第1話 婚約破棄は突然に〜私の拳が唸る前に〜
誰でも楽しめる明るく平和な物語になってます!!
王立学園の卒業パーティー会場は、華やかな喧騒に包まれていた。
天井には巨大なシャンデリアが煌めき、魔法灯の柔らかい光が磨き上げられた大理石の床を照らしている。
着飾った令嬢たちの香水の匂いと、給仕が運ぶ料理の芳ばしい香りが混ざり合い、鼻腔をくすぐる。
けれど、私、レティシア・ヴァン・クロイツの意識は、そんな優雅な雰囲気とは全く別のところにあった。
(……この手すり、強度は足りているかしら)
私はバルコニーへ続く入り口近くで、大理石の手すりにそっと手を添えていた。
ひんやりとした石の感触が手袋越しに伝わってくる。
見た目は重厚で立派な柱だ。
しかし、構造力学的に見ると少々不安が残る。
石材の継ぎ目が少し浅い気がするのだ。
もし私がここで少しでも指に力を込めてしまえば、この手すりは粉末状に砕け散るだろう。
クッキーを握りつぶすのと大差ない。
「レティシア・ヴァン・クロイツ! 前へ出ろ!」
突然、会場のざわめきを切り裂くような大声が響いた。
思考の海に沈んでいた私は、ハッとして顔を上げる。
声の主は、会場の中央にある大階段の踊り場に立っていた。
この国の第二王子であり、私の婚約者であるカイル・ロランド殿下だ。
金色の髪をオールバックにし、自信満々な表情でこちらを睨みつけている。
その隣には、小柄で可愛らしいピンクブロンドの少女が寄り添っていた。
男爵令嬢のミシェルさんだ。
音楽が止まり、周囲の視線が一斉に私に突き刺さる。
嘲笑、憐憫、好奇心。
様々な感情が入り混じった視線の雨を浴びながら、私はゆっくりと優雅な所作で歩み出た。
「はい、殿下。お呼びでしょうか」
私は扇子を閉じて一礼する。
その際、背中の筋肉がドレスの生地を内側から圧迫するのを感じた。
危ない。
今の礼は、背広筋を広げすぎたかもしれない。
このドレスは流行の細身のデザインで、私の肉体を封じ込めるにはあまりにも脆弱だ。
特注でシルクを三枚重ねにして縫製を強化してもらったが、それでも私の「魔力変換筋肉」の前では薄紙のようなものだ。
「とぼけるな! 貴様との婚約を、今この時を持って破棄する!」
カイル殿下の高らかな宣言が、ホールに木霊した。
会場中から「おお……」というどよめきが上がる。
婚約破棄。
貴族社会において、これほど劇的でスキャンダラスなイベントはない。
本来なら顔面蒼白になって泣き崩れる場面だろう。
しかし、私の内心は至って冷静だった。
冷静というより、別の心配事で頭がいっぱいだった。
(今の声量、腹式呼吸がなっていないわね。横隔膜の使い方が甘い。あれでは喉を痛めるわ)
殿下の発声法に密かなダメ出しをしつつ、私は困ったように眉を下げてみせる。
これは「儚げな令嬢」を演じるための必須スキルだ。
鏡の前で百回は練習した、完璧な角度である。
「婚約破棄……でございますか? 理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「理由だと? 自覚がないのか、この能無しが!」
殿下は忌々しげに吐き捨てた。
能無し。
それは私が物心ついた頃から浴びせられ続けてきた言葉だ。
この世界では、魔力こそがステータスである。
貴族として生まれたからには、火を出し、水を操り、風を起こすことが求められる。
だが、私にはそれができない。
魔力測定水晶に手をかざしても、反応はゼロ。
正確には、水晶が微動だにしないのだ。
「貴様には魔力が一片もない! ヴァン・クロイツ公爵家の恥晒しめ。そんな欠陥品が、次期王妃になれるとでも思っていたのか?」
殿下の言葉に、周囲の貴族たちがクスクスと笑い声を上げる。
「あらあら、やはり捨てられるのね」
「魔力ゼロなんて、平民以下ですもの」
「今まで王子の婚約者面をしていたのが厚かましいわ」
彼らの囁きが、聴覚強化された私の耳にははっきりと聞こえてくる。
心無い言葉の数々。
普通なら傷つくところだろう。
けれど、私は内心で首を傾げていた。
魔力がない?
いいえ、ある。
ありすぎるほどにあるのだ。
ただ、私の体内で生成される膨大な魔力は、発生と同時にすべて「筋繊維」と「骨格」の強化エネルギーへと変換されてしまうだけなのだ。
私の意思とは関係なく、オートモードでフル稼働する身体強化魔法。
それが私の体質だった。
おかげで私は、魔法の火球を一つも出せない代わりに、ドラゴンを素手で殴り倒せる腕力を手に入れてしまった。
魔法障壁を展開できない代わりに、城壁に激突しても無傷でいられる頑丈な皮膚を手に入れてしまった。
「ミシェルを見ろ! 彼女は平民出身の男爵令嬢だが、稀代の『光魔法』の使い手だ。貴様のような出涸らしとは格が違う!」
殿下はミシェルさんの肩を抱き寄せ、見せつけるように言った。
ミシェルさんは恥ずかしそうに頬を染め、上目遣いで私を見ている。
その瞳には、隠しきれない優越感が浮かんでいた。
「レティシア様……ごめんなさい。でも、私とカイル様は真実の愛で結ばれているんです」
か細い声。
守ってあげたくなるような可憐さだ。
確かに、彼女のような愛らしい女性こそが、殿下の隣には相応しいのかもしれない。
私のように、ドレスの下に鋼の腹筋を隠し持っている女よりは。
「さらに貴様は、ミシェルへの嫉妬に狂い、数々の嫌がらせをしたそうだな!」
殿下は芝居がかった仕草で私を指差した。
「え?」
これには私も素っ頓狂な声が出た。
嫌がらせ?
私が?
「教科書を隠したこと! 階段から突き落とそうとしたこと! そして、彼女の大切なドレスを切り裂いたこと! すべて証拠は挙がっているんだぞ!」
全く身に覚えがない。
そもそも、私は日々の筋肉トレーニングと、溢れ出るパワーを制御する修練、そして貴族としての教養を身につけるための勉強で忙しかった。
他人に嫌がらせをしている暇など、一秒たりともない。
「あの、殿下。それは誤解で……」
「黙れ! 言い訳など聞きたくない!」
殿下は激昂し、階段を駆け下りてきた。
その勢いのまま、私の目の前に立つ。
近い。
怒りで顔を赤くし、拳を握りしめている。
殴りかかってくるつもりだろうか?
反射的に、私は防御姿勢を取りそうになるのを必死で堪えた。
もし私がカウンターを合わせれば、殿下の顎は砕け、首が物理的にあり得ない方向に曲がってしまう。
それは国家的な大問題だ。
「貴様のような心根の腐った女は、私の視界に入ることすら不愉快だ!」
殿下は私の肩を乱暴に突き飛ばそうと手を伸ばした。
バチンッ。
乾いた音が響いた。
突き飛ばされた音ではない。
静電気だ。
殿下の指先が私の肩に触れる直前、バチッという音と共に、青白い火花が散ったのだ。
私の体に常時纏われている高密度の生体エネルギー(オーラ)が、殿下の貧弱な魔力と反発し、静電気のような現象を引き起こしたらしい。
「痛っ!?」
殿下は情けない悲鳴を上げて手を引っ込めた。
「な、なんだ今のは!? 貴様、何をした!?」
「い、いえ、何も……乾燥していたのでしょうか?」
私は慌てて誤魔化した。
危なかった。
もう少しで殿下の指が脱臼するところだった。
私の体は、物理攻撃に対して自動的に「硬化」する性質がある。
殿下が本気で突き飛ばそうとしていたら、彼の手首の方が折れていたはずだ。
「ふん、まあいい。貴様のような不気味な女は、もうこの国には不要だ!」
殿下は気を取り直し、勝ち誇ったように宣言した。
「レティシア・ヴァン・クロイツ! 貴様を国外追放処分とする! 今すぐこの国から出て行け! 二度と私の前に顔を見せるな!」
国外追放。
その言葉が、私の脳内でリフレインする。
(国外……追放……?)
つまり、それは。
もう、王妃教育を受けなくていいということ?
毎朝のコルセット地獄から解放されるということ?
お茶会で中身のない会話に相槌を打ち続けなくていいということ?
そして何より。
人目を気にせず、思う存分体を動かせるということ?
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
喜びで。
歓喜で。
全身の筋肉が「イエス!」と叫び声を上げそうになるのを、私は鋼の理性でねじ伏せた。
ここでガッツポーズをしてはいけない。
ドレスの袖が弾け飛んでしまう。
私はゆっくりと顔を上げた。
表情筋を総動員して、悲しげな、しかし気丈に振る舞う令嬢の顔を作る。
「……承知いたしました」
震える声(演技)で私は答えた。
「殿下がそこまで仰るのであれば、私は身を引くしかございません。……今まで、お世話になりました」
深く、深く一礼する。
その拍子に、ミシリ、と小さな音が背中から聞こえた気がしたが、誰にも聞かれていないことを祈る。
「ふん、分かればいいのだ。衛兵! この女を摘み出せ!」
殿下の合図で、数人の衛兵が私を取り囲む。
彼らは槍を構え、威嚇するように私を見た。
その切っ先が震えているのが分かる。
彼らは本能的に感じ取っているのかもしれない。
目の前の「か弱い令嬢」が、実は生物としての格が違う捕食者であることを。
「自分の足で歩けますわ。触らないでいただけますか?」
私は冷ややかに言い放った。
衛兵に腕を掴まれたら、反射的に投げ飛ばしてしまうかもしれない。
それは彼らにとって不幸な事故だ。
私は踵を返し、出口へと向かった。
カツ、カツ、とヒールの音が響く。
背後からは、殿下とミシェルさんの高笑いや、貴族たちの嘲笑が聞こえてくる。
「ざまあみろ!」
「やっと清々したわ!」
なんと心地よいBGMだろうか。
彼らの嘲笑は、私にとっては自由へのファンファーレだった。
私は一歩進むごとに、肩の荷が下りていくのを感じた。
重たい宝石も、窮屈なドレスも、偽りの仮面も、すべて捨ててしまおう。
これからは、私の好きなように生きるのだ。
森へ行こう。
山へ行こう。
思う存分、岩を砕き、大地を駆け抜けよう。
出口の扉の前に立つ。
重厚なオーク材で作られた、巨大な両開きの扉だ。
普段なら従僕が開けてくれるが、今は誰も寄ってこない。
私は右手をノブに掛けた。
(さようなら、私の鳥籠)
感謝と決別の思いを込めて、私はノブを回した。
喜びのあまり、少し指先に力が入りすぎてしまったかもしれない。
メキョッ。
嫌な手応えがあった。
金属が悲鳴を上げる音と共に、私の手の中で真鍮製のドアノブが飴細工のようにねじ切れた。
ポロリ、とノブの残骸が床に落ちて転がる。
「…………」
一瞬、周囲の空気が凍りついた。
背後で笑っていた貴族たちの声がピタリと止む。
衛兵たちが目を丸くして、床に落ちたノブと私の手を見比べている。
やってしまった。
最後の最後で、またやってしまった。
私は何事もなかったかのように、もげたノブをそっと足で隅に蹴飛ばした。
そして、ノブがなくなった扉を、平手で(ごく軽く)押して開いた。
ズドォン、という重い音がして、扉が勢いよく壁に激突する。
蝶番がひしゃげたかもしれないが、もう知らない。
「ごきげんよう!」
私は振り返らずに、誰よりも爽やかな声で言い放った。
そして、夜の闇が広がる屋外へと、弾むような足取りで飛び出したのだった。
これより、私の筋肉ライフ……いいえ、自由な開拓ライフが始まるのだ。
待っていてね、まだ見ぬ大自然。
私のこの拳が、すべてを切り開いてみせるから。




