3本目
今日もテーブルの上に母の用意してくれたお弁当が置いてあった。
お弁当箱を包んでいるのは、淡い紫の花柄がプリントされたかわいいハンカチ。
横方向はくるりと巻いただけで、縦方向の角を寄せてそれを小さく蝶々結びにしてある。
縦13センチ、横10センチほどのかわいいお弁当箱だ。
亜音はそれをカバンに入れる。
お母さん、いつもありがとう。
そういえば、母の顔を見なくなってどれくらいになるだろう。
小さい頃は休みの日になると、ちゃんと母が家にいた。
その頃は何も気がついていなかったが、小学校の3年生くらいになるとにこやかに笑う母の目の下に隈があることに気づいていた。
だから亜音も一生懸命笑顔でいた。
亜音が小さいうちは、シフトをそんなふうにしてもらうために他の日に無理をしていたに違いない。
高校生になった今は、そんなことにも想像力が働く。
小学校のうちから、平日に亜音が母の顔を見ることは稀だった。
亜音が中学生になる頃には母は2つの仕事を掛け持ちするようになった。
亜音の学費を稼がなくてはならないからだ。
この頃から、亜音は母と顔を合わせることが少なくなった。時間帯が合わないのだ。
「ちゃんと高校までは行きなさいね。お金のことは心配いらないから。」
進路相談のとき、母は亜音と担任の教師の前でそんなふうに言った。
高校無償化という話は政治家の間で持ち上がってはいたが、すぐに制度がはじまるわけではない。
今も国会で議論されているようだけど、たとえ決まったとしてもそれが始まるのは亜音が卒業した後になるだろう。
政府の施策というものは少しずつ前進している、と専門家の人たちは言う。
いろんな優遇措置が、少しずつ、より上の年齢の子どもたちにまで及ぶように改善されてきた。
幼稚園までだった制度は、やがて小学生にまで及ぶようになり。中学までだった補助は、高校にまで拡大されてゆく。
時代は少しずつ良くなっていく。
けれど……
子どもは成長するのだ。
12歳にまで拡大された恩恵は、去年まで12歳だった子どもには及ばない。
15歳にまで拡大された補助制度は、去年まで15歳だった子どもには適用されない。
そんなふうにして、時代と制度の狭間に落ちてしまった世代がずっとワリを食い続けるという現実を、専門家や政治家の人たちはわかっているのだろうか?
18歳から選挙権が与えられるのだという。
何を選べばいいのか、亜音にはわからない。
ただ、お母さんがもう少しラクになればいいな……とだけ、亜音は思う。
母は早朝シフトの仕事に出てゆき、お昼前に一度帰宅するらしい。
そこで自分の昼食をとると同時に、亜音のための夕食も作って冷蔵庫に入れておく。
それから3時間ほど眠って、亜音が帰ってくる前に夜シフトの別の仕事に出かけてゆく。
夜、亜音が寝ているうちに帰ってきて、やっぱり3時間ほど眠ってからまだ真っ暗なうちに起きて自分の朝食と亜音のお弁当を作って仕事に出てゆく。
だから、亜音は母と顔を合わせない。
夜遅くまで起きていれば顔を合わせることもできるのかもしれないが、疲れ果てて帰ってくる母を煩わせたくないと思うので早くベッドに入ってしまう。
ときに、母がそっと部屋のドアを開けて亜音の様子を見る気配を感じるときがあるが、そんなときも亜音はあえて母に話しかけるようなことはせず寝たふりをしている。
母の顔を見なくなってどのくらいになるのだろう。
亜音は母の顔を思い浮かべてみる。
その笑顔は、亜音が小さいときの若い母の笑顔だった。それさえもうっかりすると記憶の中でぼやけ、溶け出して流れてしまいそうだ。
今は、どんな顔だろう?
変わってないだろうか?
それとも長年の疲れのために老けてしまった顔だろうか?
想像してみようとしたけど、ぼんやりしてしまう。
夜寝たふりをするのは、はっきり顔を見るのが怖いからだろうか。罪悪感に襲われてしまうと思うからだろうか。
それとも母にとっての小さな亜音でいてあげたいからだろうか。
亜音は今日、学校にいく前にテーブルにメモを残した。
『いつもありがとう お弁当無理しなくていいからね 休める時に休んでね』
学校から帰るとそのメモに返事が書いてあった。
『あっちゃんのお弁当作るの楽しいから』
ありがとう。
ありがとう、お母さん。
マッチ箱からマッチを1本取り出す。
マッチを擦ってそのメモをつまんで火をつける。
シンクの上に持っていって、指先に火が届きそうになるまで持っていてから、はらり、と手を放した。
黒く湾曲したマッチの燃えかすを皿の上に置く。
3本目。




