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第10話 王国からの追っ手〜物理無効?関係ありません〜

帝国の風は、いつだって美味しい匂いがする。

それは市場から漂う香辛料の香りだったり、広大な牧草地の草の匂いだったりするのだが、今の私にとっては「焼きたてのパン」の香りだ。


「レティシア、口元にクリームがついているよ」


隣を歩くクラーク様が、ハンカチで私の口元を優しく拭ってくれた。

私たちは今、帝都郊外にある王立演習場に来ていた。

公務の一環としての視察だそうだが、私にとってはピクニックに近い。

手には、街の人気店で買った特大クリームパンが握られている。


「失礼しました。帝国のパンは生地の弾力が素晴らしくて、つい夢中になってしまいました」


「気に入ってくれて嬉しいよ。……さて、彼らの様子はどうかな」


クラーク様が視線を向けた先には、帝国の騎士たちが訓練に励む姿があった。

模擬戦を行っている。

金属がぶつかり合う音と、騎士たちの掛け声が響く。

活気があって良い職場だ。

私もあとで混ぜてもらおうと考えていた、その時だった。


「そこまでだ! グラン・マレ帝国の者たちよ!」


演習場の入り口から、怒鳴り声が響いた。

空気が一変する。

訓練をしていた騎士たちが手を止め、一斉に入り口を睨みつける。


そこには、見慣れた紋章を掲げた一団が立っていた。

白地に青の獅子。

私の祖国、王国の紋章だ。

全身を銀色の重装甲鎧で固めた、五十名ほどの騎士団。

王国の精鋭部隊「鉄壁のアイギス」だ。

防御魔法に特化した部隊で、その守りはドラゴンブレスすら弾き返すと言われている。


「……何の用だ?」


クラーク様が一歩前に出た。

その声は、私と話す時の甘いものではなく、氷のように冷徹な皇太子のものだった。

私もクリームパンを飲み込み、クラーク様の斜め後ろに控えた。

護衛モードに切り替える。


「我々は王国より、レティシア・ヴァン・クロイツ嬢の身柄引き渡しを要求しに来た!」


先頭に立つ騎士団長が、大声で宣言した。

彼は私を指差し、傲慢な態度で続ける。


「その女は王国の重要機密を知る人物であり、国家反逆の容疑がかかっている! 直ちに引き渡せ!」


「反逆……ですか?」


私は思わず首を傾げた。

機密など知らない。

知っているのは、城の裏口の扉が錆びついていて蹴らないと開かないことや、カイル殿下が夜中にこっそり厨房でつまみ食いをしていたことくらいだ。

あれが国家機密だったのだろうか。


「ふざけるな」


クラーク様が吐き捨てるように言った。


「彼女は私が正式に招いた客人であり、帝国の貴賓だ。引き渡しなど断固拒否する。そもそも、貴国が彼女を追放したのではなかったか?」


「事情が変わった! カイル殿下のご命令だ! 『レティシアを連れ戻せ。さもなくば実力行使も辞さない』とな!」


騎士団長が剣を抜いた。

それに呼応して、後ろの騎士たちも武器を構える。

殺気立っている。

どうやら本気のようだ。


「実力行使か。……面白い」


クラーク様の瞳が怪しく光った。

彼は右手を挙げ、帝国の騎士たちに合図を送ろうとした。

しかし、私はその手をそっと制した。


「お待ちください、殿下」


「レティシア?」


「これは私の問題です。それに、せっかくの美味しいクリームパンの後味を血の味にしたくありません」


私は一歩前に出た。

ドレスの裾を翻し、王国の騎士たちと対峙する。


「あら、レティシア嬢。自ら出てくるとは殊勝な心がけだ」


騎士団長がニヤリと笑った。


「大人しく拘束されろ。カイル殿下がお待ちだ。城の門が開かないとか、魔獣が溢れたとかで、酷くご立腹だぞ。『戻ってきて全部直せ』とのことだ」


その言葉を聞いて、私は全てを察した。

なるほど。

私が毎日無意識に行っていた「物理メンテナンス」と「物理防衛」がなくなり、困り果てて迎えに来たというわけだ。

それを「反逆」だの「引き渡し」だの、よくもまあ偉そうに。

呆れて言葉も出ない。

都合が良すぎるにも程がある。


「お断りいたします」


私ははっきりと言った。


「私は今、この国でとても幸せです。美味しいご飯と、素晴らしいパートナーに恵まれています。あのカビ臭い城に戻って、錆びた扉と格闘する日々には戻りたくありません」


「……交渉決裂か。ならば力ずくでも連れて行く!」


騎士団長が叫んだ。


「総員、展開! 対物理特化結界『アイギスの盾』を発動せよ!」


騎士たちが一斉に詠唱を始めた。

彼らの鎧が青白く発光し、巨大な魔法陣が地面に浮かび上がる。

半透明のドーム状の障壁が、彼らの周囲に展開された。


「ははは! 見ろ、レティシア! これが我が国の誇る最強の防御魔法だ!」


騎士団長が勝ち誇ったように笑う。


「この結界内では、あらゆる『物理的衝撃』は運動エネルギーを吸収され、無効化される! 剣も、矢も、そして貴様のその馬鹿力も、ここでは無意味なのだ!」


なるほど。

物理無効。

魔法使いにとっては厄介な相手かもしれない。

私の攻撃手段は100パーセント物理だ。

パンチもキックも、デコピンも、すべて物理法則に基づいている。

それが通じないというのは、理論上は私の天敵と言えるだろう。


「さあ、捕縛しろ!」


結界に守られた騎士たちが、じりじりと距離を詰めてくる。

彼らは安全圏から一方的に攻撃できるつもりなのだ。

卑怯だが、戦術としては正しい。


「レティシア、僕が魔法で……」


クラーク様が前に出ようとする。

彼の魔法なら、この結界を破壊できるかもしれない。

だが、それは彼の体に負担をかけることになる。

それに、これは私の喧嘩だ。


「いいえ、殿下。下がっていてください」


私はクラーク様に微笑みかけた。


「物理が無効? 面白い冗談ですわ」


私はスカートを少し持ち上げ、準備運動のように足首を回した。

コキッ、と音が鳴る。


騎士たちが嘲笑う。

「無駄だ無駄だ! 殴っても蹴っても、我々には届かんぞ!」


確かに、直接殴ればエネルギーは吸収されるのかもしれない。

「衝突」のエネルギーを無効化する魔法なのだろう。

だったら。


「衝突しなければいいのですよね?」


私は低く呟いた。

そして、ゆっくりと腰を落とした。

相撲の四股に近い姿勢。

大地の感触を足裏で確かめる。

帝国の土は固く締まっていて、いい地盤だ。


私は両手を地面に突き刺した。

ズボォッ!

指先が、まるで豆腐のように土を貫き、深くまで食い込む。

岩盤層まで指が届いた感触がある。


「な、何をする気だ? 土下座か?」


騎士団長が首を傾げた。

違う。

私は土下座などしない。

私がするのは、いつだって「粉砕」か「運搬」だ。


「よい……しょぉぉぉぉっ!!」


私は叫んだ。

背中の広背筋が、ドレスを引き裂かんばかりに膨張する。

脊柱起立筋が鋼鉄のように硬直する。

大腿四頭筋が炸裂するようなパワーを生み出す。


ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!


地鳴りがした。

いや、地震ではない。

地面が「持ち上がっている」音だ。


「な、なんだ!? 地面が揺れて……!?」


騎士たちが慌てふためく。

彼らの足元の地面に、亀裂が走る。

メリメリメリッ! という不穏な音が響き渡る。


私が掴んでいるのは、ただの土塊ではない。

彼らが立っている「地盤そのもの」だ。

結界は彼らの体を覆っているが、彼らが立っている「地面」までは固定していない。

だったら、地面ごとひっくり返せばいい。

ちゃぶ台返しのように。


「あがれぇぇぇぇぇっ!!」


私は渾身の力で、地盤を引き剥がした。

バリバリバリバリィィィッ!!

轟音と共に、演習場の地面の一部――直径五十メートルほどの範囲――が、巨大な岩盤となって空中に持ち上がった。

その上には、五十人の騎士たちと、自慢の結界が乗っている。


「うわああああああ!?」

「浮いた!? 地面ごと浮いたぁぁ!?」


騎士たちが悲鳴を上げ、転がり落ちそうになる。

物理攻撃無効の結界も、足場がなくなれば意味がない。

重力という最強の物理法則には逆らえないのだ。


私は巨大な岩盤を、ピザ生地のように頭上で支えた。

重さは数千トンといったところか。

少し重いが、いいトレーニングだ。


「そ、そんな……馬鹿な……」


騎士団長が、宙に浮いた岩盤の端にしがみつきながら、眼下の私を見下ろしている。

その顔は恐怖で引きつっていた。


「物理無効だと言いましたね? でも、これは攻撃ではありませんわ」


私は岩盤を見上げてニッコリと笑った。


「ただの『模様替え』です」


私は腕に力を込めた。

そして、持ち上げた岩盤を、そのまま180度反転させる勢いで放り投げた。

正確には、彼らが展開している結界ごと、演習場の端にある「ゴミ捨て場用の巨大な穴」に向けてシュートした。


「ごきげんよう!」


ドヒュゥゥゥゥン!!


巨大な質量が空を飛ぶ。

結界の中で、騎士たちが洗濯機の中のようにシェイクされているのが見える。

彼らの結界は頑丈だ。

だからこそ、落下の衝撃で中の人間がどうなるか、結界が守ってくれるといいのだが。


ズドォォォォォォォォン!!


森の奥で、隕石が落ちたような衝撃音と土煙が上がった。

地面が大きく揺れ、演習場の小鳥たちが一斉に飛び立つ。


「……ふぅ」


私は手の泥を払った。

完璧な投擲フォームだった。

肩の可動域も広がっている気がする。


「……レティシア」


背後から、呆れたような、それでいて感嘆を含んだ声が聞こえた。

クラーク様だ。

彼は口を半分開けたまま、土煙の上がる方向を見つめていた。


「物理無効を、ああやって攻略するとはね。……地面ごと投げるとは予想外だった」


「足場が悪かったようですね、彼ら」


私は何食わぬ顔で言った。


「それに、あれなら怪我はしていないはずです。彼らの自慢の結界が守ってくれるでしょうから。……多分、目は回っていると思いますが」


「君は本当に、慈悲深いのか容赦がないのか分からないな」


クラーク様は苦笑しながら、私の頭をポンポンと撫でてくれた。

その手が温かい。


「さて」


クラーク様の表情が、スッと真面目なものに戻った。

彼は控えていた帝国の騎士団長に指示を出した。


「直ちに国境警備を強化せよ。そして、王国に対して正式な抗議文を送る」


クラーク様の声には、一国の王族としての威厳が満ちていた。


「『我が国の聖女に対する拉致未遂、並びに不法侵入に対し、厳重に抗議する。これ以上の干渉があれば、次は岩盤ではなく、我が国の軍隊が動くことになる』とな」


「はっ! 直ちに!」


帝国の騎士たちが敬礼し、駆け出していく。

彼らの私を見る目は、以前にも増してキラキラと輝いていた。

「すげぇ……あの『鉄壁の盾』を一撃で……」「俺たちも筋トレしようぜ」という囁きが聞こえる。

筋肉信仰が広まりつつあるようだ。


「レティシア、帰ろうか。おやつの続きをしよう」


クラーク様が手を差し伸べてくれた。

私はその手を取り、大きく頷いた。


「はい! まだクリームパンが残っていますものね」


私たちは腕を組み、穴の空いた演習場を後にした。

王国からの追っ手は、文字通り「一掃」された。

彼らが穴から這い上がってくる頃には、私たちは優雅なティータイムを楽しんでいることだろう。


それにしても。

カイル殿下がそこまで必死になっているとは。

門が開かない程度で大騒ぎするなんて、男らしくない。

扉なんて、壊して通ればいいのに。


私は少しだけ元婚約者の小ささを憐れみながら、今夜の夕食(ハンバーグだと聞いている)に思いを馳せた。

私の平穏な筋肉ライフは、まだまだ続きそうだ。


(……あ、そういえば)


ふと、思い出した。

投げ飛ばした時に、騎士団長が何か叫んでいた気がする。

「魔獣がぁぁぁ!」とか何とか。

まあ、気のせいだろう。

私の知ったことではない。

今の私の仕事は、このひ弱で愛おしい皇太子様を守ることなのだから。


私はクラーク様の腕を、少し強めに(と言っても加減して)抱きしめた。

彼は驚いたように私を見て、それから嬉しそうに微笑み返してくれた。


平和だ。

少なくとも、私の周りだけは。

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