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情と理 ートランプ大統領の施政方針演説と、うちの母ー

作者: 葉山 新一朗

「戦争を避けるため、必要ならば戦い勝利するために、十分な装備が必要だ」


 なんとはなしにテレビをつけたらNHK手話ニュースが流れていた土曜日の正午前。私は随分と遅めの朝食を食べながら、目の前で流れるそれを、母と観ていた。最初の言葉は、ドナルド・トランプ大統領の施政方針演説の中、NHKがやたらと強調していた箇所だ。


 それを聞いた母の言葉。


「戦争をしないために戦争の準備をするなんて……ねぇ……なんかおかしか」


 私は、思わず母に対して反証を行おうとした。

 カントの言うように、「平和」という現象は、戦争という人類の恒常的な営みの中に出現した異常事態に過ぎない。だからこそ、「パクス・アメリカーナ」という異常事態(ないしは幻想)を維持するためには、アメリカの軍事力もまた、異常な規模の技術と装備を要求する。


 もう少し身近な例で考えると、例えば我が国の軍事防衛の多くは米軍に依拠している。猛烈な勢いで軍拡を進める中国に対抗するには、自衛隊だけではまず不可能である。というか、仮に日中が衝突することになった場合、自衛隊への米軍の助力があったとしても、戦力は拮抗するし、脅威を取り除くのは容易ではない。


 なぜなら、太平洋地域におけるアメリカの軍事支出ーー世界全域における軍事支出ではないーーは単年度で見れば中国よりも少なくなってしまった。単年度ではなく累積で考えても、オバマ政権時の軍事支出では、中国に追い抜かれるのも時間の問題だ。


 だからこそ、アメリカが軍拡を推し進めてくれることにより、日本の安全保障の実現可能性が高まることはあれ、低くなることはない。


ーー理想的には米軍に頼らない安全保障を実現することだと思う。なぜならアメリカの民意と国益次第では、アメリカは米中決戦を回避するという結論を採択し、結果として日本は単独で中国の矢面に立つ可能性がある。中国が太平洋へのシーパワーの確保という野心を抱く以上、そのような事態は想定されるわけで、だからこそ日本単独でも中国に対する軍事均衡は重要だと考えるわけだが。しかし、現実はそう簡単には変わらない。従って、望むと望まざるとにかかわらず、第二次大戦後の日本の伝統に則って、当面はアメリカの軍事的庇護を受けざるを得ないーー


 つまり、トランプの発言を現実的に、論理的に考察した結果、私は「アメリカの軍拡は歓迎する」という立場に立つことになり、母の言葉を甘い幻想だと論理的に諭すべきではないか、と考えた。


 だが、ふと思った。


「母の言葉は本当に間違っているのか?」

 

 地政学も軍事学も経済学も知らない母の言葉は、おそらく直感、言い換えるならもっと精神的な根本の感覚、つまり”情”から漏れ出したものだと思われる。


「戦争をしないために、戦争の準備をする」


 確かに、理性的な煩わしいあれやこれやの思考を排してしまえば、このトランプの姿勢、いや、近代国家における基本的な軍事姿勢・防衛姿勢は、人間各個人の直感的な”情”からすれば、容易には受け入れ難いものではないのか?


 例えば、いつも喧嘩ばっかりしてる悪童がいるとする。悪童は、喧嘩に強くなるために、空手やらテコンドーやら柔術やら剣術やら、ありとあらゆる武術を練習している。それを見た母親は想うわけだ。


「あんた、そげな風に体ばっかり鍛えて、またあちこちで喧嘩するためにしよるだけやろ」


 それに対し、知恵の働く悪童は、


「違うよ、母ちゃん。例えば剣術には”無刀”っていう考え方があるんよ。本当に最強の漢になれば、戦う前に既に勝ち負けは決まってる。だから、戦いは必要なくなる。それが無刀。俺がその最強の漢になれば、もう喧嘩はせんで済むようになるけん」


 そう答えるのだが、しかし、実際のところ、悪童は喧嘩ばかりしているのだ。あっちでサダムが何か企んでると聞けば叩き潰しに行き、あっちでイワンが縄張りを荒らしたと聞けばペトロに手を貸してイワンを追い出さんとする。母親は武術の知識が無いため返す言葉を持たないが、しかし、悪童への心配は収まるわけがないだろう。


 なるほど、悪童は論理的には正しく見える。しかし、論理的な考えとは違ったところで、何かが警鐘を鳴らすのだ。こうした感覚、言い換えれば”理”の対局にある”情”が語る言葉を、”理”の思考のみに頼る私に批判することができるだろうか。


 この”情と理”の対立を含む複雑な関係は、古典にも見出すことが可能だ。中国の古書、『孟子』の中で、戦国時代に飛ぶ鳥も落とす勢いで勢力を拡大していた斉の宣王と、孟子はこのようなやり取りを残している。




斉宣王「ねぇねぇ、孟子。私にも人の生活を安定させられる、徳のある王様になれると思うー?」

孟子「もっちろん!」

斉宣王「えー! ほんとー!? なんでわかんのー!?」

孟子「実はね、王様の家来にこんなこと聞いたの!」


 王が宮殿にいらっしゃったとき、ある者が牛を引いて宮殿の下を通り過ぎようとしたことがありました。

 王はこれを見てお尋ねになられました。

「その牛どこ行くのー?」

 その者はお答えしました。

「鋳込んだ鐘に血をぬる儀式のいけにえに使います」

 王はおっしゃいました。

「えー! majiで!? やめなよ! その子、おどおどしてんじゃん! その子、罪も無いのに殺されるんでしょー!? かわいそーじゃん!」

 これを聞いて、男は答えました。

「ならば、血塗りの儀式はとりやめになさるということで……」

 王がおっしゃるには、

「いや、儀式やめんのはなしでしょ。代わりに羊つかっちゃいなよ!」




 さて、(キャラ設定に多分の脚色を行ってはいるものの)このやり取りを現代の諸兄はどのようにお感じになるだろうか。


「いや、王様アホやろ。絶対徳政なんてできるはずないやん。孟子もどうかしてるぜ」


 これが大多数の見解であろう。生贄にされる牛を目の当たりにし、それを可哀想だと想うのに、実際に見たことがない羊のことはどうでもいい。


 この宣王の情は”愚か”と思われがちな現代の人々にも通ずるものがある。代表格を挙げるなら、イルカ漁に反対するシー・シェパード。彼らは、「かわいそう」とかいう幼い感情だけで物事を判断し、論理的に客観的に物事を考えることができない、愚かな人々の代表格。インターネットの恩恵にあずかり、世界中の様々な情報を手にすることのできる賢明な諸兄には、許容しがたい話だろう。現代の”理”で考えればこんな結論も至極一般的だ。


 ここに、先ほどの母と私の構図と類似したものが浮かび上がっている。


 つまり、現代人の”理”と宣王の”情”とが対立しているのだ。

 

 ちなみに、この宣王の行動に対する当時の一般民衆の”理”は次のようなものであった。


「牛を羊に変えるなんて、王様がケチっただけじゃねぇか」


 王様が牛を見て可哀想だと思った、という情報を知らない民衆は、現代の我々よりももっとシンプルに考えたわけだ。ある意味合理的である。ここでも、同時代でありながら、合理的な民衆の”理”と宣王の”情”とが対立している。


 しかし、孟子の”理”は一味違う。この宣王の”情”を孟子は激賞するのである。曰く、「獣に対する情けはあるのに、一般の人に広く恩恵が行き渡ってないのはなんでだと思う? それは、能力がないんじゃなくて、やってないだけだよー!(つまり、宣王には徳政を行う能力は十分あるよー)」

 

 なんとも斜め後方四十五度から斬りこむ回答だ。孟子は、牛か羊のどちらが可哀想か、あるいはどちらも可哀想だ、などという話には触れず、宣王が牛を見て純粋に可哀想だと思った、その”情”をこそ尊んだのである。そして、宣王の”情”を家族、家来、一般大衆という風に広げていけば、必ず徳政は可能だ。宣王にはその能力があって、今はやっていないだけなんだ。そのように進言したのだった。


 私の母と宣王は、全く違う人物であるが、発想の根幹が”情”であるという点で、私には大変近しい人物に思える。だから、このような問いが生まれる。


 当時の民衆や現代人が理屈でもって宣王の”情”を「取るに足らない愚かなもの」と切って捨てたように、母の「なんかおかしか」という情を切って捨ててしまっていいのだろうか。


 戦後、知の巨人として、現在の人々にも多大な影響を与えた小林秀雄は、このように述べている。




 孟子は、良心の持つ内的な一種の感受性を、「心の官」と呼んだ。これが、生きるという根底的な理由と結ばれているなら、これを悪と考えるわけにはいかないので、彼は「性善」の考えに達したのである。私には少しも古ぼけた考えとは思えない。彼の思想を、当時、荀子の性悪説は破り得なかったが、今日の唯物論も、やはりこれを論破することは出来ない。



  

 小林は、この文章が書かれた”良心”というエッセイで、まさに良心について深い考察を行っている。実は、彼がこのエッセイを書く直前、嘘発見器によって測定したデータが裁判で証拠として採用され、窃盗の事実を否認し続けていた被告が有罪になったのである。彼は当時にして衝撃的なこの事実を受け、このエッセイを書いたわけだ。


 人間の心に近づかんとする科学の進歩が、良心の住処を怪しくしてしまっている、という危惧を彼は感じた。人間の科学が嘘発見器に留まらず、さらに進化して人間観察装置として、閻魔大王の持つ照魔鏡のような性能を持つに至ったならどうなるだろうか。この威力に屈服しない人間はいなくなるだろう。誰にも悪いことは出来なくなるだろうが、その理由はただ為ようにも出来ないからに過ぎず、良心を持つ事は、誰にも無意味なことになろう。彼はこのように推察したのである。


 ちなみに、嘘発見器は、対象者の血圧や心拍、脳波や声紋などの変化を読み取って、対象者が嘘をついているかどうか、科学的に診断するものである。しかし、被疑者が心神喪失または強度の妄想や思い込みがある場合、どんな嘘をついても全く反応しなくなることもあるため、現代では裁判の証拠として採用されることはなくなった。


 だが、この出来事を五十年前の科学が未発展な時期の珍事として、他人事でいられるだろうか?小林の心配はただの杞憂だと笑えるだろうか?

 

 今日、AIやスパコンの性能進化は目覚ましく、人間を超える能力を備えたAGIやASIの出現も、少なくとも私が日本人男性の平均寿命を迎える前には確実に実現するだろう。いや、もっと近く、2030年前後には、人間は、生活の大部分をAIやコンピュータに依存するようになるだろう。2017年現在とは比べようもないほどに。裁判も戦争も医療も日常生活も、理屈で計算し尽くされた世界がやってくる。


 そうした世界になるにつけ、母や宣王の”情”、孟子風に言えば”心の官”、小林風に言えば”良心”が、非常に重要なものになってくると、私には思えてならない。


 だが現実はやはり厳しく、母の「なんかおかしか」は、現実の外交・軍事において、全く役に立たないものであることには変わりがない。孟子の考えにしても動乱の中国では役に立たなかったのか、彼が教えを説いた斉も梁も、秦始皇帝の覇道の前に滅びてしまった。紀元前ですらそのような状況であるのだから、今後、科学が進歩すればするほど、あるいは世界情勢が混迷を極めるほど、ますます”情”は役に立たなくなっていくだろう。


 ただし、”役に立たない”と”取るに足らない”は違う。


 役に立たないから重要でないと、誰が言えよう。


 ”情”から発露される言葉は、先ほどの宣王のエピソードを始めとする儒教や続く中国の思想や哲学においてはもちろん、さらに文学においても非常に大切にされてきた。それでなければ、純文学など最初から成立していない。


 そして、この”情”というガラクタは、これから役に立たなくなればなるほど、機械が持たない人間だけのものとして、尊くなっていくだろう。これは、私の直感すなわち”情”である。


 ただ、甚だ残念なのは、母や私の”情”を包括できる、孟子のような”理”が、私にはまだ見つけられていないことだけだ。

参考資料


・NHK手話ニュース(2017年3月4日放送回)

・「富国と強兵 地政経済学序説」著:中野剛志

・「考えるヒント1」著:小林秀雄

・孟子を読む 梁惠王章句上 http://sorai.s502.xrea.com/website/mencius/mencius01-07a.html

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― 新着の感想 ―
[一言] まあ、情を振り回してバカなことする人間の方が多いけどね。つい去年やってた真田丸で石田三成が福島正則にお前は、情が無いと言われましたが巨大な行政政府が情を振り回して贔屓したらまた戦国に逆戻りす…
[一言] 役に立つかについて触れつつも 取るに足らないものかどうかに話がいっていて面白かったです
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