその強さ。瞬く間に両手足を切り落とされたこと。そして不死をも斬り殺しうる”治癒の呪い”の魔剣。本来切り落とされようと生え治るはずの四肢も治ることはない。既に治っているのだからね。」
ため息交じりに笑うミラバーン。
しかし沈んだミラバーンの様子とは反対にカーガスは今の話に強い興味を感じていた。
その剣の力を言い表す言葉は数多く”治癒の呪い”とも”魂を斬る”とも言われる勇者トルエバの振るった魔剣——神教会に言わせれば聖剣だが——は勇者の逸話の中でも欠かせない物である。勇者トルエバは単身で様々な成果を成し遂げた何芸にも秀でる多彩な人物であったがその真髄は剣技にあったとされる。
剣で切られて死なぬ人間はいないが、ときに人知を超えた異能をもつ魔族という存在には剣が通じぬことも少なくはない。しかしてそれを覆すのが勇者の振るった魔剣であり、勇者の偉業は常にそれによってなされてきた。
「あの魔剣を実際に見たのか!」
勇者の英雄譚の中でしか聞かぬそれの名を耳にして高揚する。
「勇者の遺物の中でも未だ見つからないあれが……。」
自然とカーガスの内心が声となって溢れた。
「ほう、よりによってアレがまだ見つかっておらぬとはな。」
ミラバーンの小さな呟きは未だ話を反芻しているカーガスには届いていない。
そしてそれは明らかな警戒の緩みだった。
「ようやくお主も緊張が解れてきたようだね。」
カーガスの高揚していた心がハッと冷える。興味惹かれたことによる隙。気付けばまっすぐ突き付けていたはずの剣先は僅かではあるが下がり、そしてなによりカーガスは近づきすぎていた。
「男女が解り合うには、肌を合わせるが早かろう?」
言い終わるか終わらないかの瞬間にはミラバーンの身が空中に踊っており、飛び出した瞬間は知覚さえもできなかった。
体は全く反応できず、目だけが迫り来る白い塊を追う。構えていたはずの剣は虚しくすり抜けられ2つの体がぶつかり合った。
不意を突かれたカーガスの体は情けなく押し倒され、見上げるとミラバーンの顔。
とっさに抗おうとするが、この上なく間近で見たその顔、長く密な睫毛で縁取られたその目と見合った時、意識は囚われた。
形の良い小ぶりな唇は薄く開かれ、その間から漏れた吐息がカーガスの顔にかかった。それは熱く湿っていたが、寒気が、悪寒のような痺れが背を走る。しかしそれは不快ではなかった。
見下ろすミラバーンの顔からハラリと垂れる髪。一房が僅かに空気を揺らしカーガスの頰に触れる。届いた空気、何の香りかも分からぬのに女の香りだとだけカーガスは思った。肌着と変わらぬ夏場の薄い寝巻き越しに、一糸纏わぬその身の柔らかい重みを感じる。
押しのけるために伸ばされたはずだった腕。しかし腰を捉えたその手からまろやかなくびれを、吸い付くような肌を感じた時抗えぬ迷いが、その感触を捨てる惜しさがカーガスの身の内で膨らんだ。
心変わりのタイミングを見透かしたように重ねられる唇。乾いた唇に割って入る舌をカーガスは受け入れる。
知るものより長く少し冷たいその舌は、この上なく旨く感じられた。