第8話:白昼に顕れるもの
朝の教室は、まだ完全には目を覚ましていなかった。窓から差し込む光は白く、机や床の上に薄い影を落としている。
誰かが笑えば、誰かがそれに応じる。けれど、そのやり取りはどこか遠慮がちで、以前の教室より一拍遅れていた。
その空気を割るように、教室の扉が開いた。
「おはよう」
少し低く、落ち着いた声だった。
入ってきたのは桜庭玲司だった。肩に掛けた鞄を軽く持ち直しながら、教室を一度だけ見渡す。
その視線には探るような色があったが、すぐに何事もなかったかのように前を向いた。
数人が気づき、ひそひそと声を交わす。
玲司は空いている席に向かい、静かに腰を下ろした。
それだけの動作なのに、教室の空気がほんの少しだけ、引き締まった気がした。
――その直後だった。
再び、扉が開く。
白鷺澄羽は、視線を伏せたまま教室に入ってきた。
床を踏む足取りは軽いはずなのに、どこか重く見える。
彼女が教室に現れると、今度ははっきりとした沈黙が落ちた。
(……まだ、ここにいる)
澄羽はそう思いながら、自分の席へ向かう。
誰にも見られていないようで、誰からも見られている気がした。
玲司の視線が、一瞬だけ澄羽に向いた。
澄羽もそれに気づいたが、顔を上げることはなかった。
何も起きていない。
いつも通りの朝。
ただ、教室のどこかに、言葉にできない違和感が沈殿している。
それが、これから壊れる前兆だと気づく者は、まだ誰もいなかった。
「今日の授業はグループワークだ。近くの席の人たちで四人組を作れ。余ったり、周りが休んでいる人は移動してくれ」
教師の声が教室に響くと同時に、机と椅子を引きずる大きな音が重なった。
澄羽の周囲には幸いにもクラスメイトが揃っていたため、自分から誰かに声をかけに行かずに済んだ。
「……よろしく」
澄羽はわずかに息を吸い込み、同じグループの面々に声をかける。
しかし、返事はなかった。
(やっぱり、嫌われてるんだ……。黙っていよう)
予想していた反応だったのか、澄羽の表情はほとんど変わらない。
――そのとき、彼女は違和感に気づいた。
グループの全員が、虚ろな目をしている。
まるで魂を抜き取られた人形のように、その視線は誰一人として澄羽を映さず、虚空を見つめていた。
そのうち一人が口から液体を垂らした。
黒に近い赤。少量なれど、吐血といった事象がそこで起こっていた。
「大丈夫か!?」
先生の一言で周囲のクラスメイトは一気に気づく。
目を瞑る者や、吐血した生徒を注視する者。そして、吐血が起こっても驚かない本人と澄羽。
澄羽にとっては、自身の残骸を見るより数倍マシだった。
そんな状況を見かねて、美空が声をかける。
「大丈夫…?保健室に行ってね。それとも、着いていこっか?」
美空は手を差し出す。
生徒は虚空を見つめたまま立ち上がり、美空の手を握らず廊下へと向かった。
「…大丈夫かな…?」
心配する美空と対照的に、澄羽は本能的な不安を感じていた。
廊下に出た瞬間、教室のざわめきが嘘のように遠ざかった。
生徒は壁に手をつき、数歩進んだところで足を止めた。
吐血の痕が、床にぽつり、ぽつりと落ちる。
次の瞬間、その身体が不自然に痙攣した。
関節が、意図しない方向へと曲がる。
喉の奥から、言葉にならない音が漏れ出た。
「――――」
悲鳴とも、呻きともつかない音が廊下に響く。
それを最後に、生徒の口は閉じられた。
代わりに、骨が軋む音が廊下に響く。
何かが身体を押し広げていく。
肩が盛り上がり、背中が裂けるように歪む。
人の形を保っていた輪郭が、ゆっくりと、しかし確実に崩れていった。
顔が縦に裂ける。
あったはずの目は焦点を失い、
口は、もはや言葉を発するための器官ではなくなっていた。
――人ではない。
それだけは、誰の目にも明らかだった。
異変に気づき、いくつかの教室から生徒が廊下を覗く。
怪人は、その気配に反応するように首を傾げた。
そして、獲物を見る目で、ゆっくりと振り返る。
悲鳴が上がり、生徒たちは教室の奥へと逃げ出す。
「みんなどうしたんだ?」
異変を察した先生が、廊下へと顔を出した。
怪人は、すでにそこまで迫っていた。
突然眼前に現れた脅威に、先生は反射的に身を仰け反らせる。
だが次の瞬間、怪人は腕を振るい、先生の身体を教室の奥へと吹き飛ばした。
怪人はそのまま教室へと踏み込む。
何かを探すかのように、奥に固まる生徒たちを、じっと観察していた。
やがて、その視線が一点に定まる。
――花守美空。
怪人は、まっすぐに向かってきた。
「……! 危ない!」
桜庭玲司が、美空と怪人の間に立とうとする。
だが、その動きは途中で止められた。
白鷺澄羽が、二人の間に割って入ったのだ。
足は震えている。
それでも、目は微かに光を宿し、怯えながらも守るという覚悟だけは、確かに宿していた。
怪人はしばらく澄羽を睨みつけると、次の瞬間、飛びかかり、彼女の頭を強く掴んだ。
そのまま怪人は急加速し、教室の窓を破って外へと飛び出す。
澄羽を引きずったまま、地面を蹴った。
「……っ……痛い……!」
強く掴まれた頭の奥が軋む。
澄羽の視界には、教室の光景が映っていた。
引きずられながら見る世界は、まるでスローモーションのように、ゆっくりと流れていく。
追いかけようとする美空。
歯を食いしばる玲司。
この隙に逃げようとする生徒たち。
気絶したまま、動かない先生。
そして――
グループワークのとき、虚ろな表情をしていた二人の生徒。
その目は今、獲物を捉える捕食者のそれへと変貌していた。
(美空……そんなに心配しなくていいよ)
(私にはもう……生きる意味なんて……)
引きずられ、意識が朦朧としていく中で、
澄羽はそう考えた。
――けれど。
もし、澄羽があの天使であるならば。
天使が、澄羽の死を、果たして許すだろうか。
天使ならば、こんな怪人など、瞬殺できるはずなのに。
怪人は、建設途中の敷地に立てられた白い壁へ、
澄羽の身体を投げ飛ばした。
真白な壁に、赤が広がる。
縦に裂けた顔から血と体液を噴き出しながら、
怪人はゆっくりと近づいてきた。
距離が一メートルほどに縮まると、怪人の腕が異様に肥大化する。
「螟ゥ菴ソ繧医?よ?繧峨→蜈ア縺ォ縺ゅ?譁ケ繧呈爾縺吶◆繧√?√◎縺ョ莠コ髢薙?菴薙r謐ィ縺ヲ繧九′濶ッ縺??」
意味を持たない声。
次の瞬間、怪人の腕が澄羽へと振り下ろされた。
澄羽は―――
それを片手で受け止めた。
そして、手のひらに収まるその部位を、握り潰した。
怪人は、明らかに動揺していた。
――だが、驚いていたのは澄羽も同じだった。
なぜなら、今の行動は、澄羽自身の意思ではなかったのだから。
澄羽の手の中で、怪人の腕が嫌な音を立てて潰れていく。
骨が砕け、肉が歪む感触。
それは、明らかに人が触れていいものではなかった。
「……え……?」
自分の手を見つめたまま、澄羽は動けずにいた。
――違う。
これは、私の力じゃない。
次の瞬間、身体の奥が、静かに――ひっくり返った。
痛みは、なかった。
代わりに、冷たいものが背骨をなぞる感覚が走る。
視界が、澄む。
さっきまで滲んでいた世界が、
嘘のように鮮明になっていく。
怪人の動き。
呼吸の間隔。
次に振るわれる攻撃の軌道。
――すべてが、分かる。
(やめて)
そう思ったはずだった。
けれど、その願いはどこにも届かない。
心臓の鼓動が、一拍、遅れた。
その隙間に、何かが入り込んでくる。
《――□□□□□□□□》
頭の奥で、声とも情報ともつかないものが響いた。
「……待っ……」
声にならない声が、喉で潰れる。
身体が、軽くなった。
いや――軽くなりすぎた。
足が、地面から離れている。
いつの間にか、澄羽は立っていた。
血に濡れた制服のまま、それでも倒れる気配はなかった。
背中に、違和感が走る。
骨でも、肉でもない何かが、内側から形を成していく。
裂けるはずの痛みは、存在しない。
代わりに、「人であるための感覚」が、一つずつ剥がれていった。
寒さ。
恐怖。
震え。
それらが、ゆっくりと消えていく。
代わりに、役割だけが、残った。
怪人が一歩、後ずさる。
本能が、目の前の存在を「捕食対象ではない」と判断したのだ。
澄羽は、怪人を見た。
否――
見下ろしていた。
視線が合った瞬間、怪人の動きが止まる。
圧倒的な差を、
理解してしまったのだ。
澄羽の背後で、淡く、白い光が揺らめく。
翼ではない。
しかし、確かに――
天使と呼ばれるものの輪郭だった。
「……私……」
言葉を探そうとして、
澄羽は気づく。
何も、出てこない。
叫びも、
怒りも、
悲しみも。
ただ、排除すべき対象だけが、そこにあった。
怪人が、逃げようとする。
だが――遅い。
澄羽は何処からともなく取り出した剣を、怪人へ投げつけた。
腕が動いた、そう認識した時にはもう遅かった。
剣は怪人の胴を貫いた。
怪人は声を上げる間もなく絶命した。
「やっぱり、夢じゃなかった…。それに今も…」
澄羽は吐き気を覚えた。
喉がひきつる感覚だけが残り、何も出てこなかった。
生徒が逃げ出した教室で桜庭玲司は思考していた。
(あいつが怪人に…虚ろな目をしていたが…。もしかして…!)
「花守!さっさと逃げろ!」
突然の自身への声に、美空は困惑した。
「えっ…?でも、澄羽を助けに行かないと…!」
美空は今にも教室の窓から外を見ていた。
澄羽達の教室は2階だ。飛びおりることは可能な高さだ。
だが玲司は気づいていたのだ。
今、教室に残っている美空と玲司以外の2人の生徒。
彼らが怪人化するということに。
「間に合わないか。花守、俺の後ろに」
自然と玲司は美空を守るかように移動した。
次の瞬間、生徒の2人の体は軋み、歪み、唸りを上げながら怪人へ変貌した。
骨の擦れる音と、肉が裏返るような不快な音が教室に満ちる。
2体の怪人は玲司と美空を視界に捉える。
「花守、もうこいつらを助けることはできない。だから、もうこうするしか手はない」
玲司は何やら手に力を込めたまま、そのように言った。
怪人の一体が二人へ飛びかかる。
それに合わせて玲司は、手を怪人に向けて唱えた。
「虚界穿孔」
次の瞬間、怪人は虚空の空間に呑まれ、悲鳴すら許されずに空間ごと消滅した。
玲司はすぐさま2体目の怪人を睨む。
怪人は敵わないとわかったのか、すぐさま逃げ出した。
怪人は既に割れたガラスの窓から外へ飛び出した。
「待て!」
玲司はそれを追いかけるように窓から飛び降りた。
「玲司くん…。A.E.O.I.に入りたいって言ってたけど…あの力、普通じゃないよね」
美空はその場に座り込み、割れた窓を見ることしかできなかった。
怪人が玲司から逃げて数分後。
怪人が逃げたその先には、澄羽が立っていた。
澄羽はその怪人を捉えた。
(何をする気…?やめて…!)
澄羽を動かす何かは、また剣を取り出し怪人へと投擲した。
怪人の頭部は原型を留めないほどに崩壊した。
「……そんな……」
澄羽は、自分の足で立てなくなり、その場に膝をついた。
昼の時間帯、白き天使は白昼よりも明るく、その身に光を写していた。
――誰かの足音が近づいてくる。
澄羽はその方向に目をやった。
「そうか…お前があの天使か…」
怪人を追っていた桜庭玲司は、天使としての澄羽と邂逅を果たした。




