臭う牢獄にて
ウッと呻き声を上げた後に岩淵が目をゆっくりと開いた時、奏は安堵するあまり思わず涙がこぼれそうになった。一晩経っても目が覚めず、顔を醜く腫らしたまま、まるで死んだように眠り続けていたからだった。
「良かった……。気がついて」
「ここは……、どこだね?」
上体をゆっくりと起した岩淵が周囲を見渡しながら尋ねた。奏はコッペパンを二つ抱えて、岩淵と同じ様にござの上に座っている。どこかの洞窟の一画を牢屋に改造したものらしい。
ごつごつとした壁や床は岩場と変わりなく湿っぽい上に、腐ったような臭いが申し訳程度に設置されたおまるから流れてきて息がつまりそうだった。見たことも無い奇妙な虫が湧いて辺りを這い廻っているし、奏はできるだけそちらを見ないようにして岩淵だけに視線を向けていた。奏がパンを抱えているのも、飛んでくる虫からパンを守るためだった。
「あの怖い人達の、アジトなんだと思います。」
奏は店の前で岩淵が倒れている姿を見てそのまま気絶し、気がついた時にはジープの後部座席で両腕を縛られていて身動きができない状態だった。
どこを走っているのか見当もつかず、とある洞窟に入ると、今いる岩の牢屋に奏と岩淵は閉じ込められた。
「そうか……」
巻き込んで済まなかったねと、岩淵は深く溜息をついた。
「済まないだけでは足りないんだが……」
「それよりも、あの人達は何者なんですか?ウーレセンて軍事会社ですけど、それでも外国ではちゃんとした大手の会社のはずですよね?」
奏の質問に岩淵が答えようとした時、足音に気がついて岩淵は音がする闇の奥に目を向けた。
コツコツと靴の音の響きが大きくなったかと思うと、黒い影が三つ牢屋の前に浮かび上がる。
「お目覚めかい。岩淵博士」
ソレナリオがヨワルスキーとコワイネンを従え、牢屋の前に仁王立ちをして見下ろしていた。
「……おかげさまで快調だよ、ソレナリオ。君のご丁寧な折檻のおかげで、顔はこんな有り様だし、ろっ骨や左手の中指と人差し指にもヒビが入っている。まともに歩けるまでにあと三週間は掛かりそうだ」
「私達に従わないからですよ?もしあなたが望むなら、私の身体だって差し上げて堪能させてあげたのに」
「淫売はあそこが臭いと死んだばあさんが言ってたよ。病気を持っているから付き合う名とね。あいにく、僕は鼻が人よりも利いてね。ここの便所よりもぷんぷん臭ってくるから勘弁だな」
ふんとソレナリオは鼻を鳴らして平静さを装っていたが、引きつった頬や顰めた眉の様子からかなり動揺しているのは奏にも見てとれた。部下の手前もあるのだろうし、アングランドに必要な人間だから手を出さなかったのだろうが、憤懣をぶつけるように手にした鞭を何度も強く地面に叩きつけていた。
「……そんな減らず口が言える分、意外と元気そうでなによりさね。まあ、環境はご不満でしょうがお孫さんとしばらく食事とご歓談を楽んでくださいな」
「食事もいいがここを何とかしてくれんかね。僕も孫も息がつまりそうだ」
「博士の考えが変わらないようでは、私の判断では応じかねるねえ」
「痛い目に遭うのはもうこりごりだ。それに世界よりも孫の方が大事だからな。君には酷いことを言ったが、ここまで怪我を負わされたお返しだ。それぐらいはいいだろう?ちゃんと協力するよ。この怪我が治れば」
ソレナリオは岩淵の申し出にすぐには答えず、無言のまま凝視していた。嘘か真実か天秤に掛けているのだろうと奏は思ったが、ソレナリオは真実に傾いたらしい。固く結んだ口元を緩め、肩の力が僅かに緩んだ。
「それでは明日にも手配しよう」
帰るよとソレナリオはヨワルスキーとコワイネンを促し、再び闇の奥へと消えていった。
三人の姿が消えると、岩淵は君を孫だってさと肩をすくめて小さく笑った。
「明日には、もうちょっとマシな部屋に住めるぞ」
「ええ、ありがとうございます。でもその前にさっきの……」
「そうか、質問は何だったかな」
「……ソレナリオさんとウーレセン社の関係です」
奏が答えると岩淵は質問の内容を思い出した様子で、ウーレセンは数年前まではまともな会社だったと岩淵は目を揉んだ。まだ上体を起こすだけでも目眩がするのか、岩淵は再び床に寝そべり、目を閉じたままゆっくりと話し始めた。
「前社長が不慮の事故で死んで、今の社長になってからおかしな連中とつるむようになった」
出来の悪い社長でねと岩淵は吐き捨てるように呟いた。
「ケンブリッジだかどこかに在籍していたはずだが、学んだことは酒とドラッグと賭博らしい。社長室には開発研究部の結果を把握し直接指示ができるような態勢を組んでいたんだが、あいつが社長に就任して第一声が、〝あんな無粋な連中よりも女を呼んで、バーとビリヤード台を置け″だったからな」
「……」
「あいつには株屋の様な経営理念しかない。連中の甘い戯言を鵜呑みにして会社を食い物にしてしまった」
「連中てあの女の人達ですよね?」
「アングランド。君は聞いたことがあるかな?」
いいえと奏は首を振った。
「闇取引を生業としている連中だ。人身売買や麻薬、違法な武器売買にも関わっている。我々が平和のための解決手段のために開発した武器がテログループの手に渡るわけだ」
「そのボスがあの女の人なんですか?」
「ソレナリオか? あいつは幹部の一人だ。社長に近づいてたらしこんだのも奴らしい」
中学生で初心な奏でもどんなことが起きたか容易に想像がつく。
一瞬、頭のてっぺんまで熱くなるのを感じたが、相手は自らの身体を餌にし、一人の老人でしかない岩淵を叩きのめすような人間である。手段を選ばない危険な連中にさらわれたのだと思うと、奏の頭の中は急速に冷めていった。
「岩淵さんは、ウーレセンの関係者だったんですね?」
「そう。開発研究部の主任を務めていた。アングランドの連中が関わるようになってからは碌なことがないと考えて逃げ出すようにして辞めた。関わった研究結果はすべて社に置いてきたんだが、私が個人で研究していたものをアングランドの連中がどこかで嗅ぎつけたらしい。あの工房にもしつこくやって来るようになったんだ」
「……」
「アングランドの連中は、私が発明した兵器を幾つか手に入れて、欲が出て独自の兵器開発に携わりその力を全世界に披露したいらしい。いずれは世界を征服したいなどと熱く語っていた」
「世界征服……?」
最近のヒーローものでも使われない用語を耳にして、誰かの陳腐な創作談義でも聞いているような気分だった。本気で考えている人間なんているのだろうか。
「もちろん世界征服なんてふざけた妄想だ。兵器の力を過信し恐怖で人を支配できるなどと馬鹿げている。馬鹿げているが、奴らは私の発明品を手にして、その力を使って本気で世界を支配しようと企んでいる。恐怖政治はフランス革命が元だが、日本だって有名なところだと織田信長なんかは、反抗する人間に対して容赦のない支配で結局は疑心暗鬼になって追い詰められた部下に殺された。……君も授業で習っているよね?やつらは高転びして自滅するだろう」
「……」
「けれど、それまでに多くの人の血が流れる。このままだと、いずれ君も」
「でも、ここからどうやって逃げ出せばいいんですか?私、絵を描くだけしか能が普通の人間ですよ?」
落ち着きなさいと岩淵が言ったが、その声はか細く奏の耳には届かなかった。
「私、あの人たちに何をされるんですか?どこかに売りとばされたり……、口封じに殺されちゃうんですか……?」
恐怖と絶望が奏の胸を満たして暴れ狂い、気がどうにかなりそうだった。心臓の鼓動が耳の奥まで響いてきて、反吐が出そうな空気でも構わず深呼吸をしても、呼吸が全く落ちつかないし、目眩にも似た感覚に襲われて焦点も定められないでいた。
こんな思いをさせられるくらいなら、いっそ濁流のような感情に身を任せて気でも狂えたら、待ちうける非情な現実を直視せずに済んでその方が楽かもしれないとさえ思えた。
「だから、落ち着きなさい。君に害が及ぶと言ってもすぐにじゃ無い。今の私はこの通りの身体で当分は研究に当たれない。君をさらったのも人質のつもりなんだろう。私が奴らに従っていれば君も安全だ。さっきのソレナリオを見たろう?奴らは慢心している。僕はこんな身体で、ここには監視カメラも無いし、臭いを嫌がって見張りも牢屋の前から離れて碌に役目を果たしていない。そんな連中だからつけ入る隙は充分あるはずだ」
「……でも、そんな隙が生まれるまで、私の心が耐えられるかどうか」
最後の頼みはこいつだなと岩淵は首に掛けたままの数珠を手に取った。
「神頼み……ですか?」
「うん。これで轟天丸が助けに来てくれるんだ」
「……」
「轟天丸はブラック・サバスの曲に乗って現れ、その力でアングランドの連中を薙ぎ払うだろう。その時の奴らの顔が見物だな」
岩淵が何を言いだしたのかわからず、とうとう気がおかしくなったのかと岩淵の顔を見たが、腫れたまぶたから覗く瞳は綺麗に澄んでいて公園や工房の時と変わらぬ穏やかな光を宿していた。
「……私の身体が動けるまでの辛抱だ。きっと君を守るから希望を持ちなさい。それと、ちゃんとご飯も食べておきなさい。いつでも逃げられるように、君は身体を元気にしとかないと」
「こんなところで食べたら戻しちゃいますよ。それにここから逃げられたって、どこだかわからないのに」
ここがどこかはおおよその見当がつくと岩淵が言うと、近くに這う虫を事もなげに捕まえた。
「こいつはヨツボシモンシデムシというやつで糞や死骸を餌にしている虫だ。主に長野県付近に生息している。……他にもザザ虫もいるな。こいつは川の浅瀬に住みつくからそうよばれているんだが、近くに川があるようだ。……部屋の隅にクリチャササグモがいるね。飛んでいるハエやダンゴ虫も日本のそれだ。おそらく連中は長野県の国境、少なくとも僕らは日本にいる。山道がつらいだろうがそれほど広くもない日本だ。外に出られれば何とかなるさ」
あまりにもあっさりと断定するので奏は反論や疑問を挟む余地も無かった。
「僕は大丈夫だから……」
岩淵の言葉がそこで急に弱まり、身体の力が抜けていく。そしてちょっと眠ると言うと、そのまま寝息を立て始めた。奏は胸が上下に揺れているのを確認すると、少し風が入り出来るだけ空気が拡散している牢屋の鉄格子近くで座ってパンをかじり始めた。悪臭のせいでぼそぼそと欠片を少しずつ口に運ぶだけで精一杯だったが、それでも何とか腹の中に納めようと喉の奥に詰め込んだ。お父さんやお母さん、心配しているだろうなと両親の顔が浮かんだが、それだけで目の奥が熱くなり、心がかき乱されてくじけてしまいそうになる。
出来るだけ考えないように手にしている固いパンを食べることだけに集中した。