番外編(前) ロウ・ウォルポールの無自覚な復讐
ロウ・ウォルポールはエリオット伯爵領にある、ムダム修道院に来ていた。
最近、入ったエラ前伯爵夫人に面会に来たのだ。
ロウは横領事件の後、自宅に謹慎させられた。
事件に至った経緯は皆知っている。周りの方が後ろめたさを感じるらしく、ウォルポール男爵家の扱いは変わらなかった。ロウは任を解かれたが、ロウの弟、ロウの息子たち、ロウの甥たちは変わらず働いていた。むしろポストは増えたし、俸給も上がった。
ロウはどかんと爆発した後、妙なすっきり感を味わっていた。投げやりになったわけではなく、細かいことが気にならなくなったのだ。今となっては、昔の自分に対して、『そんなに思い詰めなくても』とまで思う。妻に雰囲気が変わりましたねと言われたくらいだ。
そんな時、自宅にジーニアスが使いでやってきて、謹慎を解くと言われた。
そしてそのまま遠乗りに誘われたのだ。以前なら不謹慎だとかたくなに断っただろうが、なんとなくついてきてしまった。そして目的地にベンジャミンがいた。
なんでもベンジャミンは引退したため、暇らしい。最初こそ気まずい雰囲気はあったが、言ってしまえば乳児の頃からの付き合いだ。三人と三頭で走り回っていると、久しぶりに頭がすっきりした。
話の流れで、エリオット伯爵家の話になり、アリスが領地に行ったことと、エラ前伯爵夫人の修道院行きを聞いた。
ロウはその時思ったのだ。一度エラと話したいと。怒りの感情がないわけではない。だがそうではなく、ただ、話してみたいと思った。
「エラ夫人と話したい? それはまたなぜだ」
ジーニアスは興味深そうに、ロウを見た。
ベンジャミンも心配そうに、ロウを見てきた。
「自分でもなぜかはよくわからない。ただ……ただ話してみたいと思ったのだ」
ロウがそう言うと、ジーニアスは少し考え込んだ。一見軽々しく見えるロウの行動的な発言に、今までの彼から想像できない『気軽さ』を感じたのだ。
ジーニアスには、ロウの心がとても穏やかで、落ち着いているように見えた。だからロウを信頼して送り出すことにした。
暇だというベンジャミンが、領地まで付き合ってくれることになった。
「エリオット伯爵領までの護衛は、サレン家の若い者に行かせよう。訓練を兼ねてな。ついでだから、ただでいいぞ」
「助かる。護衛を雇うと金がかかるからな」
そう言ったロウを、ジーニアスとベンジャミンはあぜんとして見た。
ロウはとてもきっちりした性格で、こういった場合、護衛の費用は自分が持つと言って譲らなかったのだ。そこを毎回説得して、せめて半分にするのに、ベンジャミンもジーニアスも苦労していた。三人の間で、明らかに経済的に不自由していたロウだが、だからこそ仲間に金を集るような真似は絶対にしなかった。そんなロウが、ベンジャミンの好意に甘えたのだ。
ジーニアスは感慨深げに言った。
「ロウ。お前、なんだか変わったな」
「そうか? 自分では変わっていないと思うがな。根っこの部分はそのままだ。だが、確かに……」
ロウは、何度も首をかしげながら言った。
「うーん、なんだろうな。『細かいことを気にするのは、もういい』。そう思ったんだ」
ベンジャミンとサレン家の頼もしい護衛に守られ、ロウはエリオット伯爵領に向かった。
寺男に案内され、修道院でロウは面会室に入ると、そこへほっとした様子のエラが入ってきた。
「ウォルポール卿。助かりました。どうか私をここから出して下さい」
無神経にそう話しかけてくるエラに、ロウはしばらく黙っていた。
「ここは食事も質素で、与えられた予算では、満足な衣類も身につけられません。なにより寒さがきつくて」
エラはつらそうに、修道院での生活について話し出した。
エラに接触できる人物は限られているため、旧知の人間に会って気が緩んだのだろう。べらべらと話し始めた。
いかに自分がつらく、みじめな境遇にいるのかを熱弁された。突然生活が変わってつらいのは理解できるが、貴族夫人として修道院に入っているのだ。生活がそんなにつらいとは、思えなかった。まあ、しかし、エラは寒がりだったので、ここの気候は合わないのかもしれない。
ひとしきり喋っているエラは、ずっと自分一人でしゃべっていることに、長く気がつかなかった。
ロウはそんなエラを見て、自分がなにを聞きたかったのか、わからなくなってしまった。もともとはっきりとした目的があったわけではない。ただ話してみたいと思ったのだ。
ロウは、エラの話し声を聞きながら、ぼんやりと細い窓の外に目線をやった。
そんな時間が実に一時間も続いた。
思い出したように、ロウは組んだ足をぶらぶらとさせていた。
エラは一人で喋り、ロウはその間、自分の心と向き合っていた。
自分の頭を整理していたのだ。
ロウは何の気なしに言った。
「そういえば、ウォルポール男爵家を売ろうとしたことを、まだ謝ってもらっていませんでした」
それを聞いたエラは、最初は何のことかわからず、それから思い当たり青くなり、そして床に身を投げ打って謝罪した。何度も床に頭をぶつけるように、ひたすら謝った。普通ならここで誰かが止めに入るだろうというほど、激しかった。だがロウは黙ってみていた。なぜなら人一人亡くなったのに、その息子を見ても思い出さないほどの、軽い謝意なのだ。
エラは本当にレオナルドにそっくりで、謝罪は大げさだった。そしてやはりなにが悪いのかは、わかっていなかった。エラは謝り続け、様々な言い訳をした。そしてお決まりの『アリスがそう言うから』を口にしたのだ。
ロウの口から、思わずこんな言葉が漏れた。
「まあ、確かにアリス様のせいにすれば、あなたが伯爵夫人失格だという、屈辱的な現実を見なくて済みます。あなた以外の人間にはわかっていても。みじめな現実を見たくないという気持ちはわかります。人間ってそういうものですし」
必死に『アリスが』と言いつのっていたエラは、なにを言われたのかわからないという顔で固まっていた。
それをしばらく見ていたロウは、ロウの言った意味を、エラが本当にわからないのだということに気がついた。
「……あなたは伯爵夫人失格です。みんなそう認めています」
おそるおそる言ったロウに、エラは心底むっとした顔で言った。
「私は学院の成績はトップで、優秀だと認められていたわ。国際数学大会で、レオナルドたちと組んで上位入賞したこともあります。ボードゲームでも腕を認められているわ。まわりの皆は私についてこられなかった。官吏試験だって、受験したら合格間違いなしって教授に言われたわ。エリオット伯爵家に入ってからも、あんな大きな家なのに家政をちゃんと回していたし、レオナルドが倒れた時も代理をこなしたわ。伯爵代理をこなしたのよ。それに」
エラは自分がいかに優秀かと言うことを、次から次へとしゃべった。
ロウはその話を聞き流しながら、なぜか納得していた。
エラの頭の中の世界で、ここまでエラが優秀なら、現実の世界の人々がいくら忠告しても、聞き入れないのも道理だった。エラの世界では、下手をするとレオナルドよりも優秀で、エリオット伯爵家を回しているのはエラなのだ。
手持ち無沙汰だったロウは、ここに来る道中でベンジャミンが買い、それを分けて貰ったレーズンを隠しから取り出し、もぐもぐと食べ始めた。
流ちょうに喋っていたエラは、少し調子を崩した。
元とはいえ主君の妻の前で、ロウは平気でおやつを食べたのだ。
エラは男爵令嬢だった身分から、急に有力な伯爵夫人に祭り上げられ、何十年も持ち上げられた。しかし今は落ちぶれ、そのことにようやく気がついて言葉を失った。
エラはもう敬意を払われる立場ではなくなった。目の前の男は部下ではない。経緯を考えるとエラの方が頭を下げた方がいいのかもしれないのだ。
「自分で言うのもなんですが、横領事件がありました。家政担当のあなたはまったく気がつかず、関係のないジーニアスが暴きましたが」
「それは……、だってそんなことをするとは思っていなかったから」
「かなり前に、エリオット伯爵家が裁判沙汰に巻き込まれ、不祥事を起こしました。発端となったヴァージニア様のネックレスを取り寄せたのはあなたです」
「あれは。あれはアリスが悪いのよ。だってあんなことをするなんて、誰も思わないじゃない」
「ウォルポール男爵家を売り払った件もですか」
「あれこそアリスが言いだしたのよ」
「伯爵夫人である、あなたが止めるべきだった」
「だってアリスが」
ロウは少し話を切った。
「前から不思議だったんですが、アリス様がいない頃は、あなたはどんな言い訳をして、自分を誤魔化していたんですか? レオナルド卿とロザリンド様の、婚約解消の原因にもなりましたが、あれは誰が悪いんですか? まだ存在していないアリス様ですか」
嫌みや皮肉を、エラは解読しにくい性質だったが、さすがにロウの言いたいことはわかった。
「あ、あれは……。だってレオナルドが私と結婚したいって言うから」
「そうですか……。では正式な跡継ぎのヴァージニア様を、家から追い出したのはなぜですか」
「追い出してなんか! 私はただアリスが欲しがるから譲ってあげなさいって、そう言っただけよ。なにもしていないわ」
熱を込めていった。
それまで椅子に座って、足を組みぷらぷらさせていたロウは、組んでいた足を一度ほどき、また組み直した。
「ヴァージニア様は跡継ぎでした」
エラはそう言われても、反応せずぼんやりとしていた。
「ヴァージニア様はエリオット伯爵家の、正式な跡継ぎでした。レオナルド卿もからんでいるので、あなただけの責任ではありませんが、たかだか嫁いできた男爵令嬢風情が、伯爵家の跡継ぎを追い出したんですよ」
「だってアリスが」
「レオナルドのお父上が激怒し、あなたからヴァージニア様に関する権利をすべて取り上げ、ヴィクトリア様に渡しましたね。あなたは伯爵家の意向に逆らったのです」
「だって」
「あなたはご自分が優秀だと思っているようですが、将来ある伯爵令息レオナルドの婚約を解消させ、その跡継ぎを意味もなく追い出し、家門の重要な家を売り飛ばそうとし、伯爵家を潰そうとしたのです。しかもそれに自覚がないときた」
「わ、私は伯爵夫人の役割をこなしたわ。私は学院で優秀な成績だったのよ。レオナルドの代理だって」
「そうですか? レオナルドが倒れた時の仕事は、結局処理しきれなくて、ヒューバート閣下に預けてしまったんですよね。
まあ、――確かにあなたは学院では優秀ですね」
ロウがそう言うと、エラはほっとして笑顔を浮かべた。
「学院での成績は素晴らしいものでした。社交が上手く出来ず、家政も失敗し、一人目の跡継ぎを追い出し、二人目の教育に失敗した。それでも優秀だと主張するなら、そうなんでしょう。ヒューバート閣下は、そんな優秀なあなたに新しい任務を与えるつもりです」
ロウはヒューバートから、エラに伝えてこいと言われた話を切り出した。エラはこの修道院から出られると思い、希望に目を輝かせ、立ち上がった。
「なんでもするわ! ここから出られるなら、なんでもするわ」
「前伯爵夫人であるあなたが、あまり力を入れなかったのが『慈善』です。ここでその立場を利用して、善行を行って下さい。領民からのあなたの支持率は、もはやゼロに近いんです。ですが修道院に入ったことで、多少上がりました。頑張って勤めて下さい。大丈夫、やれますよ。だってあなたは伯爵夫人として優秀なんでしょう?」
エラはしばらく黙った後、うつむき、そして顔を上げ恐る恐る話し出した。
「え、あの、それは、話が違うと、思うの」
エラはつねに自分の得意なことに夢中になったが、苦手なことは徹底的に避けてきた。だから自分の功績は誇れるところが一杯あったが、苦手分野はどうやって逃げ回るのかで頭が一杯だった。
「私にはこういった活動はむいていないわ。もっと上手な人がいるはずよ。そういうのが得意な人に任せた方がいいわ」
エラは言葉を紡いだ。
「それに苦手な人間がやっても効果があがらないわ。そういうのって効率悪いでしょう」
エラは道理を説いた。
「無駄が多い仕事をするより、私に得意な経理の仕事や」
「横領に気がつかないのに?」
ロウが指摘すると、今や立場が弱くなっているのにもかかわらず、エラは怒気をはらんだ声で反論した。
「気がつくのが、ちょっと遅かっただけで、いずれ気がついたわよ。ジーニアスが気がついたのなんて、どうせ偶然でしょう?」
エラは腹立ち紛れに言った。
「……。まあ、あなたはこの仕事を必ずやりますよ」
「……なぜ?」
エラはそう言われて恐怖に目を見開いた。ロウとのこの交渉を上手く運べなければ、エラはここに閉じ込められてしまうのだ。
寒いにもかかわらず、その手が汗で湿っているのか、無意識に服に手をこすりつけていた。
「実はここに来る前に、アリス様に会ってきたんです。アリス様は言ってらっしゃいました。あなたに『修道院で善行を積んで欲しい』と」
エラは言われている意味がまるでわからないようで、ロウを見た。そして間が抜けた声で聞いた。
「それがなにか?」
『アリスがそう言うから』という言い訳を振りかざして、自分の都合の良いように歩んできたエラに、「アリスが『修道院で善行を積んで欲しい』と言った」と言えば、これ以上言い訳しないだろうとロウは思ったのだ。
ところがエラは、都合良くアリスを言い訳に使うにもかかわらず、自分が都合良く使っている自覚すらないようだった。
だから他人から、「アリスがこう言っていた」と言われても、それがエラの頭の中では結びつかないのだ。
ロウは、エラを見て、まったくの無自覚なのだと理解した。
仕切り直すようにロウは両手を叩いて、音を出した。
「話を戻します。ウォルポール男爵家を売り飛ばそうとしたのは誰ですか?」
「え? もちろんアリスがそう言ったのよ」
「アリス様が当主になりたいと言いだしたのに、反対しなかったのも?」
「だからそれもアリスがそう言ったから」
「ネックレスを取り寄せたのも?」
「だってアリスがそう言ったから」
「つまりアリス様が言ったことにすべて従うんですね」
「そうよ。仕方がないでしょう」
「だったらアリス様の、『修道院で善行を積んで欲しい』という言葉に従って下さい」
エラはぽかんと口を開けた。頭が真っ白になり、衝撃で立ち直れないようだった。
まるで、アリスという駒を、ゲーム盤上で、自分の好き勝手に使っていたところ、とつぜん他人からルール違反だと指摘された子どものようだった。
そしてその指摘が、あたかもゲームの楽しさを壊してしまったとでも言いたげな、被害者の目でエラはロウを見た。
その後遅れて、自分の置かれた状況を理解し、ここから出られない恐怖に身がすくみ、目に涙を浮かべ、あわてて言った。
「そういう意味で言ったわけではないわ。私は別に、そんなつもりは」
「でもアリス様がそう仰ったんですよ」
「それとこれとは話が違うわ」
ロウは心底不思議そうに、エラに尋ねた。
「そもそもなにが不満なのですか? あなたはアリス様に苦労させられてきた。ご自分でもそう仰ってきたでしょう。アリス様から離れて静かな場所にいることの、なにが不満なのですか。――まあここにいると、物事の責任をアリス様に押しつけられないでしょうが」
「私は別に、アリスのせいにしようとなんて。そんなつもりは」
「四度目ですが、聞きます。ウォルポール男爵家を、売り飛ばそうとしたのは誰ですか」
エラは、アリスのせいにしようとしてできなかった。なぜならそういえば、修道院から出られなくなってしまうからだ。そして誰のせいかと考えた。口に出せなくてもアリスのせいだ。だって自分は悪くないのだから。
ロウは立ち上がった。
「答えなくていいです。もう私には、関係のないできごとですから」
エラはそれ以上追及されなくてほっとした。だがロウが立ち去る気配を感じ、恐怖でその足元に身を投げ出した。
「お願い。ここから出して。なんでもするから」
「アリス様から伝言です。『立派な前伯爵夫人として、修道院で勤めを果たして下さい』と。アリス様はお母上のことが、誇りだそうです」
ロウはそう言ったアリスの姿を思い出した。
エラと引き離され、領地にジョージと追いやられたアリスは、別人かと思うほど、精神的に安定し、心に余裕があった。
ロウは、アリスの聞こえの良いように、エラの話をした。するとアリスは、父親のレオナルドと母親のエラを、今でも誇りに思っていると本心から告げたのだ。それを聞かされたロウが、暗い気持ちになったのは間違いではない。だが、ロウはこうも思った。子どもが自分の両親を誇りに思うことは、まあ、それなりに、良いことだろう、と。そして心の中の両親が、今後のアリスを導いていくことを願った。
ロウは立ち会っていた寺男に、面会が終わったことを告げ、面会室の扉を開け放った。エラはここに隔離され出られないことに絶望し、小さく悲鳴をあげた。だが下手なことを言うと、ロウにアリスの言葉を持ち出されると思うと、それ以上何も言えなかった。
「自分の命運がかかる場面でも、『アリスが言ったから』という一言に縛られるのですか。そんなに言い訳を振りかざしていないと、生きていけないのですか?」
そう言ってロウは部屋から出て行った。後ろで、エラの泣き声まじりの悲鳴が上がった。
エラの口癖になってしまった『アリスがそう言うから』という言葉は、エラの人生をがんじがらめに縛った。
アリスがなにか言った言葉が、エラを縛ったわけではない。エラ本人が、『アリスがそう言うから』と言って、自分で自分を縛ったのだ。『アリスがそう言うから』という言葉を使い、人生を自分の都合の良いように送った。しかしそれはレオナルドと同じように、エラの首を絞めた。アリスが修道院にいて欲しいと言ったところで、エラには関係がないはずだった。エラとアリスは違う人間なのだから。だが長い間、「アリスがそう言うから」と唱え続けたエラには、『アリスは関係ない』の一言が言えなかった。
ロウは修道院を出て、馬で丘を下り、広場に向かった。広場ではベンジャミンとサレン家の護衛たちが買い物をしていた所だった。
ベンジャミンが少し心配そうに声をかけてきた。
「どうだった? 言いたいことは言えたのか?」
「言いたいこと……ってなんだっけ」
「お前が言いたいことがあるからと言って、ここまで来たのだぞ」
ロウはそう言われて、ここに来た目的を思い出したが、やはり胸の内をさぐっても『言いたいこと』は浮かんでこなかった。
「うーん。話してすっきりしたが、なにが話したかったのか、自分でもわからないのだ」
「すっきりしたのか、なら良かったではないか」
あっさり言ったベンジャミンを見て、ロウはベンジャミンも少し変わったなと思った。前はもう少し四角四面なところがあった。
「それで、エラとどんな話をしたのだ?」
「どんな……」
ロウはエラとどんな話をしたのか、まるで思い出せなかった。まったくとりとめなく、内容もなかったからだ。
「思い出せない」
ベンジャミンがさらに心配そうにロウを見た。
「いや、違う。話せないと言っているわけではない。内容がなかったのだ」
「二時間近く話してか?」
困り果てたロウを見て、ベンジャミンは笑い出した。
「それはつまり、エラがロウにとって、どうでもいい存在になったということだろう。それはそれで良かったではないか」
「なるほどな」
自分がなぜすっきりした気分になっているのか、ベンジャミンに指摘されたロウは納得した。
自分の人生をどうしようもなく壊したエラと、直接話したことで、エラがどんな人物だったのか、その時何を考えていたのか、なんとなくわかったのだ。思ったよりも小さく愚かな人間だと気がつき、自分の時間を使うのが惜しくなった。
ベンジャミンの言うとおり、エラは仇敵から、どうでもいい存在になったのだ。
父親が死んで以来、時が止まったままだったロウの心が、再び動き始めたように感じた。
領主の館に移動しようとした一行は、馬をつなげてあった場所に向かった。そこで、最初からいたロウの馬が、イヤイヤをするように足を振った。ロウはいつものように念入りに馬のかゆいところをかいてやると、いつものように馬はご機嫌になった。ロウにすりすりと首をこすりつけ、ロウは馬の体重で倒れそうになっているが、仕方がないとばかりに笑顔で可愛がっている。
「ふふふ、困った奴だな」
そう穏やかに言ったロウの顔に、馬が自分の顔をびちゃりとつけ、鼻面でロウの顔を汚した。それを見てベンジャミンは苦笑した。
「おい、いい加減にしてくれ」
ロウは手元の布で自分の顔を拭きながら言ったが、その顔は変わらず馬への愛情が溢れていた。
「ロウ、領主が猪を手に入れたんだと」
「なんだって、じゃあ今日の晩飯は」
ロウは瞬く間に馬にまたがると、一行と今日の宿である領主の館に向かった。
◇◇◇◇◇◇
気が済んだロウは、このできごとを忘れてしまった。
気が済んだロウを見て、ベンジャミンとジーニアスもほっとし、忘れた。
そしてこの話がそれとなく伝わり、ウォルポール男爵家はエリオット伯爵家へのわだかまりを解いたことにされ、そのことに皆が胸をなで下ろした。
こうしてロウは、本人のあずかり知らぬところで復讐を遂げていた。
周りに責任を押しつけて回り、やりたいことしかせず、自分の人生に責任を取らなかったエラに、誰からも忘れ去られるという復讐をロウはしたのだ。
エラは、多くの人の心に深く大きく傷跡を残していた。中には復讐を望む者さえいた。それらの人々を押しとどめていたのが、ロウ・ウォルポールの存在だった。父親を亡くし、家の体面を潰されたロウの顔に泥を塗ってまで、なにかをしようとする者はいなかったのだ。
そのロウ本人がただ一度だけ、エラに面会に行った。そして晴れやかな顔で戻ってきた。胸のどこかにわだかまりを残していた人々も、そんなロウの話を聞いて、同じように心が軽くなった。こうして『エラ』というつらい記憶は徐々に人々の中で色あせ、やがて存在そのものが薄れていった。
エラはその後、修道院で五十年間近く過ごした。
質素な食事は健康に良く、規則正しい生活は体の調子を整えた。貴族夫人というのも仇になった。下手に金があるから、快適に生きていくのに最低限必要なものが揃ったのだ。金がなければ下働きでもして、気を紛らわせることもできたかもしれない。
エラはどうしても信心に生きることができず、ただ無為に日々を過ごした。
つねに自分を一番大事にしてきたエラに、面会に来た客はロウただ一人、それも一回きりだったのだ。




