そんなもんでしょ?
音無奏の日常はひどく単調である。
「……お疲れさまでした」
奏が小さな声で帰りの挨拶をしたのだが、近くにいた他の美術部員数名がおうと答えただけで、もごもごとした挨拶に気づかず、生徒たちはそれぞれ下校の準備や雑談を交わしていた。
奏は気弱な笑みを浮かべてそのまま静かに教室の扉を閉め、俯き加減に下校していく。
神林中学校の校門を出てから家に帰るまで、音無奏は終始この姿勢で、中学一年の時には考えごとをしていて前の電柱に気がつかず額をぶつけて眼鏡を割り、痛みとショックで卒倒して大騒ぎとなる。
その後、救急車が呼ばれて病院に運ばれてからは、周囲にも若干、目を配るようにもなったのだが、それでもこの癖はなかなか改まらないでいる。
そんな奏でも、あの公園に差し掛かる時だけは、まっすぐにきっちりと顔を上げる。
だが、やはり今日も老人の姿はなく、二、三人の子どもが老人の座っていたベンチに集まり、ゲームをしている光景がそこにあるだけだった。
「こんにちは、奏ちゃん。今、帰り?」
家の門の前に来たところで近所のおばさんに声を掛けられ、そうですと慌てて顔を上げて挨拶をした。
宮原という隣家の人で、母との茶飲み友達だった。
「奏ちゃん。美術部なんだって? 偉いわねえ」
何がエライのか奏にはよくわからなかったが、とりあえず曖昧な笑みを浮かべて、小さく首肯するより術を持たない。
「将来は絵描きさんになるの?」
いえ、そうでもないんですけどと言いかけたところで宮原夫人は奏の返事を待たずに、それにしてもウチの息子はと変な趣味にはまって遊んでばかりいるという自分の息子について嘆き始めた。
「奏ちゃんは知ってる?何とかアンリとか……」
「アニメ……、ですかね?」
何だか聞いたことがある。
だけど、それが何かは詳しくない。
本当は十分に知っているのだが、自分の趣味が知られたくなくて、そっち方面は初心な一般人を装いながら、奏は慎重に言葉を選んでいた。
アンリとは深夜に放送されている〝学園アンリちゃん″という、学園を舞台にした魔法少女によるちょっとエッチなラブコメアニメだ。
クラスでも話題にしている男子が数人いて、クラスから失笑と白い目が向けられているが実は奏も熱心な視聴者の一人だった。
語ろうと思えば数時間でも語れるだけの自信はあるのが、目の前にいる中年の女性がそんな解答を求めているわけではないということくらいは奏も充分承知している。
「あの子、アニメにはまってそれにお金つぎ込んでいるみたいなの。DVDだとか声優のイベントに行ったりして……。幾ら遣ってんだか」
「はあ……」
イベントとは、主役の声を務める水橋めぐみが出演予定だったあのイベントだろうかと、ちょっと羨ましく思いながら、宮原のぼやきを聞いていた。
「……そりゃあ、私が若い頃だってアニメはあったし、はまっている子もいたわよ?でも、オタクなんて自分の息子がなるとは思わなかったし、事故起したからなんて言って、親を騙してしょうもないものにお金をつぎ込むのよ?この不景気なのに、あんな大学なんて行かせなきゃ良かった」
「……」
中学生の私に言われても。
宮原の愚痴話は次第に熱を帯び、話はあちらこちらと横道に逸れて、水道代が値上げしただの給料が安いだの支持政党への不満だの、宮原の不満は湧水のように際限なく溢れて来るようで、奏には話の終わりが全く見えてこない。
途中で母の美奈子が声に気がついて表に出て来なければ、どっぷりと日が暮れていただろう。
実際、宮原に挨拶した時はまだ陽は頭上にあったのに、終わるころには屋根に僅かな紅い光を残すのみで、辺りはすっかり薄暗くなっていた。
「宮原さんと、随分と話し込んでいたのねえ」
宮原と別れ、家に入ると労うような口調で言った。
「……あの宮原さんが一方的に話しかけてきただけだよ。私、聞いてただけだもん」
「何を話してたの?」
「うん、と……。特に。忘れた……」
奏の素っ気ない返答に、母はそうと苦笑した。母も宮原のおしゃべりがどんなものかは充分に承知している。
「よう。遅かったなあ、奏」
奏がリビングに入ると、弟の弦太がソファーに寝そべる姿勢でゲームをしながら奏を迎えた。
その声にはどこか小馬鹿にしたような、皮肉混じりの響きがある。
二歳年下の小学生の弟は生意気の盛りで、このところ姉の奏をどこか軽く見るようになり、奏の言うこと為すこと全てに反抗し口ごたえばかりしている。
以前、自分の趣味を詰られたこともあって、普段は大人しい奏だが、内心腹が立って無視を決め込んでいた。ここ一週間、弦太とまともな会話を交わしていない。
「……」
「なんだよ。無視か? 家でもいじけてんのな」
「ほら、弦太。そろそろご飯なんだから、ぼさっとしてないで手伝いなさい」
母に叱られる弦太には目もくれず、奏はリビングを抜けて二階の自室に向かった。音無家はリビングを通りぬけないと外に出られない造りになっている。家族といつも顔を合わせられるようにと父が業者に依頼したらしい。
あの生意気な弟と顔合わさないといけないのかと思うと、余計なことをとしか奏には思えない。
奏は二階に上がって自室に戻ると、宮原からのおしゃべり攻撃で生じた疲れがどっと出て、鞄を放り投げると、制服姿のままベッドにどっと倒れ込んだ。あのおばさん、話し長すぎだよとぼやき母はいつもどうして捌いているんだろうと不思議でならなかった。たが宮原についてはそこまでで、すぐに関心は公園の老人へと移っていた。
天井をぼんやりと見上げながら颯爽とした老人の顔を思い浮かべる。若い頃はかなりモテたに違いない。
「今日もいなかったな……」
どうしたんだろうと奏は呟いた。
病気かも知れず活発で行動的なイメージがあるから、もしかしたら海外旅行に出掛け、ビリヤードでもしているのかもしれない。様々な妄想が奏の頭の中で浮かんでは消えてゆくがどれも憶測である。
一度、犬のショーを見ただけで話したこともない関係なのだから気にする必要もないはずだが、魚の小骨が喉に引っ掛かったような気がかりが胸の奥にわだかまっていた。
これはもしかして恋なのだろうかと一時は悩んだり焦ったりもしたが、ネットや他のクラスメイトの恋話を盗み聞きしていると、それも違うような気がする。
「……考えても仕方ないか」
着替えようと呟いて奏は身体を起した。
奏の部屋は乱雑だとかゴミが溢れて汚れているわけではないが、本棚から雑誌やブルーレイディスク、漫画に文庫本、他に参考資料となりそうな古本屋で購入した学術書や美術全集などが収まりきらず、そこかしこに山積みとなっているためにお世辞にも片付いているとは言い難い有り様だった。
もう随分と読んでいないものも多数あって、母からは再三注意を受けて片付けるよう言われているのだが、もしかしたらまた目を通すことがあるかもと思うともったいない気がして、結局はそのまま放置されて埃を被ってしまう。
「アンリちゃんのイベントか……。行ってみたかったな」
奏にとっては宮原の不肖の息子が親を騙したことよりも、イベントに参加したことの方が頭のなかに残っていて、おもむろに机の棚から二冊のノートを取り出し、それぞれぺらぺらとめくり始めた。
ノートには鉛筆で描かれた女の子の様々な表情やポーズが描かれていて、そのどれもが〝学園アンリちゃん″の主人公畑中アンリだった。
奏と同じ様に引っ込み思案なのと、ラブコメの割にちょっとほろ苦い展開やキャラの心情が奏の心を捉え、彼女にとっては今イチオシのアニメだったがクラスの男子に失笑されていたように、ネットやクラスという名の世間ではさほどウケがよろしくない。声優目当ての書き込みはあるもののネットの伸びも他の話題作に比べると今一つで、ネットの書き込みでは当て馬扱いされている作品だった。
〝○○に比べたらカス″
〝くやしかったら××越えてみろ″
昨日、投稿された書き込みとその後の荒れた流れを不意に思いだし、奏の頭の中が急に熱くなった。ネットの中だけでなく、クラスでも似た様なやり取りがかわされるのを聞き、昨日の書き込みはアナタたちじゃないのかと心の中で咆哮するような思いがした。本を読むふりをして前髪の奥から嘲笑する連中を睨みつけ、「こいつらに嫌なことが起きますようにと」と邪念を送ったものだったが、連中は今朝も元気に登校し、特に異変も起きずにわいわいと騒ぎながら帰って行った。
もう一方のノートには畑中アンリに似ているが、もっと露出の多い服を着て、先端に星型模様のスティックを手にしている。鉛筆で描かれ、コマ割りされて台詞もついており漫画形式になっている。畑中アンリをモチーフにして自分で初めて書き上げた漫画で、弦太に意見を聞こうと見せたものだが、作品そのものの出来には触れず「こんなの現実にあるわけないだろ」と酷く詰られたのだった。
「絶対、見返してやるんだから……」
憤然とノートに目を落とし奏は改めて決意を固めていた。誰に見返すのか本人もわかっていなかっただろうが、好きな作品をけなし馬鹿にした連中に対する報復に近い感情が胸の内に渦巻いていて、ただ漫画家になるというだけでなく周囲にアッと言わせたいという想いが強くなっている。それは学校で気の合う仲間も見つからず、部活でも一人で自分を抑え込んでしまっている現状への不満が起因していたのだが、そのことに奏は気が付いていなかった。