番外編(後) ジョージ・ウィリアムソン伯爵令息の誠実
ジョージはいつも孤独を感じていた。
ジョージは王族の血を引いており、家柄も良く、何より美しいと評判だった。
だがジョージは周りに比べて、頭が良くなかった。
ジョージ自身もそう感じていたが、ここで悲劇だったのは、頭が良くないということがわかるていどには、頭が良かったことだった。
だから周囲の人々と話すと、いつも失望されるのがつらかった。
話しかける人はジョージの評判を聞いて、素晴らしい人物だろうという先入観をもってやってくる。なにしろ血筋と、家柄と、美しさとすべてを兼ね備えているのだ。
それが実際に話すと、ジョージのうっすらとぼんやりな返事に、他人はあからさまな失望の顔を浮かべるのだ。
落ち込むジョージだったが、まわりの使用人たちはいつも暖かく接してくれた。
ウィリアムソン伯爵家の使用人たちは、ジョージのことを大事にしてくれたのだ。
特に子どもの頃から侍従をしてくれているトムと、下働きをしてくれているその妻のアンは、子どもがいないせいか、ジョージをまるで本当の子供のように大事にしてくれた。ジョージはその愛情を受けて、自分を育てていった。
年頃になると、もっとひどく失望されるようになった。
そんな時に、エリオット伯爵家のヴァージニアとの縁談が持ち込まれたのだ。
ウィリアムソン伯爵家は強気だった。なにせジョージは縁談の条件だけで見ると、強い駒だったのだ。エリオット伯爵家も強気だったが、とにかく両者が積極的に縁談を進めた。
ジョージは婚約者という存在にほのかに期待を抱き、そしてまた失望されるのかという諦めの感情を抱いた。だがヴァージニアはそのどちらでもなく、無関心という態度でジョージに接した。ジョージは少し寂しかった。
そこへヴァージニアの妹アリスが現れたのだ。
アリスは猪のように突進してくると、お見合いではつねにジョージの隣の位置を占めた。
そしてジョージがヴァージニアと交流しようとするのを、ダチョウのように徹底的に邪魔をした。
ジョージは困惑した。
ジョージは臨機応変な対応や、柔軟な態度を取るのは苦手だ。だが自分が興味があることを覚えるのは得意だし、侍従から懇々と言い聞かされる礼儀作法はなんとか頭に入っている。だからアリスの行動は礼儀作法に照らし合わせると、おかしいということはわかった。
だが自分に自信がないので、侍従のトムをちらりと見た。トムも、ジョージにはわかるていどの困惑顔をしているが、待ちの姿勢を取っている。そのためジョージも特に手を打たなかった。
アリスは興奮したインコのように、ひっきりなしにジョージに話しかけてきた。いつものように失望されないように、それなりに相手をすると、アリスはジョージに満面の笑みを浮かべたのだ。いままで人々から失望の顔しか向けられなかったジョージは、驚いてアリスに興味を持った。
だが婚約者のヴァージニアと、交流を持つという目的が果たせなかった。
そのため、周りの者が調整し、ウィリアムソン伯爵家のみで会うことにし、アリスとは会えなくなった。
ヴァージニアとの交流は、それなりに楽しいものだった。もちろんお互いに気を遣ったからだ。だがどれだけ気を遣っても、ヴァージニアが内心ジョージに失望しているらしいことは、伝わってきた。
ジョージは難しいことがわからない。だからどうやったら人々に失望されないかがわからなかった。その癖、ジョージは人がどう感じているのかが、妙にわかる所があった。
そのため目の前のヴァージニアが失望しているらしいことがわかり、だがどうしたらそれを防げるのかがわからないのだ。
そしてだんだん会うことがつらくなっていった。
ある日話しているうちになんだか気まずい空気になり、それをごまかすために無理に会話をつなげた。元々ジョージはそういった、器用な真似が得意ではない。でも婚約者のためだから、一生懸命頑張ったのだ。だがその最中、ヴァージニアがあくびをこらえるために、唇を噛んだ。当時ヴァージニアは一年で学院を卒業しようと準備をしており、数年も徹夜続きだったのだ。
あくびをこらえたのは、見た目ではわからないていどの変化だ。だがなぜかその場にいた全員が、あくびだとわかってしまった。
失望されることに慣れているジョージも、これはきつかった。ヴァージニアは青くなったが、ここで謝罪をしてしまうと、あくびだと認めてしまい、とんでもない失礼を働いたことになる。
「ヴァージニア、済まないが今日はちょっと、疲れてしまってね」
ジョージは自分が泥をかぶると、ヴァージニアをここで帰した。ヴァージニアを帰した後、ジョージはまわりの使用人に笑いかけた。
「仕方ないよね。僕は昔からこうだから。どうしても上手く出来ないんだ。ははは」
ジョージは笑った。
笑って済ませられる出来事だと思った。
上手く行かなくても現実は変わらないのだ。
その時突然トムが、力強くジョージを抱きしめた。ジョージはそれで、自分が泣いていることに気がついたのだ。泣いても現実は変わりはしない。でもなぜか涙は止まらなかった。
「なんでだろう。大したことないのに。なんでもないことなのに」
トムは大きな手で、そう呟くジョージの背中をずっとさすり続けた。
その後、ヴァージニアとの面会は自然消滅した。
ヴァージニアから、長い謝罪の手紙を受け取ったのだ。その手紙にはエリオット伯爵家の窮状と、その中でのヴァージニアの立ち位置、両親と妹の関係など、詳らかにされていた。プロの探偵を雇っても、ここまで詳しくわからない内容があった。
そして両親の命令に従い、ジョージと面会を続けていたが、それがあまりにも不誠実だったと告白していた。ヴァージニアは最初から、この婚約は成立しないことを見越していたのだ。
その手紙を読んで、ジョージはほっとした。
ヴァージニアはジョージに失望していたのではなく、両親とこの婚約そのものに失望していたのだ。
ウィリアムソン伯爵家は、この手紙を黙殺した。
なぜなら、手紙に書いてあったことは、既に公の事実となりつつあったのだ。ジョージの心を慰めた、ヴァージニアの心情をのぞいて。
ジョージは政略結婚の駒としては、有用だ。飾ったり見せびらかしたりするのにはいいが、動かすための駒ではなかった。だから見目の良い種馬として競りに出し、買い取ったのがエリオット伯爵家だ。ウィリアムソン伯爵家はこの良い取引を、止める気はなかったのだ。だからもうジョージの運命は決まっていた。ジョージはなにも知らされないまま、王立学院に入学した。
学院でまたいつものように、失望した顔に囲まれていると、翌年太陽のように輝くアリスがやってきた。アリスはジョージのクラスに、熊のようにヌッと現れると、力尽くで連れ出した。
ジョージは初めて自分を求め、自分に本当の笑顔を向けてくれる人物と出会ったのだ。アリスはとにかく強引だった。学院一年生でのアリスの評判は、「儚げ」というもので、ジョージはまた自分の観察力に自信をなくした。ジョージの目から見ると、十頭以上の子育て経験はある、お母さんカバ並の強さを持っていたからだ。
ジョージはいつも他人といると、失望されないように、つまらないことを言わないようにとびくびくしていた。だがアリスといる時だけは、なにも考えないでいいのだ。全部アリスが決めて行動し喋ってくれた。ジョージが言ったつまらない言葉にも、虎のようにたくましく笑ってくれた。ジョージは、アリスの前ではまるで、存在を許されたような安心感を覚えた。
一方アリスも、強烈にジョージに惹かれた。
アリスはつねに我が儘で自己中心的で、欲しいものはなんでも与えられてきた。
だがたった一つだけ与えられなかったのは、両親からの深い愛情だ。
両親がなんでもアリスの言うことを聞くのは、愛しているからではない。むしろその逆だ。父親のレオナルドと母親のエラは、自分に理解できるものしか、側に置かないのだ。だから普通の赤ん坊だったアリスの存在は、ストレスでしかなかった。そのためこの問題を、ヴァージニアを使って逃避しようとした。アリスもたった一人、自分の感情を受け止めてくれるヴァージニアに執着した。
だがヴァージニアはそこから逃げだし、両親と妹と関係を断ってしまったのだ。
残されたアリスの前に現れたのがジョージだ。
ジョージはアリスの話を、黙って聞いてくれた。なんでもペラペラと話してしまうアリスの話を、真剣に聞いてくれたのだ。アリスの「私を見て」という叫びを、理屈ではなく黙って行動で受け止めてくれた。
アリスは初めて、自分が誰かに『見守られている』という感覚を持った。ジョージは確かに愚かな人間かもしれない。だが心の優しい人間だった。そしてアリスにはそういう人間こそが必要だったのだ。
自分の世界の中で生きている曖昧さを許さない両親は、アリスを甘やかすとともに、アリスを否定してきた。ジョージはアリスに、理屈ではなく、ただ人の心を受け止めるという優しさを見せてくれたのだ。だからアリスはジョージと関係を持つのに、なんのためらいもなかった。
だがその頃から、生活に変化が訪れた。誰にもなにも言われなくなったのだ。それまでのアリスの生活は窮屈だった。なにかすると怒られ、何か言っては叱られた。だがアリスが次期当主になったことをきっかけに、だれもなにも言わなくなった。最初は喜んだが、そのうち寂しくなり、ますますジョージにのめり込むようになった。
一方ジョージも難しい立場になった。アリスとの結婚が決まり、ウィリアムソン伯爵家を出されたのだ。エリオット伯爵家での生活は苦しかった。ジョージは実家では、政略の駒として扱われていたが、昔からの使用人に大事にもされていた。みんな仕事だからではなく、家族として笑顔を向けてくれた。しかしエリオット伯爵家の使用人たちは、表向きはアリスとジョージを主人として扱ってくれたが、心がこもっていないものだった。
ジョージには難しいことはわからない。だが心はこもっていないことは、なんとなくわかるのだ。
ジョージは結婚してから、エリオット伯爵家の外庭にある、花壇の世話をするようになった。することがなくうろうろしながら、どこの庭も美しく手入れされているのを見ていた。ある日気になって作業している男にいろいろ尋ねた。それを毎日しているうちに、手伝うようになった。
今では外庭の一角で、花壇だけでなく、畑を耕すようになった。
ジョージはとても生き生きとしていた。失望されるのがわかっていて、人に囲まれているよりも、たった一人で土をいじっているのは気楽だった。なにより畑作業は努力した分が、返ってくるのだ。まあもちろん自然という現実に作用されるので、思いどおりに行かないが、それすらも楽しかった。
だがある時、エリオット伯爵が急死した。
それに関係した伝染病にかかっているかもしれないから、と領地に行くように言われたのだ。
ジョージには、なにが起きているのかがわからなかった。
だから信頼している侍従だったトム宛てに、手紙を書いた。自分の状況とこれからどうなるのかについて、ただ伝えたかったのだ。
ジョージはこれまでに、何度もトムへ手紙を書いていた。だがその返事はとても遅く、内容もちぐはぐだったりした。まるで手紙がきちんと、やりとりされていないような気がした。なぜかはわからなかった。
だから書いたトム宛ての手紙を、ベンジャミン・サレンに渡した。
サレン卿はとても怖い人物で、アリスに良い感情を持っていなかった。だが一つだけジョージにわかることがあった。サレン卿がそうなってしまったのは、忠誠の心からだと。ジョージはそういった、人が大事にしている心が、なんとなくわかるところがあった。
「サレン卿。その手紙は私の元侍従、トム宛てです。トムは私を子どもの頃から守り育て、導いてくれた親代わりです。だからトムには私がどうなってしまったのかを、きちんと伝えたいのです。私の人生は難しいことになってしまいましたが、トムの忠誠心に、今までの感謝を伝えたいのです」
ジョージは自分が使える、たった一つの武器を使った。
ジョージは子どもの頃から、人生が上手く行かなかった。他の子どものように、器用に生きていくことができなかったからだ。だがその中でトムに教えられた。人の誠実さというのは、それだけで誰かを動かす力があると。
だからサレン卿にただただ自分の本心を伝えた。トムの忠誠心に感謝する心を、サレン卿なら理解してくれるだろうと思ったのだ。
サレン卿はそれを受け取り、なにも言わず出て行った。ジョージはやるだけのことをやったが、なにも起きなかった。ふと気がつくと、アリスが心配そうに、ぼんやりとしているジョージを見ていた。ジョージの手を小さな手で握った。
「大丈夫? なんだかつらそう」
ジョージはアリスを抱きしめた。
上手くいかなかった現実を嘆いても仕方がない。
エリオット伯爵領の奥まった小さな村にある、古い領主館を改造して、アリスとジョージは住むことになった。
覚悟はしていたが、生活自体は悪くなかった。少なくともジョージには。
近くに畑もあり、家畜小屋があった。ここで働く村人は朗らかで、親しみやすかった。ジョージたちにも真心をもって接してくれて、ほっと息をつける場所だった。
アリスにはつらいだろうと思ったが、驚くことに簡単に慣れた。
親の愛が心から欠けているアリスは、なにかを世話したり、なにかを作ったりする仕事に夢中になったのだ。時には暴走することがあったが、思いどおりにならないことを、楽しむ余裕を見つけた。なぜなら自然が思いどおりにならないことは、さすがのアリスにもわかるからだ。自分がやったことが目に見えるように返ってくるということは、アリスの心を安定させた。『普通の生活』を送らせたらアリスは安心したのだ。
◇◇◇◇◇◇
アリスが最初に夢中になったのは、ピクルス作りだった。簡単だろうと見本を見せられて、まずは作ったところ、自分の食べるものを自分で作るという点に夢中になった。その後、ピクルスに赤しそや鉄を使って、鮮やかに色を変えることを知ると、さらにのめり込んだ。
その姿を見て、使用人たちは、「村全部のピクルス作りを任せましょうか」など笑いながら言った。自分が手がけたものが、形になって返ってくるのに手応えを感じたようだった。
豆を栽培し、使用人に「すぐに芽が出ますよ」と言われ、一日中見ていたこともある。アリスがちょっと目を離した時に、種皮から芽がぽんと飛び出ていた時は、泣いて悔しがった。今まで見せなかった、集中力を発揮する姿を、アリスは見せるようになったのだ。
アリスにとって新鮮で刺激的な毎日が、過ぎていった。
そんな時、近くをうろついていた野良犬が、産んだ子犬の内一匹を、置いていってしまったことがあった。
産まれた子犬の内、一匹だけあきらかに体が小さく、生きる力が弱そうだった。親犬は生き延びそうにないと思い、置いていったのだろう。
「ひどい親犬だね。この子犬が可哀想」
ジョージは軽い気持ちで言ったところ、アリスは反論した。
「親犬にはなにか事情があるのよ」
「親犬だって育てるのは大変だし」
「親犬だって」
そう何度も言って、ジョージに口を挟ませないよう、親犬を一生懸命かばったのだ。
そして次は、置いて行かれた子犬に原因があると言いだした。
「この子犬が悪いのよ」
「弱いから駄目なのよ」
「捨てられて当然だわ」
ジョージにはアリスがなにを言っているのか、まったくわからなかった。
だがアリスがなにかを、必死で訴えているのが伝わった。
だから自分がトムにされて嬉しかったように、涙目のアリスを強く抱きしめて、背中をさすってやった。
アリスはまるで怯えたように、ジョージが次に何を言い出すのかを警戒していたが、ジョージが何も言わず背中をさすると、ようやく落ち着いた。
「ねえジョージ。この子犬、連れて帰っても良い?」
「もちろんだよ。世話してみよう」
親がなんの理由もなく、ただ子どもを見捨てたのなら、捨てられた子犬も、同じように親に見捨てられて育ったアリスも、可哀想でみじめな存在だ。事実ジョージは、子犬を『可哀想』だと言った。
自分がみじめで可哀想だなんて、誰が認めたいだろうか。
本能的にそれを感じたアリスは、必死で自分はみじめじゃないと主張した。
「親は悪くない」「子犬が(アリスが)悪いのだ」と。
その拾った子犬を、アリスはまるで自分の分身のように大事に育てた。
アリスには愛されて育った記憶が、ろくに残っていなかった。ヴァージニアに愛された記憶も、乳母や使用人に大切にされた記憶も、小さすぎて覚えていない。だがそれは心に欠片として残り、それを子犬に与えたのだ。そして自分が親から、こんな風に愛されたかったと訴えるように、子犬を大事にした。
子犬は最初の一週間ほど、ほとんど意識がなかった。アリスは小さな事で一喜一憂し、不安定になった。ついには泣き出してしまった時、ジョージはいつものようにアリスを抱きしめて、背中をさすってやった。自分がそうされたように、アリスに愛を注いだ。そしてアリスは、自分がして貰ったように子犬に愛を注いだ。
子犬は体重が増えると、今までの心配はなんだったんだろうと思うほど、すぐに元気になった。
あっという間に大きくなって、アリスの面倒を見るようになった。
アリスは犬が甘えていると思っているようだが、使用人たちは俊敏な護衛ができてほっとした。アリスは常識がなく、ふらふらとうろつき、好奇心が強く、時にはとんでもない場所で危険なことをするため、目が離せなかったのだ。
犬はアリスが川や危険な場所に近づくと、スカートをくわえて制止した。ジョージや使用人がそのことで犬を誉めると、まるで当然のように犬はその賛辞を受け止め、得意げだった。アリスはそのからくりに気がつかなかったが、とても幸せそうだった。
そんな生活を送って一年ほど経った頃、領主館に新しい使用人夫婦がやってきた。
夫はトム、妻はアンと名乗った。
トムに教わったジョージの誠実さは、確かにサレン卿に伝わったのだ。
「もう年ですから、夫婦で田舎に住もうかと。サレン卿にここの仕事を紹介して貰ったのです」
アンはぎゅうぎゅうとジョージを抱きしめた。アリスはすぐに二人に懐き、四人はまるで親子のように幸せに暮らした。




