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哭き裂く天使  作者: Norn
第一章:光はまだ、哭かない
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第9話:手は、もう戻らない

「そうか……お前が、あの天使か……」


怪人を追っていた桜庭玲司は、天使と邂逅を果たした。


目の前に立つ白き存在は、玲司を見下ろし、複数の赤い眼を向けてくる。

(この街を、こんな有様にした元凶がこいつなら……ここで倒すしかない)


玲司は虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)を放つため、静かに手を構えつつ、わずかな可能性に賭けて声をかけた。


「おい。……言葉は、通じるか?」


返答はなかった。


(対話は不可能か……。このサイズだ、何発か叩き込まないと倒しきれないな)


「この街の人のためだ……消えてもらう!」


玲司は、これまで怪人に放ったものよりもはるかに巨大な虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)を、天使へと解き放った。

球体の深淵が広がり、天使の身体の六割ほどを包み込む。


(脳と心臓部……その近くを削れば――!)

だが、その期待は一瞬で裏切られた。

深淵が消え去った先に、天使は立っていた。


皮膚はところどころ失われ、骨や筋繊維が露出している。

玲司を見下ろしていた赤眼も、くり抜かれたかのように虚空が覗いていた。


(……嘘だろ? 防御不可能のはずだぞ……)


虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)は、対象を虚空で包み込み、一気に消滅させる能力だ。

確かに致命部位を削った。だが、それでも――天使は止まらなかった。


損傷した部位が、瞬く間に再生していく。


そのとき玲司は、自分がすでに天使の間合いに立っていることに気づいた。


――――――――――――――――――――――


《――目の前の人間は、警戒対象。攻撃を開始する》


頭の内に、自然と浮かび上がる思考。

澄羽は、それがまるで自分自身の判断であるかのような錯覚に陥っていた。


(……なに、これ……?……っ!)

身体が、意思とは無関係に動き出す。

腕に形成された刃状の手甲が振るわれ、玲司へと迫った。

反射的に玲司は、虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)を手甲へ向けて放つ。


刃の先端が消失し、直撃は免れた。

だが、攻撃の余波で玲司は大きく吹き飛ばされ、地面を転がった。


(やめて……! 何してるの、私……!)

叫びは声にならない。

澄羽の身体は止まらず、次いで双剣を生成し、玲司へと歩み寄る。


貫くような視線が、一直線に玲司を捉えていた。

立ち上がった玲司もまた、その天使から目を逸らさなかった。


――――――――――――――――――――――


虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)が効かない……なら、これしかない!)


玲司の腕の周囲が歪み始める。

まるで時空そのものが引き裂かれているかのようだった。


天使は、もう目前に迫っている。

玲司は腕を突き出す。


未来断絶(ロックアウト)……!」

歪んだ時空が奔流となり、天使へと放たれる。

同時に、天使も剣を振るった。


二つの攻撃が交錯する。


未来断絶(ロックアウト)を受けた剣は、未来を失い、存在ごと消滅した。

だが、それでも天使の身体そのものを断ち切るには至らない。

天使は残る剣の柄で、玲司を殴り飛ばした。


衝撃で、玲司の口から赤黒い血がこぼれる。

「……ぐっ……」


陽光を背に立つ天使の姿は、

まるで地上に降り立った神のようだった。


天使は、剣を振りかぶる。

玲司は、仰向けのままそれを見上げる。


――倒さなければならない。


そう判断しているはずなのに、

なぜか、その決断に躊躇が混じっていた。


それでも玲司は最後の抵抗として、

未来断絶(ロックアウト)虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)を同時に発動させようと構える。


その刹那。


天使の眼が、わずかに揺れた。

次の瞬間、玲司は言葉にできない感覚に貫かれる。


敵意でも、憎悪でもない。

ただ、深く、深く――

戦うことそのものを拒む、沈黙の感情だった。


――――――――――――――――――――――


剣を振り下ろせば、終わる。


そう理解していた。


玲司は、もう立ち上がれない。

次の一撃で、確実に命を断てる距離にいる。


《――排除可能。脅威レベル低下。》

頭の奥で、冷たい声がそう告げた。


(……やだ)


その言葉は、音にもならず胸の内に沈んだ。


(やだ……やだよ……)


剣を握る指先が、わずかに震える。


斬れない。

どうしても、斬れない。


玲司は、さっきまで確かに、こちらを敵として見ていた。

けれど――


あの目。


最後に見えたあの視線は、

殺意でも、憎しみでもなかった。


ただ、困惑と、迷いと、そして……拒絶。


(……私と、同じだ)


《――躊躇は不要。生存を優先せよ》


(違う……)


頭が痛い。

思考が引き裂かれるように軋む。


このまま従えば、また誰かを、理由もなく殺すことになる。


(それじゃ……ヒーローじゃない)


胸の奥で、忘れていた感情が疼いた。


誰かを守りたかった。

誰かを、笑顔にしたかった。

それなのに今の私は、剣を振るう怪物だ。


「……ごめん」

声は、届かない。

でも、確かに――澄羽はそう呟いた。


剣を振り下ろす代わりに、

その切っ先を地面へ突き立てる。


《――行動逸脱。制御を――》


「もう、やめて……!」

叫んだ瞬間、翼のような突起が大きく広がった。


地面が砕け、土煙が舞い上がる。


澄羽は後ろへと跳び退く。

距離を取る。

これ以上、近づかない。


近づけば、また戦ってしまうから。


(怖い……)


自分が。

この力が。

そして、この世界が。


逃げる。

それしか、選べなかった。


白き天使は、背を向けた。


白昼を引き裂くように宙へ跳び、瓦礫と粉塵を残して、その場から姿を消した。


――――――――――――――――――――――


追えない距離じゃなかった。

身体も、まだ動いた。

能力だって、撃てたはずだ。


――それでも、玲司は立ち上がらなかった。


(……なぜだ)

倒れたまま、荒い息を吐く。


肺が焼けるように痛み、全身が軋む。

だが、それ以上に胸の奥に残った感覚が、玲司を動けなくしていた。


あの目だ。

最後に見た、天使の眼。

殺意も、憎悪もなかった。

まるで――


「……戦いたくない」


そう訴えられたような気がしてならなかった。


(敵、なんだろ……?)


この街を壊し、人を殺し、怪人を生み出した存在。

そう決めつけるには、あの眼は、あまりにも人間じみていた。


玲司は、拳を握りしめる。

「……くそ」

倒したはずの怪人の死骸が、視界の端に転がっている。

確かに、天使は戦っていた。


だが――

止めを刺せたのに、刺さなかった。


(逃がした……のか?)


それとも――


(逃がして、もらった?)

自分でも、答えが出ない。


立ち上がろうとして、膝が崩れた。

未来断絶(ロックアウト)虚界穿孔(ヴォイド・ブレイカー)の同時使用は、想像以上に身体を蝕んでいた。


「……追う資格、あるのかよ……」

誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。


守るために戦ってきた。

そう信じてきた。


だが、もし。

もしあの天使が――


「……人だったら?」

その考えを、玲司は振り払えなかった。


戦闘は終わった。

だが、桜庭玲司の中で、天使という存在は、敵でも、味方でもないまま、深く、心に刻み込まれていた。





「……玲司!」


瓦礫の向こうから、駆け寄ってくる足音。

美空の顔を見て、玲司はようやく息を吐いた。


「無事か」

「そっちこそ……血、出てる」


美空はそう言いながら、手を差し出す。

玲司は腕を掴み、ゆっくりと立ち上がった。

その手が、わずかに震えていた。


「あの人たち以外にも誰かいたの?」

「……天使だ。でも…逃げた」

短く答える。

それ以上、言葉が続かない。


美空は一瞬だけ空を見上げてから、視線を落とした。


「……澄羽」

その名前が出た途端、空気が変わる。

「見つかった?」

「いや……」


玲司は首を横に振る。

美空は唇を噛み、拳を握りしめた。

「……私、何もできなかった」

「……」


玲司は、言うべきか迷った末に口を開く。

「……澄羽のことさ」

「うん」


「……今日、変なことなかったか?」


美空は、少しだけ首を傾げる。

「……どういう意味?」

玲司は答えなかった。


答えられなかった。

あの白い光と、赤い眼が、脳裏をよぎる。

「……いや、いい」


美空は何かを言いかけて、やめた。

その後、重いブーツ音が、瓦礫の上を踏みしめて近づいてきた。


「A.E.O.I.です。現場の安全は確保しました」

黒いコートに身を包んだ数名の職員が、無駄のない動きで周囲を見回す。

その視線は、人ではなく状況を見ていた。


「ここで天使型の生命体が目撃された。接触したのは君たちだな」

一人が玲司に向き直る。


「はい」

「怪人の状況を。」

玲司は短く頷き、淡々と説明を始めた。

怪人の出現、追跡、そして白い天使との遭遇。


「……戦闘能力は?」

「推定で少なくともLv3.Werve(ワーヴ)。攻撃性は高いが、途中で戦闘を放棄しました」


職員の一人が端末を操作しながら言う。

「確認する。桜庭玲司、年齢十七。適性検査――」


一瞬、指が止まった。

「……ああ。加入予定者か」


玲司が反応するより先に、別の職員が口を挟む。

「聞いている。来週付で正式登録のはずだ」


空気が、わずかに変わった。

「なら話は早い。今回の件は正式な初遭遇記録として扱う」

玲司は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。


一方で、美空は少し後ろに下がっていた。

話題は専門用語に変わり、彼女の入る余地はなくなっていく。


(……澄羽)

美空はポケットからスマートフォンを取り出す。


発信。

呼び出し音。


――出ない。


もう一度。

それでも繋がらない。


「……」


画面を見つめる指先に、力が入る。


「まだ……出られないだけ、だよね」


誰に言うでもなく、そう呟いた。


背後では、A.E.O.I.職員たちが「次の出現予測」や「天使の行動パターン」について話している。


その会話の中に、澄羽という名前は一度も出てこなかった。


――――――――――――――――――――――


玄関の扉を閉めた瞬間、足から力が抜けた。


鍵をかけたかどうかも覚えていない。

靴も脱ぎ捨てたまま、澄羽は壁に手をつき、荒い息を吐いた。


(……帰って、きちゃった)

誰にも見られていないはずの家の中が、ひどく怖い。

さっきまで、あれほど巨大だった世界が、急に現実の大きさに戻ってきた。


階段を上がる音が、自分のものとは思えないほど大きく響く。

寝室の扉を閉めた瞬間、膝が折れた。

床に座り込み、手を見下ろす。


――何も付いていない。

血も、傷も。


それなのに。


(……殺した)


言葉が、頭の中で形になった瞬間、胸の奥が、ぎゅっと潰れるように痛んだ。


怪人だった。

人じゃなかった。

そう言い聞かせようとしても、浮かんでくるのは――


喉がひきつり、声にならない音が漏れる。


澄羽は這うようにベッドに近づき、布団をめくると、その中に潜り込んだ。

膝を抱え、背中を丸め、できるだけ小さくなる。


(私が……殺した)


(私が、あの人たちを……)


布団越しに聞こえる、自分の呼吸音だけがやけに大きい。


逃げた。

戦うことも、説明することも、全部。


玲司の顔が、脳裏に浮かぶ。

驚きと、迷いと、――何か言いかけていた目。


(ごめん……)


誰に向けた言葉かも、もうわからない。


「……いや……」

小さく首を振る。

否定したいのに、何を否定すればいいのか分からなかった。


人を殺した。

それは事実で、天使だったかどうかなんて、関係なくて。


布団の中で、澄羽は息を殺した。


泣いているのかどうかも、もう分からない。



枕元から、かすかな振動音が伝わってくる。


ぶる、ぶる、と。

短く、控えめな振動。


スマートフォンだった。


けれど澄羽は、動かなかった。


誰かの名前が浮かびそうになって、思考を止める。

確認してしまえば、きっと――


「……いや……」

声にならない拒絶を、喉の奥で押し殺す。


振動は、しばらく続いたあと、静かに途切れた。

部屋は、再び何もなかったかのように静まり返る。


それから、少し間を置いて。


また、振動。


今度は、さっきよりも長い。


布団の中で、澄羽の指先がかすかに震えた。

けれど、それでも手を伸ばすことはできなかった。


(出たら……)


(何か言われたら……)


(私……)


考えが、そこで途切れる。


三度目の着信は、来なかった。


代わりに、通知音が一度だけ鳴る。


メッセージの受信を告げる、短い音。


それもまた、澄羽の耳には届かなかった。


彼女はただ、布団の中で目を閉じたまま、

息をすることだけに必死になっていた。


枕元の画面には、光る文字。


――未応答着信 3件

――メッセージ 1件


画面が暗くなり、カーテンが閉め切られた部屋は、完全な闇に沈んだ。

ただ、このまま明日が来なければいいと、そんなことだけを考えていた。

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