第9話:手は、もう戻らない
「そうか……お前が、あの天使か……」
怪人を追っていた桜庭玲司は、天使と邂逅を果たした。
目の前に立つ白き存在は、玲司を見下ろし、複数の赤い眼を向けてくる。
(この街を、こんな有様にした元凶がこいつなら……ここで倒すしかない)
玲司は虚界穿孔を放つため、静かに手を構えつつ、わずかな可能性に賭けて声をかけた。
「おい。……言葉は、通じるか?」
返答はなかった。
(対話は不可能か……。このサイズだ、何発か叩き込まないと倒しきれないな)
「この街の人のためだ……消えてもらう!」
玲司は、これまで怪人に放ったものよりもはるかに巨大な虚界穿孔を、天使へと解き放った。
球体の深淵が広がり、天使の身体の六割ほどを包み込む。
(脳と心臓部……その近くを削れば――!)
だが、その期待は一瞬で裏切られた。
深淵が消え去った先に、天使は立っていた。
皮膚はところどころ失われ、骨や筋繊維が露出している。
玲司を見下ろしていた赤眼も、くり抜かれたかのように虚空が覗いていた。
(……嘘だろ? 防御不可能のはずだぞ……)
虚界穿孔は、対象を虚空で包み込み、一気に消滅させる能力だ。
確かに致命部位を削った。だが、それでも――天使は止まらなかった。
損傷した部位が、瞬く間に再生していく。
そのとき玲司は、自分がすでに天使の間合いに立っていることに気づいた。
――――――――――――――――――――――
《――目の前の人間は、警戒対象。攻撃を開始する》
頭の内に、自然と浮かび上がる思考。
澄羽は、それがまるで自分自身の判断であるかのような錯覚に陥っていた。
(……なに、これ……?……っ!)
身体が、意思とは無関係に動き出す。
腕に形成された刃状の手甲が振るわれ、玲司へと迫った。
反射的に玲司は、虚界穿孔を手甲へ向けて放つ。
刃の先端が消失し、直撃は免れた。
だが、攻撃の余波で玲司は大きく吹き飛ばされ、地面を転がった。
(やめて……! 何してるの、私……!)
叫びは声にならない。
澄羽の身体は止まらず、次いで双剣を生成し、玲司へと歩み寄る。
貫くような視線が、一直線に玲司を捉えていた。
立ち上がった玲司もまた、その天使から目を逸らさなかった。
――――――――――――――――――――――
(虚界穿孔が効かない……なら、これしかない!)
玲司の腕の周囲が歪み始める。
まるで時空そのものが引き裂かれているかのようだった。
天使は、もう目前に迫っている。
玲司は腕を突き出す。
「未来断絶……!」
歪んだ時空が奔流となり、天使へと放たれる。
同時に、天使も剣を振るった。
二つの攻撃が交錯する。
未来断絶を受けた剣は、未来を失い、存在ごと消滅した。
だが、それでも天使の身体そのものを断ち切るには至らない。
天使は残る剣の柄で、玲司を殴り飛ばした。
衝撃で、玲司の口から赤黒い血がこぼれる。
「……ぐっ……」
陽光を背に立つ天使の姿は、
まるで地上に降り立った神のようだった。
天使は、剣を振りかぶる。
玲司は、仰向けのままそれを見上げる。
――倒さなければならない。
そう判断しているはずなのに、
なぜか、その決断に躊躇が混じっていた。
それでも玲司は最後の抵抗として、
未来断絶と虚界穿孔を同時に発動させようと構える。
その刹那。
天使の眼が、わずかに揺れた。
次の瞬間、玲司は言葉にできない感覚に貫かれる。
敵意でも、憎悪でもない。
ただ、深く、深く――
戦うことそのものを拒む、沈黙の感情だった。
――――――――――――――――――――――
剣を振り下ろせば、終わる。
そう理解していた。
玲司は、もう立ち上がれない。
次の一撃で、確実に命を断てる距離にいる。
《――排除可能。脅威レベル低下。》
頭の奥で、冷たい声がそう告げた。
(……やだ)
その言葉は、音にもならず胸の内に沈んだ。
(やだ……やだよ……)
剣を握る指先が、わずかに震える。
斬れない。
どうしても、斬れない。
玲司は、さっきまで確かに、こちらを敵として見ていた。
けれど――
あの目。
最後に見えたあの視線は、
殺意でも、憎しみでもなかった。
ただ、困惑と、迷いと、そして……拒絶。
(……私と、同じだ)
《――躊躇は不要。生存を優先せよ》
(違う……)
頭が痛い。
思考が引き裂かれるように軋む。
このまま従えば、また誰かを、理由もなく殺すことになる。
(それじゃ……ヒーローじゃない)
胸の奥で、忘れていた感情が疼いた。
誰かを守りたかった。
誰かを、笑顔にしたかった。
それなのに今の私は、剣を振るう怪物だ。
「……ごめん」
声は、届かない。
でも、確かに――澄羽はそう呟いた。
剣を振り下ろす代わりに、
その切っ先を地面へ突き立てる。
《――行動逸脱。制御を――》
「もう、やめて……!」
叫んだ瞬間、翼のような突起が大きく広がった。
地面が砕け、土煙が舞い上がる。
澄羽は後ろへと跳び退く。
距離を取る。
これ以上、近づかない。
近づけば、また戦ってしまうから。
(怖い……)
自分が。
この力が。
そして、この世界が。
逃げる。
それしか、選べなかった。
白き天使は、背を向けた。
白昼を引き裂くように宙へ跳び、瓦礫と粉塵を残して、その場から姿を消した。
――――――――――――――――――――――
追えない距離じゃなかった。
身体も、まだ動いた。
能力だって、撃てたはずだ。
――それでも、玲司は立ち上がらなかった。
(……なぜだ)
倒れたまま、荒い息を吐く。
肺が焼けるように痛み、全身が軋む。
だが、それ以上に胸の奥に残った感覚が、玲司を動けなくしていた。
あの目だ。
最後に見た、天使の眼。
殺意も、憎悪もなかった。
まるで――
「……戦いたくない」
そう訴えられたような気がしてならなかった。
(敵、なんだろ……?)
この街を壊し、人を殺し、怪人を生み出した存在。
そう決めつけるには、あの眼は、あまりにも人間じみていた。
玲司は、拳を握りしめる。
「……くそ」
倒したはずの怪人の死骸が、視界の端に転がっている。
確かに、天使は戦っていた。
だが――
止めを刺せたのに、刺さなかった。
(逃がした……のか?)
それとも――
(逃がして、もらった?)
自分でも、答えが出ない。
立ち上がろうとして、膝が崩れた。
未来断絶と虚界穿孔の同時使用は、想像以上に身体を蝕んでいた。
「……追う資格、あるのかよ……」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟く。
守るために戦ってきた。
そう信じてきた。
だが、もし。
もしあの天使が――
「……人だったら?」
その考えを、玲司は振り払えなかった。
戦闘は終わった。
だが、桜庭玲司の中で、天使という存在は、敵でも、味方でもないまま、深く、心に刻み込まれていた。
「……玲司!」
瓦礫の向こうから、駆け寄ってくる足音。
美空の顔を見て、玲司はようやく息を吐いた。
「無事か」
「そっちこそ……血、出てる」
美空はそう言いながら、手を差し出す。
玲司は腕を掴み、ゆっくりと立ち上がった。
その手が、わずかに震えていた。
「あの人たち以外にも誰かいたの?」
「……天使だ。でも…逃げた」
短く答える。
それ以上、言葉が続かない。
美空は一瞬だけ空を見上げてから、視線を落とした。
「……澄羽」
その名前が出た途端、空気が変わる。
「見つかった?」
「いや……」
玲司は首を横に振る。
美空は唇を噛み、拳を握りしめた。
「……私、何もできなかった」
「……」
玲司は、言うべきか迷った末に口を開く。
「……澄羽のことさ」
「うん」
「……今日、変なことなかったか?」
美空は、少しだけ首を傾げる。
「……どういう意味?」
玲司は答えなかった。
答えられなかった。
あの白い光と、赤い眼が、脳裏をよぎる。
「……いや、いい」
美空は何かを言いかけて、やめた。
その後、重いブーツ音が、瓦礫の上を踏みしめて近づいてきた。
「A.E.O.I.です。現場の安全は確保しました」
黒いコートに身を包んだ数名の職員が、無駄のない動きで周囲を見回す。
その視線は、人ではなく状況を見ていた。
「ここで天使型の生命体が目撃された。接触したのは君たちだな」
一人が玲司に向き直る。
「はい」
「怪人の状況を。」
玲司は短く頷き、淡々と説明を始めた。
怪人の出現、追跡、そして白い天使との遭遇。
「……戦闘能力は?」
「推定で少なくともLv3.Werve。攻撃性は高いが、途中で戦闘を放棄しました」
職員の一人が端末を操作しながら言う。
「確認する。桜庭玲司、年齢十七。適性検査――」
一瞬、指が止まった。
「……ああ。加入予定者か」
玲司が反応するより先に、別の職員が口を挟む。
「聞いている。来週付で正式登録のはずだ」
空気が、わずかに変わった。
「なら話は早い。今回の件は正式な初遭遇記録として扱う」
玲司は、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
一方で、美空は少し後ろに下がっていた。
話題は専門用語に変わり、彼女の入る余地はなくなっていく。
(……澄羽)
美空はポケットからスマートフォンを取り出す。
発信。
呼び出し音。
――出ない。
もう一度。
それでも繋がらない。
「……」
画面を見つめる指先に、力が入る。
「まだ……出られないだけ、だよね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
背後では、A.E.O.I.職員たちが「次の出現予測」や「天使の行動パターン」について話している。
その会話の中に、澄羽という名前は一度も出てこなかった。
――――――――――――――――――――――
玄関の扉を閉めた瞬間、足から力が抜けた。
鍵をかけたかどうかも覚えていない。
靴も脱ぎ捨てたまま、澄羽は壁に手をつき、荒い息を吐いた。
(……帰って、きちゃった)
誰にも見られていないはずの家の中が、ひどく怖い。
さっきまで、あれほど巨大だった世界が、急に現実の大きさに戻ってきた。
階段を上がる音が、自分のものとは思えないほど大きく響く。
寝室の扉を閉めた瞬間、膝が折れた。
床に座り込み、手を見下ろす。
――何も付いていない。
血も、傷も。
それなのに。
(……殺した)
言葉が、頭の中で形になった瞬間、胸の奥が、ぎゅっと潰れるように痛んだ。
怪人だった。
人じゃなかった。
そう言い聞かせようとしても、浮かんでくるのは――
喉がひきつり、声にならない音が漏れる。
澄羽は這うようにベッドに近づき、布団をめくると、その中に潜り込んだ。
膝を抱え、背中を丸め、できるだけ小さくなる。
(私が……殺した)
(私が、あの人たちを……)
布団越しに聞こえる、自分の呼吸音だけがやけに大きい。
逃げた。
戦うことも、説明することも、全部。
玲司の顔が、脳裏に浮かぶ。
驚きと、迷いと、――何か言いかけていた目。
(ごめん……)
誰に向けた言葉かも、もうわからない。
「……いや……」
小さく首を振る。
否定したいのに、何を否定すればいいのか分からなかった。
人を殺した。
それは事実で、天使だったかどうかなんて、関係なくて。
布団の中で、澄羽は息を殺した。
泣いているのかどうかも、もう分からない。
枕元から、かすかな振動音が伝わってくる。
ぶる、ぶる、と。
短く、控えめな振動。
スマートフォンだった。
けれど澄羽は、動かなかった。
誰かの名前が浮かびそうになって、思考を止める。
確認してしまえば、きっと――
「……いや……」
声にならない拒絶を、喉の奥で押し殺す。
振動は、しばらく続いたあと、静かに途切れた。
部屋は、再び何もなかったかのように静まり返る。
それから、少し間を置いて。
また、振動。
今度は、さっきよりも長い。
布団の中で、澄羽の指先がかすかに震えた。
けれど、それでも手を伸ばすことはできなかった。
(出たら……)
(何か言われたら……)
(私……)
考えが、そこで途切れる。
三度目の着信は、来なかった。
代わりに、通知音が一度だけ鳴る。
メッセージの受信を告げる、短い音。
それもまた、澄羽の耳には届かなかった。
彼女はただ、布団の中で目を閉じたまま、
息をすることだけに必死になっていた。
枕元の画面には、光る文字。
――未応答着信 3件
――メッセージ 1件
画面が暗くなり、カーテンが閉め切られた部屋は、完全な闇に沈んだ。
ただ、このまま明日が来なければいいと、そんなことだけを考えていた。




