第4話:すれ違う気配
モニターの光が、薄暗い部屋を青白く染めていた。キーボードを叩く音と、低く唸る機械音だけが響く。
壁一面のスクリーンには、昨夜の映像が繰り返し再生されていた――
鋼鉄の獣と、白く光る巨大な影。
「――解析、進んでますか?」
若い技術員が声を落としながら尋ねた。
彼の背後で、年配の分析官が映像を食い入るように見つめている。
「燈朝市でトラックが変質。車体構造が有機金属化していた。過去の事例から見て、宇宙外生命体による乗っ取りと見て間違いないだろうな」
「ですが、問題はそいつを倒した白い存在です」
別の隊員がデータをスクロールしながら言った。
「出現記録、接近センサーともに一致なし。まるで、突然空間に生成されたように現れている」
分析官は腕を組み、静かに頷いた。
「……地球上の存在とは思えんな。もし宇宙外生命体の同族なら、なぜ同族を攻撃する?」
「その点ですが――」
技術員が映像を一時停止させ、天使の姿を拡大した。
「この天使は、他の侵食体とは異なり、元の形を維持しているように見えます。人型を保ったまま、部分的な構造変化だけを起こしている。宇宙外生命体全体で見ても、このような変質制御を行える個体は……五本指に入るかどうか」
「つまり、そいつは――知性体ということか」
「はい。しかも、かなり上位の存在かと」
部屋の空気が一瞬、重くなった。
冷たい蛍光灯の下で、誰も次の言葉を出せない。
やがて、分析官が深く息を吐き、言った。
「……もしそれが人間社会に紛れているのだとしたら、我々は、神を見ているのか、それとも――悪魔を見ているのかもな」
その瞬間、警報が短く鳴り、別のモニターに赤い文字が浮かび上がる。
《侵食波パターンC、燈朝市郊外にて微弱反応》
分析官はモニターを見据えたまま、低く呟いた。
「きっと、次の夜にも…。」
――――――――――――――――――――――
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
その柔らかな光が、床に倒れた少女の体を淡く照らす。
夜美が一階に降りてきた瞬間、息を呑んだ。
「……澄羽っ!?」
玄関前の冷たい廊下の上に、澄羽が倒れていた。
裸のまま、氷のように冷えきった肌。
かすかに胸が上下している――生きている。
夜美は急いで毛布を持ち出し、妹の体を包み込むように抱え上げた。
二階の部屋まで運ぶ途中、その体の軽さに胸が締め付けられた。
「……どうして、こんな……」
真紅の布団に寝かせた澄羽の顔は、まるで別人のように青白い。
額には冷たい汗。唇には血の気がない。
夜美は震える手でタオルを濡らし、額にあてがった。
(熱は……ない。でも、まるで、何かに生命を吸われたみたい)
その時、澄羽のまぶたが、かすかに震えた。
声をかけようとしたが、澄羽の唇はゆっくりと動き、聞き取れないほどの小さな声で何かを呟いた。
「……夢で……私は……」
そのまま澄羽は再び眠りの底へ沈んだ。
夜美はしばらく動けなかった。
胸の奥で、恐怖と哀しみと、どうしようもない確信が渦を巻く。
窓の外では、救急車のサイレンが遠ざかっていく。崩壊した住宅街のニュースは、まだ誰も知らない。
夜美は、静かに澄羽の手を握った。
その指先は、まるで別の何かに触れているかのように、微かに震えていた。
――――――――――――――――――――――
気づけば、夕焼けの時間帯になっていた。
布団の中は、昨日よりも重い。湿った鉄の匂いが鼻を刺す。
隣で夜美が眠っている。澄羽の手を握ったまま。
ゆっくりと反対の手を動かすと、布団がぬるりと動いた。
見るまでもない。赤い。
染みではなく――もはや染まっていた。
布団も、床も、夜美の頬も。
体が痛い。
いや、痛み、という言葉では足りない。
骨の中で、何かが蠢いている。筋が引きちぎれ、張り替えられていく。
外に出た神経が、空気に触れてざらついた感覚を伝えてくる。
息を吐くたび、熱がこもる。
だが、熱の中に冷たさが混じっている。
血が流れているのではない。流れた血が、再び体に吸い戻されているのだ。
「……また、始まったの…?」
右足が微かに震える。
見れば、皮膚が裂け、その奥で白い線が蠢いていた。筋肉の繊維――いや、筋肉の代わりに何かが生まれている。
繊維はまるで生き物のように動き、破れた皮膚を内側から押し上げ、閉じていく。
痛い。
でも、気持ちが悪いのに、どこか懐かしい。
まるで、これが本来の自分であるかのような錯覚。
「……私って……人間……なの……?」
脳裏に記憶が流れる。
瓦礫と化した住宅。
焼け焦げた空気。
獣の咆哮と、爆ぜるような熱風――
そして、自分の足。
血を踏んでいた。
何かに操られるように跳び、裂き、獣を蹴り落としていた。
その衝撃で、建物が崩れ、人影が潰れた。
助けるためだった。
そう思っていた。
なのに、あれは――
「……私が……殺したの?」
頬には涙が伝い、汗と混じって冷たい。
胸の奥がざらつくように痛い。
「……あれは夢……違う……でも……」
両手を見る。
指の隙間には乾いた血がこびりついていた。
「……私……何をしたの……?」
言葉を吐くたびに、喉がひりつく。
罪悪感が、熱のように体中を巡る。
目を閉じても、あの昨日の夜が焼き付いて離れない。
倒れた人の影、見開いたままの瞳、熱で歪む空気。
――ヒーローなんて言葉は、もう使えなかった。
息を吸っても、胸が詰まる。
このまま眠れば、夢のような現実へ引きずり戻される気がした。
逃げ場がない。
体の中にも、心の中にも。
夜美から手を離すと、澄羽は布団を頭まで被った。
しばらくして、血の匂いはまた布団へと染み付いた。
――――――――――――――――――――――
夕焼けの空は、どこか霞んで見えた。
昨日までと同じ街並みのはずなのに、何かがほんの少し、歪んでいるような気がする。
花守美空は、胸の奥のざわめきを抑えながら、澄羽の家へと足を運んでいた。
街の一部はいまだに黄色い規制線で囲まれ、壊れた家屋の瓦礫が山のように積まれている。
あの夜、見たあの存在――白い怪人の姿が頭から離れなかった。
まるで、あれがこの街の空気を変えてしまったかのように感じられた。
(澄羽、無事だよね……?)
角を曲がると、澄羽の家が見えた。
外から見る限り、特に被害はない。
けれど、玄関のあたりにはどこか近寄りがたい空気が漂っていた。
静かすぎる。
まるで、家そのものが呼吸を止めているみたいに。
美空はインターホンの前で立ち止まる。
指を伸ばしかけたが、手が止まった。
視界の端に、乾いた黒い染みが見えた。
玄関のタイルに、雨に滲んだような跡――
けれど、それはどう見ても血の色に近かった。
風が吹き、ポストの中のチラシがカサリと音を立てる。
その音だけが、異様に大きく響いた。
「……やっぱり、また今度にしよ」
美空はかすかに笑ってそう呟くと、踵を返した。
背を向けて歩き出すと同時に、胸の奥に得体の知れない寒気が這い上がる。
見えない誰かに見られている気がして、振り返る勇気は出なかった。
遠ざかる足音を、背後の家が静かに飲み込んでいった。




