第7話:踏み出す者、立ち止まる者
この小説に登場するキャラクターの特徴をまとめたwikiを作りました。物語が進むにつれキャラクターの情報も増えていきます。
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「ねえ、澄羽。ちょっといい?」
振り返ると、美空が立っていた。
朝よりも、ずっと疲れた顔をしている。
「……どうしたの、美空」
「ううん、ちょっと話したくて。外、出よ?」
二人は下駄箱を抜け、夕方の薄暗い廊下を歩いて校門近くまで出た。
そこには誰もいなかった。風に揺れる木々の音だけが静かに響く。
美空はしばらく口を開けず、何度も言葉を選ぶように視線を揺らしていた。
「……今日の話、聞いてて思ったんだ」
「…あの天使、なんなんだろうって?」
美空は小さくうなずいた。
「うん。A.E.O.I.の人、天使のことだけは機密って言ってたでしょ。それって……逆に怪しいよね。守ってくれてる存在なら、もっと堂々と話せると思わない?」
澄羽の背筋が凍る。
胸の奥で、さっきからずっとくすぶっていた吐き気が再びせり上がる。
「あの日、天使を見て……正直に言うと、怖かった」
「……」
「白くて綺麗で、助けてくれる存在って、普通なら思うのかもしれない。でも、あれは……なんか違う。優しくない。救うためじゃなくて、壊すために動いてる感じがしたの」
その言葉は、澄羽の心の奥深くに鋭く突き刺さった。
自分自身の身体で味わった感覚。
敵を砕く感触。
飛び――裂き――喰らい尽くす衝動。
あれは、『救うための力』ではなかった。
美空は続けた。
「……澄羽は、どう思う?」
その問いは不安を共有したい友人としてのものだった。
それでも澄羽は答えられなかった。
あの日、自分が天使だなんて言えない。
言えば、美空はどうなる?
自分を見る目は?
美空の両親のことは?
混乱が一気に渦を巻く。
「……わたしは、まだ何もわからないよ」
そう返すので精一杯だった。
美空は寂しそうに微笑み、でも無理にそれ以上は踏み込まなかった。
「……そっか。ごめんね、変なこと聞いて。今日はもう帰ろ?」
美空の背中が夕日の陰に溶けていく。
澄羽はその後ろ姿を追いかける気になれず、ただ立ち尽くすしかなかった。
胸の奥で、ひどく冷たいものが沈んでいく。
――壊したのは、きっとわたしだ。
誰にも聞こえない声が、 夕暮れの風にかき消されていった。
――――――――――――――――――――――
夕暮れ前の住宅街。
崩れたブロック塀の前で、作業服の人間が慌ただしく行き来している。
澄羽と美空が家の前に着いたとき、玄関先に一人の少女が立っていた。
年の頃は中学生くらいだろう。
「……燈莉」
美空の声に、少女が振り返る。
美空の妹、花守燈莉は強く唇を結んだまま、駆け寄ってきた。
「無事でよかった……ほんとに……」
そう言って抱きつくが、すぐに離れる。
泣きそうな顔をしているのに、涙は落ちてこない。
「家……また壊れるかもって聞いて。じっとしてられなかった」
燈莉の視線が、ゆっくりと澄羽へ向けられる。
「……この人?」
「うん。クラスメイトの白鷺澄羽」
燈莉は一瞬だけ澄羽を見つめ、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
唐突な言葉に、澄羽は戸惑う。
「……え?」
「お姉ちゃんが無事だったから。理由はわからないけど……それだけで」
燈莉の声は震えていなかった。
それが、澄羽には逆に重く感じられた。
「澄羽、今日は一緒に帰ってくれてありがとうね。燈莉、私はご飯の支度してくるから先に入るね。…澄羽、また明日ね」
美空は澄羽と目を合わせ微笑むと、家に入っていった。
美空が家に戻り、二人きりになった一瞬。
燈莉は、崩れた道路の先を見つめながら口を開いた。
「白鷺さん、A.E.O.I.って知ってますか?」
澄羽の肩が、わずかに強張る。
「……ニュースで、少し」
「私、入りたいんです」
即答だった。
「……どうして?」
燈莉は少し考え、拳を握った。
「守りたい人がいるから」
その言葉に、澄羽の胸が微かに軋む。
「守れなかったら、きっと一生後悔する。だったら……怖くても、行かなきゃって思ったんです」
澄羽は、無意識に自分の足元を見ていた。
瓦礫に染みついた黒い痕跡が、脳裏をよぎる。
「……怖くないの?」
燈莉は首を横に振る。
「怖いです。すごく。でも……何もしないほうが、もっと怖い」
その言葉は、澄羽の心に静かに突き刺さった。
(ああ……)
この子は、まだ壊れていない。
それでいて、踏み出そうとしている。
「……すごいね」
澄羽の声は、どこか遠かった。
「すごくなんてないです。ただ……お姉ちゃんを、守りたいだけです」
沈黙が落ちる。
「白鷺さんは?」
不意に、燈莉が問いかける。
「守りたい人、いますか?」
澄羽は答えなかった。
答えられなかった。
その沈黙を、燈莉は責めなかった。
「……聞きすぎました。すみません」
「ううん……」
澄羽はかすかに首を振る。
「……羨ましいって、思っただけ」
燈莉は、少しだけ驚いた顔をした。
「そうですか…。…私、行きますから」
それだけで十分だった。
澄羽は何も聞かなかったし、燈莉もそれ以上語らなかった。
その沈黙の中に、理由も覚悟も、全部詰まっているとわかっていたからだ。
「……気をつけてね」
それは別れの言葉ではなかった。
けれど、戻ってくる保証のない言葉でもあった。
――――――――――――――――――――――
次の日の朝、澄羽の部屋には、さらに残骸が増えていた。
傷ついた内部の組織が、眠っている間にまた排出されたのだろう。
(これは……?)
澄羽は、床に転がるしぼんだ残骸を拾い上げた。
原型はほとんど留めていない。それでも、それが眼球だったものだと、誰の目にも明らかだった。
けれど、澄羽はこの光景にも、少しずつ慣れ始めていた。
増えた残骸をまとめて部屋の隅へ押しやり、上から布をかける。
それから、陽の当たる場所へ布団を引きずった。
乾燥機など使えない。太陽の光で、強引に乾かすしかなかった。
それでも、出血量は確実に減ってきている。
血に塗れた身体をタオルで拭い、制服に着替える。
澄羽は部屋を出ると、物音を立てないように階段を降りた。
夜美は、まだ起きていないらしい。
(……珍しいな)
澄羽はそっと玄関の扉を開け、外へ出た。
朝の日差しが、やけに眩しかった。
(そういえば……A.E.O.I.には、もう天使がこの街にいるって、知られてるんじゃ……)
その考えに、足が止まる。
数秒の躊躇のあと、澄羽は再び歩き出した。
死ぬこともできない世界で、
理由もなく、生きていくために。
朝の通学路は、まだどこか落ち着かない空気を残していた。
壊れたフェンス、仮設のバリケード、修復途中の歩道。
それらを視界の端に追いやりながら、澄羽は歩いていた。
「――あれ?」
背後から、聞き慣れないが落ち着いた声がした。
振り返ると、同じ制服の男子が立っている。
どこか、同年代にしては大人びた雰囲気を纏っていた。
「お前、確か……白鷺、だっけ」
「……え?」
「最近、学校来てるんだな。あんまり見なかったから」
突然の呼びかけに、澄羽は一瞬言葉を失った。
記憶を探るように相手の顔を見る。
「君は……えっと……」
「桜庭玲司だ」
淡々と名乗る声。
責めるでもなく、距離を詰めるでもない。
「俺も少し学校を休んでた。あまり話したこともないし、覚えてなくても無理はない」
「……桜庭、くん。休んでたって……体調、悪かったの?」
澄羽の問いに、玲司は一拍置いた。
それから、ほんのわずかに視線を逸らす。
「いや。A.E.O.I.に、加入申請をしてきただけだ」
「……え?」
澄羽の足が、無意識に止まった。
「家族同然の、大切な友人がいる。昔、海外で世話になってた先の子なんだけどな。そいつが、A.E.O.I.に入ったって聞いてさ」
玲司は空を見上げる。
澄んだ朝の青が、やけに遠く感じられた。
「守れる力があるなら、使わない理由はないだろ」
その言葉は、澄羽の胸の奥を静かに打った。
守る。
その言葉に、自分はどれだけ縛られてきたのか。
「……そう、なんだ」
それ以上、澄羽は言葉を続けられなかった。
「無理に話す必要はないさ」
玲司は軽く肩をすくめる。
「ただ、同じ街に住んでる同級生として、顔くらいは覚えておこうと思ってな」
そう言って歩き出す背中を、澄羽はしばらく見つめていた。
A.E.O.I.という名前が、
また一つ、確かな重さを持って日常に落ちてきた気がして。




