第6話 お姫様抱っこは、私がするものです
グラン・マレ帝国の帝都、ルーン・ガルド。
石造りの重厚な建物が立ち並び、整備された大通りを行き交う人々で賑わう大陸最大級の都市だ。
その目抜き通りを、私は今、風となって駆け抜けていた。
「どいてくださーい! 急患(お腹を空かせた私)が通りまーす!」
私は声を張り上げた。
背中には豪華な王室用馬車。
本来なら四頭の白馬が優雅に引くべきものを、今は一人の令嬢(私)が引いている。
車輪が石畳を削り、火花を散らして回転する。
沿道の人々は、目を皿のように丸くして私たちを見送っていた。
「見ろ! 人間が馬車を引いているぞ!」
「あの方は……クラーク殿下の馬車ではないか!?」
「速すぎて顔が見えなかったが、銀色の閃光が見えたぞ!」
驚嘆の声が背後へ飛び去っていく。
彼らの視線は痛いほどだが、今の私には構っている余裕はない。
なぜなら、馬車の中から漂ってくるクラーク様の気配が、みるみる弱まっているからだ。
「うっ……ぐっ……」
微かなうめき声が聞こえる。
さすがに飛ばしすぎただろうか。
関所から帝城までは通常なら馬車で一時間の距離だが、私はそれを十五分で走破しようとしていた。
カーブでの遠心力Gが、病弱な皇太子の三半規管を破壊していないか心配だ。
前方に見えてきたのは、巨大な城壁に囲まれた白亜の城。
帝城ヴァルハラ宮殿だ。
高くそびえる尖塔と、堅牢な城門。
その威容は圧巻だが、私にとっては「ゴールのテープ」にしか見えない。
「到着しますわよ、殿下! あと少しの辛抱です!」
私は最後のスパートをかけた。
大腿四頭筋が熱く脈打ち、ふくらはぎのヒラメ筋が収縮する。
地面を掴む指の力が、靴底を通して石畳に伝わる。
ズザザザザッ!!
城門の前で、私は急ブレーキをかけた。
踵を地面に打ち付け、摩擦抵抗で強引に停止する。
煙を上げて馬車が止まった。
城門を守る近衛兵たちが、槍を取り落とすほど驚いているのが見えた。
「た、ただいま戻りました! クラーク殿下をお連れしました!」
私は息一つ乱さずに宣言した。
シャフトを地面に置き、すぐに馬車の扉へと回る。
中を確認しなければ。
「殿下、大丈夫ですか?」
扉を開けると、そこには座席にぐったりと凭れ掛かるクラーク様の姿があった。
顔色は蒼白を通り越して透明に近い。
額には脂汗が滲み、呼吸が浅く速くなっている。
「はぁ……はぁ……つ、着いた、のか……?」
「はい。最短記録を更新しましたわ」
「そうか……君は、本当に……すごいな……」
クラーク様は力なく微笑もうとしたが、その身体がグラリと傾いた。
意識が途切れかけている。
これはただの馬車酔いではない。
生命力の灯火が消えかかっているような、危うい状態だ。
「殿下!」
私は反射的に手を伸ばした。
座席から崩れ落ちそうになった彼の身体を、空中で受け止める。
軽い。
羽毛布団のように軽い。
成人男性とは思えない質量だ。
ちゃんとご飯を食べているのだろうか。
これでは強風が吹いたら凧のように飛んでいってしまう。
「くっ……すまない、少し……発作が……」
クラーク様が苦しげに胸を押さえた。
魔力過多症の発作だ。
体内で暴走する魔力が、彼の脆弱な肉体を内側から蝕んでいるのだ。
「殿下! しっかりなさいませ!」
「衛生兵を呼べ! 殿下が倒れられたぞ!」
騒ぎを聞きつけた城内の兵士や騎士たちが、わらわらと集まってきた。
重厚な鎧を纏った、強そうな騎士たちが駆け寄ってくる。
彼らは私からクラーク様を引き剥がそうと手を伸ばしてきた。
「どけ! 殿下を医務室へ運ぶんだ!」
「貴様、何者だ! 殿下から離れろ!」
彼らの剣幕は凄まじい。
不審者(私)が皇太子を害しているように見えたのかもしれない。
だが、彼らに任せていては遅い。
彼らの動きは、私から見れば止まっているように鈍い。
それに、医務室まで担架を運ぶ時間を考えれば、私が走ったほうが百倍速い。
「邪魔です」
私は短く告げた。
そして、クラーク様の背中と膝裏に腕を回した。
グッ、と力を込める。
上腕二頭筋が盛り上がり、私の細腕が鋼鉄のアームへと変化する。
フワリ。
私はクラーク様の身体を軽々と抱き上げた。
いわゆる「お姫様抱っこ」だ。
本来なら王子様がヒロインにするものだが、今は緊急事態だ。
物理的に強い方が弱い方を運ぶ。
自然の摂理である。
「えっ……?」
「なっ……!?」
騎士たちが動きを止めた。
小柄な令嬢が、自分より背の高い男を軽々と抱え上げる光景に、脳の処理が追いついていないらしい。
「レ、レティシア嬢……?」
腕の中のクラーク様が、驚いたように目を見開いた。
至近距離で目が合う。
黄金の瞳に、私の顔が映っている。
「舌を噛まないように気をつけてくださいね。少し揺れますから」
私はニカッと笑いかけた。
そして、呆然とする騎士たちの間をすり抜けるように駆け出した。
「ちょ、待て! どこへ行く!」
「追え! 殿下が誘拐されるぞ!」
背後で怒号が響くが、関係ない。
私は城内の広大なエントランスホールを疾走した。
磨き上げられた床は大理石で滑りやすいが、私の体幹バランスにかかれば問題ない。
つま先で的確にグリップし、コーナーを鋭角に曲がる。
「キャーッ!」
「な、なにあれ!?」
廊下を歩いていた侍女たちが、悲鳴を上げて壁際に避難する。
彼女たちの目には、銀髪の令嬢が皇太子を抱えて高速移動する残像しか見えていないだろう。
「医務室はどこですか!」
私はすれ違いざまの執事に問いかけた。
執事は腰を抜かしそうになりながらも、震える指で上を指した。
「さ、三階の……東塔でございます……!」
「感謝します!」
私は大階段へと向かった。
螺旋状に続く長い階段だ。
普通なら息が切れる難所だが、私にとってはただのステップ運動だ。
タタタタタッ!
一段飛ばし、いや三段飛ばしで駆け上がる。
重力など存在しないかのような軽やかさだ。
腕の中のクラーク様への衝撃を最小限にするため、上半身は固定したまま、下半身だけをピストンのように動かす。
これぞ「サスペンション走法」だ。
「……ふふ」
不意に、腕の中から小さな笑い声が聞こえた。
私が視線を落とすと、クラーク様が口元を緩めていた。
苦しそうではあるが、その瞳は穏やかだ。
「どうされました? やはり揺れますか?」
「いや……心地よくてね。君の腕の中は、どんなベッドよりも安心する」
彼は私の肩に頭を預けた。
その頬が、私の首筋に触れる。
冷たかった彼の体温が、少しずつ温かくなっているのを感じた。
私のオーラが彼に流れているのだろうか。
「君の心臓の音が聞こえる。力強くて、温かい音だ」
「それは失礼しました。さっきまで馬車を引いていたので、少し回転数が上がっているのです」
「違うよ。……生きてるって、音がするんだ」
クラーク様は目を細め、私の胸元(筋肉で守られた厚い胸板ではないが)に顔を埋めた。
その仕草は、甘える子供のようでもあり、守護を求める小動物のようでもあった。
不覚にも、可愛いと思ってしまった。
この人を守ってあげたい。
物理的な意味で、あらゆる外敵を粉砕してでも。
「もうすぐ着きますからね」
私はさらに速度を上げた。
三階の廊下を一瞬で駆け抜ける。
前方に、白衣を着た医師らしき人物が立っているのが見えた。
ここだ。
「急患です! ベッドを空けてください!」
私は叫びながら、医務室の扉を蹴り開けた。
バーン!
扉が壁にめり込む勢いで開く。
「な、なんだ!?」
中にいた医師や看護師たちが飛び上がった。
私は彼らを無視して、一番近くにあった清潔なベッドへと直行した。
「よいしょっと」
私はクラーク様を、羽毛の上にそっと下ろした。
まるで壊れ物を扱うように慎重に。
私の腕から離れた瞬間、クラーク様が一瞬だけ名残惜しそうな顔をしたのを見逃さなかった。
寒かったのだろうか。
「クラーク殿下!?」
「これは酷い顔色だ……すぐに魔力中和剤を!」
医師たちが慌てて駆け寄ってくる。
彼らのプロの動きを見て、私はようやく肩の荷が下りた気がした。
私の仕事はここまでだ。
あとは専門家に任せるのが筋だろう。
私は一歩下がって、壁際に控えた。
呼吸を整える。
……お腹が空いた。
さっきの全力疾走で、朝食べた干し肉のカロリーは完全に消費された。
今の私なら、牛一頭丸ごと食べられる自信がある。
医師たちの処置を受けて、クラーク様の呼吸が次第に落ち着いていく。
点滴のような魔法器具が接続され、淡い光が彼の身体を包み込む。
それを見届けて、私はホッと息を吐いた。
「おい、貴様!」
その時、背後から鋭い声が飛んできた。
振り返ると、先ほど振り切ったはずの近衛騎士たちが、息を切らして追いついてきていた。
先頭に立つのは、一際立派な鎧を着た、強面の騎士団長だ。
「殿下になんてことを! 皇族の身体に触れるなど、不敬罪で斬り捨てられても文句は言えんぞ!」
騎士団長が剣の柄に手をかけた。
殺気立っている。
まあ、事情を知らない彼らからすれば、私は不審者極まりないだろう。
ドレスの裾は破れ、裸足に近く、しかも皇太子を拉致するように運んだのだから。
私は弁解しようと口を開いた。
「待て、ガレス」
制止したのは、ベッドの上のクラーク様だった。
彼はまだ弱々しいが、はっきりとした口調で騎士団長を呼んだ。
「殿下! しかし、この女は……」
「彼女は私の命の恩人だ。そして、私が直々に招いた客人だ」
クラーク様は身を起こそうとして、医師に止められた。
それでも彼は、鋭い眼光で騎士たちを射抜いた。
「彼女がいなければ、私は森で死んでいた。彼女への無礼は、私への無礼と見なす」
その言葉に、騎士団長ガレスは息を呑み、剣から手を離した。
そして、私に向き直ると、深々と頭を下げた。
「……失礼いたしました。殿下の恩人とは知らず、数々の暴言、お許しください」
「い、いえ。私も強引でしたので」
私は恐縮して頭を下げ返した。
筋肉で解決することには慣れているが、こういう堅苦しい場面は苦手だ。
「レティシア嬢」
クラーク様が私を呼んだ。
私はベッドのそばに歩み寄る。
「ありがとう。君のおかげで助かった。……また、君に救われてしまったな」
「護衛(仮)としての務めを果たしたまでです」
「ふふ、頼もしいな。……少し、眠くなってきた」
クラーク様の瞼が重そうに閉じかけようとしている。
発作が治まり、安心したことで睡魔が襲ってきたのだろう。
「ゆっくりお休みください。起きたら、約束の美味しいご飯をお願いしますね」
「ああ……約束するよ。最高級の肉を……」
クラーク様は幸せそうな寝息を立て始めた。
その寝顔は、先ほどまでの苦痛に歪んだものではなく、安らかな子供のようだった。
私は部屋を見渡した。
医師たちも、騎士たちも、私を奇異の目で見ている。
だが、そこには先ほどまでの敵意はない。
むしろ、「あの殿下をここまで安眠させるとは、何者だ?」という純粋な驚きと、畏敬の念が含まれていた。
こうして、私の帝城デビューは、「皇太子をお姫様抱っこして爆走した女」という、前代未聞の伝説と共に幕を開けたのだった。
とりあえず、誰か私に食事を持ってきてくれないだろうか。
お腹の虫が鳴りそうで、それが一番の心配事だった。




