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第2話 魔の森?いえ、ただのビュッフェ会場です

ガタガタと車輪が軋む音が止まった。

三日間に及ぶ馬車での長旅は、私の鋼鉄の肉体をもってしても退屈という名の苦痛を伴うものだった。

ようやく解放される。

私は固まった関節をポキポキと鳴らしながら、馬車を降りた。


目の前には、鬱蒼とした森が広がっている。

空を覆い隠すほどに巨大な木々。

紫色に淀んだ霧。

そして、どこからともなく聞こえる獣の咆哮。

ここは王国の北端、国境沿いに位置する「魔の森」だ。

凶暴な魔獣が跋扈し、入った者は二度と戻らないと言われる禁足地である。


「……ここでお別れだ、レティシア嬢」


護送を担当していた騎士が、沈痛な面持ちで私に告げた。

彼は私の顔を直視しようとしない。

罪悪感があるのだろうか。

あるいは、これから死にゆく者を見るのが忍びないのかもしれない。


「食料と水は、これだけだ。……すまない。上からの命令で、最低限しか渡せない」


足元に小さな麻袋が置かれた。

中身を見るまでもなく、硬い黒パンと水筒が一つ入っているだけだと重さで分かる。

普通なら絶望して泣き叫ぶ場面だ。

こんな危険な場所で、わずかな食料だけで生き延びろというのは、遠回しな死刑宣告に等しい。


しかし、私は満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます、騎士様。ここまで送ってくださり感謝いたします」


「えっ……?」


騎士は目を丸くした。

私が狂ったとでも思ったのだろうか。

いいえ、私は正気だ。

むしろ、これまでの人生で最も頭が冴え渡っている。


「では、ごきげんよう」


私は優雅にスカートの裾をつまんで一礼した。

騎士たちは困惑したまま、逃げるように馬車を走らせて去っていった。

遠ざかる馬車の音が消えると、あたりには静寂が訪れる。

いや、正確には静寂ではない。

ガサガサという草木が擦れる音や、遠くで何かが争う音が聞こえる。

大自然の音だ。


「ふぅ……やっと一人になれたわ」


私は大きく息を吐き出した。

肺いっぱいに吸い込んだ空気は、少しカビ臭く、獣の臭いが混じっている。

けれど、王宮の香水の匂いよりはずっとマシだ。

これは自由の匂いなのだから。


さて、まずは身支度を整えなければならない。

私は自分の格好を見下ろした。

カイル殿下の婚約者として仕立てられた、最高級のシルクのドレス。

レースやフリルがふんだんにあしらわれた、動きにくさの極みのような衣装だ。

これでは森を歩くのに邪魔で仕方がない。


「ごめんなさいお父様。このドレス、リメイクさせていただきます」


私はスカートの裾を両手で掴んだ。

そして、一気に左右に引き裂いた。


ビリリリッ!


景気のいい音が森に響く。

足首まであった長いスカートは、瞬く間に膝上丈のミニスカートへと変貌を遂げた。

さらに、袖も邪魔なので引きちぎる。

肩周りが露出し、可動域が格段に広がった。

これで腕を振り回しても布が突っ張ることはない。


次は靴だ。

華奢なハイヒールは、森の腐葉土の上を歩くのには適していない。

踵が高いとバランスが悪く、獲物を追いかける際に踏ん張りが効かないのだ。


私は靴を脱ぎ、手頃な大きさの石を探した。

そして、ヒールの部分を石の上に置き、拳で真上から叩いた。


ゴッ。


一撃でヒールが根本から粉砕される。

もう片方も同じように処理する。

これで即席のフラットシューズの完成だ。

見た目は少し不恰好だが、機能性は申し分ない。


「よし、完璧ね」


私はその場で軽くジャンプしてみた。

身体が軽い。

コルセットは馬車の中ですでに外して捨ててある。

今の私は、何の拘束も受けていない。

解き放たれた筋肉たちが、活動の時を今か今かと待ちわびて震えているのが分かる。


グゥゥゥ……。


盛大な音が、私の腹の虫から鳴らされた。

そういえば、朝から何も食べていない。

騎士たちがくれた黒パンはあるが、あれは非常食だ。

それに、私の筋肉を維持するには、圧倒的にタンパク質が足りない。


「お肉……お肉が食べたいわ」


私は森の奥を見据えた。

ここは「魔の森」。

言い換えれば、新鮮なジビエの宝庫である。

王都の市場には出回らないような、高栄養価の魔獣肉が歩いているのだ。

私にとっては、ここは危険地帯ではない。

食べ放題のビュッフェ会場だ。


私は鼻をひくつかせた。

獣の臭いを嗅ぎ分ける。

右前方、約三百メートルの地点から、濃厚な獣臭が漂ってくる。

脂の乗った、美味しそうな匂いだ。


「いただきまーす」


私は地面を蹴った。

ドオンッ、と地面が爆ぜる音がした。

一歩で十メートルを跳躍する。

風を切る音が耳元で唸り、景色が後方へと飛び去っていく。

ドレスの裾を翻し、私は獲物のもとへ一直線に疾走した。


数十秒後。

私は目的の場所に到着していた。

そこには、巨大な猪型の魔獣がいた。

体長は三メートルほどあるだろうか。

全身が剛毛に覆われ、口からは巨大な牙が突き出している。

「キラーボア」だ。

突進力に優れ、その牙は鉄板をも貫くと言われるBランクの魔獣である。


キラーボアは私に気づくと、グルルと低い唸り声を上げた。

赤い瞳が殺意に燃えている。

普通の令嬢なら、この威圧感だけで失神していただろう。

しかし、私は彼の上腕から肩にかけての筋肉の盛り上がりに見惚れていた。


(素晴らしい……あのお肉、絶対に美味しいわ。煮込みにしたらトロトロになりそう)


よだれが出そうになるのを拭う。

キラーボアは前足を掻き、突進の構えを取った。

地面が揺れる。

次の瞬間、巨大な質量が弾丸となって私に迫ってきた。


「ブモオォォォッ!!」


凄まじい速度だ。

普通の人間なら目で追うことすらできないだろう。

だが、動体視力が強化されている私には、スローモーションのように見えた。

私は一歩も動かない。

避ける必要などないからだ。


魔獣が目の前まで迫る。

鼻息が顔にかかる距離。

私は右手をゆったりと構えた。

狙うのは眉間。

脳震盪を起こして気絶させ、血抜きをスムーズに行うための一撃だ。


「はい、止まれ」


私は手のひらを突き出した。

張り手だ。

ただし、全身のバネと体重移動を完璧に乗せた、渾身の張り手である。


ドゴォォォォン!!


森全体が震えるような轟音が炸裂した。

私の手のひらが、キラーボアの巨大な頭部と接触する。

物理法則が狂ったかのような光景が展開された。

数トンはあるであろう魔獣の巨体が、その場でピタリと止まったのだ。

いや、止まっただけではない。

衝撃波が身体を突き抜け、背後の毛並みが波打った。


キラーボアは白目を剥き、その場で崩れ落ちた。

ピクリとも動かない。

外傷はないが、脳への衝撃で完全に意識を断っている。

見事な即死だ。


「ふぅ、手加減が難しかったけれど、うまくいったわ」


私は手を払った。

もし力を入れすぎていたら、頭部が破裂して食べるところが減ってしまっていたかもしれない。

力加減は、貴族の社交辞令と同じくらい繊細な技術が必要なのだ。


さて、調理の時間だ。

私はスカートのポケットから、護身用に持っていた小さなナイフを取り出した。

こんな小さな刃物で解体できるか不安に思うかもしれない。

しかし、道具というのは使い手の技量次第だ。

私の指先の力があれば、ナイフの切れ味が悪くても、強引に筋繊維を断ち切ることができる。


手際よく血抜きをし、皮を剥ぐ。

王立学園の生物学の授業で解剖実習があったが、あれは役に立った。

まさか令嬢としての教養が、こんな野蛮な場面で活きるとは思わなかったけれど。


火を起こす必要がある。

私は枯れ木を集め、二本の木の枝を手に持った。

摩擦熱だ。

私は目にも止まらぬ速さで木を擦り合わせた。

シュバババババッ!

摩擦音が鋭く響き、数秒で煙が上がり、火種ができた。

魔力がないなら、物理で熱を生み出せばいい。

単純な理屈である。


焚き火の上で、串刺しにした肉が焼けるのを待つ。

脂が滴り落ち、ジュッという音と共に香ばしい煙が立ち上る。

私はごくりと喉を鳴らした。

焼き加減はレアが好きだ。

表面がこんがりと焼け、中はまだ赤い状態。

野生の肉はよく焼くべきだと本には書いてあったが、私の胃酸は鉄でも溶かす自信がある。

多少の寄生虫など、タンパク質の一部に過ぎない。


「よし、もういいでしょう」


私は熱々の肉にかぶりついた。

ガブリ。

口の中に肉汁が溢れ出す。

野性味あふれる濃厚な旨味。

適度な噛みごたえのある筋肉。

噛めば噛むほど、生命のエネルギーが身体に染み渡っていく。


「ん〜っ! 美味しい!」


私は思わず叫んだ。

王宮のフランス料理のように洗練された味ではない。

ソースもないし、香辛料も足りない。

けれど、この肉には「自由」という最高のスパイスがかかっている。

誰にも気兼ねせず、大口を開けて、好きなだけ食べる。

これこそが、私が求めていた幸せだ。


あっという間に巨大な肉塊の一部を平らげてしまった。

胃袋が温かい満足感で満たされる。

食べた分だけ、また筋肉が喜んでいるのが分かる。


「ごちそうさまでした。さて、デザート……ではなく、寝床を探さないとね」


私は立ち上がり、残りの肉を大きな葉っぱで包んだ。

夜のおやつにするつもりだ。

森はまだ深い。

この先には、もっと美味しい食材や、心地よい寝床が待っているかもしれない。


私は鼻歌交じりに歩き出した。

その足取りは、舞踏会に向かう時よりもずっと軽やかだった。


しばらく歩いていると、何かが聞こえた。

先ほどの魔獣とは違う。

もっと巨大で、圧倒的な存在感を放つ何かの羽ばたき音だ。

そして、微かに聞こえる人間の声。


「……誰かいるのかしら?」


こんな森の奥深くに、私以外の人間がいるなんて。

遭難者だろうか。

それとも、私と同じように追放された同業者だろうか。


興味を惹かれた私は、音のする方へと足を向けた。

もしお腹を空かせている人がいたら、このお肉を分けてあげてもいいかもしれない。

筋肉仲間が増えるのは歓迎だ。


私は茂みをかき分け、開けた場所へと出た。

そこで私が目にしたのは、予想を遥かに超える光景だった。


巨大なドラゴンが、一人の男性を見下ろしている。

そして男性は、今にもブレスで焼き尽くされそうになっていた。


「あら、大変」


私は呟いた。

大変だというのは、男性の命のことではない。

ドラゴンの尻尾が、彼の乗ってきたであろう立派な馬車を粉々に破壊しようとしているのが見えたからだ。

あの馬車の中には、きっと高級な保存食が入っているに違いない。

それを粗末にするなど、筋肉への冒涜だ。


私は地面を蹴った。

先ほどのキラーボア戦よりも強く、鋭く。

獲物を狙う肉食獣のように、私は戦場へと飛び込んだ。

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