第5話:消えない朝の光
澄羽は夢を見ていた。
血にまみれた夢ではなく、温かい昔の夢を――
夜明け前の光が薄く差し込むリビングで、幼い澄羽はテレビの前に正座していた。
画面の中では、赤い全身スーツに黒い縁取りのマスク――角のような金色の装飾が輝くヒーローが、怪人に向かって走り出している。
〈未確認生命体〉と呼ばれる敵と戦う物語。
派手な必殺技に頼らず、ただ必死に、泥だらけになって殴り、蹴り、立ち上がる。
何度倒れても、人々の前に立ち続ける。
澄羽は息をのんだ。
「かっこいい……」
ヒーローは爆発の向こうでゆっくりと立ち上がり、胸の赤い装甲が光を反射した。
涙がにじむほどまっすぐで、痛々しいほど優しい強さ。
――こんなふうになりたい。
幼い胸の奥で、形にならない憧れがじわりと灯る。
場面が切り替わる。
翌日の学校の昼休み。
教室の隅で、澄羽は幼なじみの男の子と机を突き合わせて給食を食べていた。
「なあ澄羽ちゃん、昨日のオレンジのやつ見た!? あの二本の刀のやつ!」
男の子は興奮したように、二刀流の構えの真似をする。
「あれめっちゃカッコよくなかった?」
「お、おお……なんか強そうだね……!」
澄羽は笑いながら見ているが、心の中では昨夜見た古いヒーローの姿がまだ焼き付いている。
だから、ちょっとアンバランスに好きな作品がすれ違う。
でも、そのすれ違いがなぜか楽しかった。
「澄羽ちゃんはさ、前に見てた昔のやつが好きなんだよね?」
「うん。なんか……痛いのに立ち上がるのが、すごく好きで」
「へぇ! じゃあ、俺は最近のやついっぱい教えてあげるよ!二刀流も練習したいし!」
男の子は立ち上がると、本気の殺陣のように腕を振る。
その動きは子どもらしくぎこちなくて、危なっかしくて、でも――眩しいほど真っ直ぐだった。
「もう、危ないよ!」
「いいじゃん!ヒーローは強くなくちゃ!!」
澄羽は笑い、男の子も笑う。
その笑顔が、春の光みたいに温かかった。
光がいっぱいに広がる。
少年の笑顔だけがその中心で、ゆっくり――ゆっくりと薄れ、黒に溶けていく。
残るのは、空っぽの手だけ。
胸の奥がひび割れるように痛む。
夢の澄羽は叫びたくても声が出ない。
指を伸ばしたくても、光はいつも先に消えてしまう。
――――――――――――――――――――――
朝の光は、いつもより白く冷たかった。
夜美は、目を覚ました。
次の瞬間、胸の奥がひやりと凍りついた。
布団が、血に染まっている。
それは一箇所ではなく、いくつもの形で滲み、乾いた赤い色となって布団と床、そして夜美の頬を汚していた。
「……澄羽?」
呼びかけは震えていた。
その声に応えるように、布団の中で小さな影が身じろぎした。澄羽は眠っていた。浅く、熱に浮かされたような呼吸で。
夜美は昨日帰ってきた澄羽のことを思い返した。
玄関で倒れていた澄羽の体から漂った、言葉では説明できない異質な気配。
抱きかかえた時の、妙に軽いのにどこか硬い身体の感触。
――怖い。
そう思ってしまった自分に、夜美はそっと唇を噛む。
「澄羽……何があったの?」
澄羽は答えない。ただ、落ち着きなく寝返りを打ち、額に浮かんだ汗を光らせていた。
夜美の目は無意識に、布団の血の痕を凝視する。
普通の怪我の量ではない。
数時間で自力で歩ける状態では、絶対にありえない。
――どうして。
――何が澄羽をこうしたの。
だが、問い詰めることはできなかった。
恐怖よりも勝るのは、澄羽を失うかもしれないという予感だった。
夜美はそっと澄羽の頬に手を伸ばし、途中で止めた。
触れた瞬間に壊れてしまいそうで――いや、触れてはいけないような気がして。
(こんな身体で、何を背負ってるの……?)
問いは喉まで出かかったが、答えはどこにもない。
ただ黙って、彼女がまた目を開けてくれるのを待つしかなかった。
そして――ほんのわずかに、澄羽のまつげが揺れ、澄羽は眠りから目覚めた。
「……お姉ちゃん……?」
「澄羽……!」
夜美は思わず手を伸ばした。
だが、
「――触らないで」
その言葉は、空気を凍らせるほど静かだった。
夜美の指先が、宙に取り残される。
「ご、ごめん……あんなに血が出てたら、心配にもなるよ……」
「大丈夫。私自身よく分かってないけど……怪我は、もう無いみたい」
澄羽は掛け布団を押しのけ、ゆっくりと身を起こした。
露わになった肌は驚くほど滑らかで、昨夜の傷跡どころか、かすり傷すら存在しない。まるで新しく作り直された身体のようだった。
「それならいいんだけど……やっぱり安心はできないよ」
夜美は声を落とし、眉を寄せて澄羽を見つめる。
澄羽はその視線に耐えられず、唇を噛んだ。
(……早く出てって。そんな嘘、もう通じない)
「それより今日、学校だよね。支度しないと」
唐突な言葉に、夜美は目を丸くした。
「えっ……学校行くの?こんな状態で? 身体のどこか、まだ悪いかもしれないのに」
「……これ以上休んだら進級できなくなるし」
早く一人になるために、そんな理由を口にした。
「……なら、止めないけど。気を付けて。こないだの夜、この辺で爆発があったって話もあるし……」
「うん、分かったから。着替えるから、出て」
しびれを切らせるように言うと、澄羽は夜美を部屋の外へと押し出し、すぐさまドアを閉めた。
「……さっきの時点で、もう着替える余地なんてない姿だったのに。焦ってる……?」
夜美が小さく呟く。壁で隔てられたその背後で―
澄羽は掛け布団をずらした。
視界に入った『それ』を認識した瞬間、胃の奥が反射的にせり上がる。
「……っ!」
そこには、脆く砕けた骨、千切れた肉片、どろりと溶けた組織が、ひと塊にまとまりながら転がっていた。
まるで元の自分の残骸のように。
澄羽は口を押さえたが、吐き気は抑えきれず、膝をついた。
「……最悪……」
呼吸を乱しながら、得体のしれない残骸をかき集め、本棚の漫画で覆い隠す。指先に触れた感触が、いつまでも離れない。
震える手で机を開け、隠していた煙草を取り出す。
火をつけ、ためらいなく深く吸い込んだ。
肺の奥に痛みが走る。それでも、煙の苦味だけが、自分を現実につなぎ止めてくれる気がした。
吸い終えた煙草をゴミ箱に放り込み、鏡の前に立つ。
髪を梳かし、制服に袖を通し――何もかも置き去りにするように、玄関へ向かった。
夜美とも、自分の部屋とも目を合わせたくなくて。
逃げるように、澄羽は家を出た。




