2本目
目覚ましの音に目を覚ます。外はすでに明るい。
しばらくお布団の中でぐずぐずしてから、意を決して亜音は起き上がる。
ダイニングに行くと、テーブルの上に今日のお弁当が置いてあった。
母は早朝に職場に出かけてしまっていて、亜音が母と顔を合わせることはまずない。特に高校に進学してからは、もしかすると一度も会っていないかもしれない。
お弁当を持って家を出る。
バスに乗って、バス停の5つ先が亜音が通う高校。
バスには同じ制服の生徒が大勢乗っていて、友達同士でどうでもいいようなことを話して笑い合っている。
そんな会話のところどころに、(ワタシの方ガ楽シイ人生ヲ送ッテイル)といったような密かな虚栄心が混じっているのがわかる。
亜音はそういう会話には加わらないで、手すりのポールに体を寄りかからせて立っているのがいつものことだった。
バスの天井から蜘蛛が細い糸にぶら下がって下りてきた。
おしゃべりに夢中の生徒たちの頭の上に、1匹ずつ。
蜘蛛は頭の上にその8本の足で下り立つと、髪の毛の中に潜り込んで消えてしまった。
バスが揺れて、亜音はあわててポールをつかむ。
バス停に停まるたびに車内は混み合ってきた。
高校前のバス停でバスが停まると、一斉に制服が動き出す。押し出されるようにして亜音もバスを降りた。
制服の波が、ぞろぞろと校門に吸い込まれてゆく。
さっきの蜘蛛はどうなったんだろう?
授業はさほど難しくはない。亜音にとっては。
教科書はかなり先まで読み進んでいるから。
亜音は授業中、窓の外を見ていることがよくあった。
それが気に入らないのか、ことさら亜音がぼうっと外を見ているときに当ててくる先生がいる。
亜音がすらすらと答えると、ちょっと意外そうな、悔しそうな表情を見せてから「はい、その通り」と言うのがその先生の口癖だった。
帰り、下足箱の前で亜音は動きを止めた。
靴の中に何かどろどろしたものが入れてあった。
なんだかわからないが、少し嫌な臭いがする。
誰の悪戯だろうか?
高校生にもなって、こんな……子どもみたいなこと……。
靴の舌の部分を持ってひっくり返すと、どろどろは踵の方から流れ落ちたが全部は落ちていかない。
流れたどろどろはスノコの上に落ちて、スノコ板の隙間に流れていった。
スノコが汚れたが気にしないことにする。亜音のせいじゃない。悪戯した子のせいだ。
どろどろが中に残った靴を履くのは気持ち悪いので、亜音は靴を手に持ったまま校門へと歩き出した。
コンクリートの上の小さな砂粒が靴下越しに足の裏に痛い。
靴って有難いんだな……と亜音は改めて思った。
「どうしたの?」
と同じクラスの真里が聞いてきた。
亜音は黙ってどろどろに汚された靴を見せる。
「ひどぉーい。ひどいことする人がいるね。先生に言った? 心当たりは?」
「ない」
とだけ亜音は答えて、あとは黙る。
あなたかもしれないじゃない? わざわざ話しかけてくるなんて。
第一、どうしてただの失敗や事故じゃなくて誰かがやったことだと思ったわけ?
バスの中でもずっと靴をぶら下げて帰ってきた亜音は、家に入るとすぐ靴をお風呂場で洗った。
洗濯用の粉石鹸を靴の中にたっぷりふりかけて、シャワーのお湯をかけて泡立てる。泡は黒いどろどろと混じり合うとすぐに力を失って消えたが、界面活性剤に絡めとられたどろどろは少し粘りを失ってお湯に流され、排水口へと流れていった。
排水口の周りに黒っぽい渦ができ、それが目皿のスリットに吸い込まれてゆく。
もう一度粉石鹸をふりかけてシャワーをかけると、今度は泡だったまま白い泡は消えずに排水口へと流れていった。
ボロ布で靴の中をゴシゴシこすって、それからもう一度仕上げにお湯をかける。
ぬるぬるも変な臭いもなくなった。
今から外に干しても、明日までには乾かないだろう。
亜音はエアコンをつけて、部屋の中で乾かすことにした。
壁ぎわに新聞紙を敷いて靴を立てかけ、靴の中にも丸めた新聞紙を詰める。
今日はまだマッチを擦っていなかったことを亜音は思い出し、マッチ箱から1本取り出してそれを擦った。
その火を靴に詰め込んだ新聞紙に移す。
靴の湿気を吸った新聞紙は半分も燃えず、少しだけ黒いひらひらになって火はそのまま消えた。
亜音は黒くなってくにゃりと曲がったマッチの燃えかすを、昨日の燃えかすが置いてある同じ皿の上に置いた。
今日でマッチの燃えかすは2本。




