第3話:墜ちた光の夢
真夜中の燈朝市。
街灯がぽつりぽつりと並び、世界は眠りに沈んでいた。
その静寂を裂くように、夜空から一筋の白光が落ちてくる。
光は音もなく着地し、ゆっくりと地面を染み込むように溶かしていった。
やがて、住宅街の一角で奇妙な音が響いた。
金属がきしむような、獣の喉が鳴るような、そして人間の呻きにも似た音。
光に触れた一台の無人トラックが、ボディを歪ませながら変形していく。
鉄の外殻は筋肉のように蠢き、ヘッドライトが眼のように光を灯した。その姿は、鋼の獣ようだ。
宇宙外生命体は、無機の器を乗っ取ったのだ。
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世界が眠りに沈む真夜中、澄羽は目を覚ました。
普段の彼女の瞳は光を吸い込む深淵のようだ。だが今、その瞳は深淵すら切り裂くほどの漆黒に染まっていた。
「…………」
澄羽の黒い瞳が、ゆっくりと真紅へと変わる。
その瞬間、肌から色が失われていく。血の気のない白が全身を侵食し、少女の輪郭は次第に人のものではなくなった。
澄羽は無言のまま服を脱ぎ捨て、窓を開け放つ。
夜風が髪をなびかせる中、彼女は迷いなく外へ身を投げた。
常人なら確実に死ぬ高さ。だが、澄羽の身体は羽のように音もなく地に降り立った。
その足元から、異変が始まる。
骨が軋み、筋肉がねじれ、背が伸びていく。
皮膚の下で光が脈打ち、白い肉体が急速に巨大化した。
両腕には刃状の手甲が生え、背中には翼のような突起が四枚形成される。
顔の面影は完全に消え失せ、ただ白き怪人だけがそこに立っていた。
澄羽はゆっくりと頭を上げた。
二階建ての屋根を見下ろすほどの高さ。
その顔面に、深紅の目玉が幾つも開く。ひとつ、ふたつ、やがて十を超え、顔の半分を覆い尽くした。
無数の視線がギョロリと住宅街の一角を見据える。
そこには、ボディを歪めた「トラックだったもの」がいた。
金属の脚をきしませながら、何かを探すように這い回っている。
進行方向には民家が並び、破壊は時間の問題だった。
澄羽は一気に駆け出した。
地面が砕け、突風が吹き荒れる。
一瞬で数百メートルを駆け抜け、跳躍する。
白い残光を引きながら、52メートル上空へと舞い上がった。
眼下には、今まさに住宅街へ踏み込もうとする鋼の獣。
澄羽は空中で身をひねり、どこからともなく双剣を構える。
次の瞬間——静寂が裂けた。
鋼と鋼がぶつかり合う甲高い音が夜を貫く。
閃光が走り、火花が散る。
澄羽の刃が、鋼の獣の外殻を深々と断ち割った。
鋼の獣が咆哮した。
その声は、エンジンの爆音と獣の唸りを混ぜ合わせたような、不快な共鳴だった。
車体の残骸を背負い、四本の金属の脚でアスファルトを抉りながら突進してくる。
足が地を蹴るたびに、火花と油煙が夜気を裂く。
澄羽——いや、白き怪人はその咆哮を真正面から受け止めた。
衝突の瞬間、空気が爆ぜ、衝撃波が周囲の窓ガラスを粉々にする。
その一帯が、まるで爆弾でも落とされたように閃光に包まれた。
だが怪人は、微動だにしなかった。
双剣を交差させ、獣の牙のような金属アームを受け止める。
その刃と刃のぶつかり合いが、深夜の住宅街に雷鳴のように響き渡った。
「ガァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"ァ"——!」
獣が吠える。
その咆哮とともに、トラックの荷台だった部分が開き、中から鋼鉄の腕が何本も伸びる。
まるで意思を持つ触手のように、電線を引きちぎり、壁を粉砕しながら怪人へ襲いかかる。
怪人は地面を蹴り、夜空を駆けた。
翼状の突起が広がり、白光を放ちながら滑空する。
だが、獣は逃さない。
脚部のタイヤが一斉に回転し、アスファルトを引き裂いて追いかけてくる。
そのたびに地面がひび割れ、車のアラームが一斉に鳴り出す。
静まり返った街は、瞬く間に戦場へと変わった。
獣の跳躍が空を裂き、鋼鉄の腕で怪人を叩き落した。
怪人が家屋の屋根に叩きつけられた瞬間、瓦が爆ぜ、木片が散った。
一軒の家が大きく傾き、壁が軋む。
——その家の隣家に、花守美空がいた。
爆音で目を覚まし、咄嗟に布団を跳ねのけて外を見る。
窓の向こうに映ったのは、夢とも現実とも思えぬ光景だった。
「…なに、これ…?」
白い巨影。
翼を持ち、無数の目を持つ異形が、金属獣とぶつかり合っている。
美空の喉が震えた。生物としての本能的な恐怖を感じていたのだ。
怪人の眼が獣を捕らえた。
紅い視線が獣の中心を貫いた瞬間、澄羽の四枚の突起がバサリと開き、強烈な風を巻き起こす。
そのまま突進。
衝撃。
獣の巨体が持ち上がった。鉄骨の軋む音が夜気を裂く。
怪人は獣の顎を蹴り上げ、空へと放り投げた。
トラックだった残骸が空中で回転し、無数の火花を撒き散らす。
跳躍――。
怪人の脚が地面を抉る。砕けたアスファルトが弾丸のように四方へ飛散した。
白き天使の躯が、黒い夜空を裂いて舞い上がる。
瞬間、獣と怪人の位置が逆転した。
月を背にしたその姿は、まさしく「堕ちた神」そのものだった。
怪人は身体をひねり、脚を高く振り上げる。
足裏に紅蓮の光が集束していく。
空気が爆ぜる。
そして――
「――――堕ちろ」
怪人の踵が獣の胸を直撃する。
閃光。
怪人は獣に一撃を与えたまま地へ堕ちた。
両者は地表へ到達する。音よりも先に、圧力の波が住宅街を呑み込んだ。
瓦礫が吹き飛び、炎が夜を染め上げる。
やがて、崩れ落ちた鉄と肉の塊は光を失い、動きを止めた。
爆音の余韻が、街の奥へと吸い込まれていく。
燃え落ちた家々の間で、炎の色だけが夜を支配していた。
「……っ……なに……これ……」
瓦礫の隙間から、花守美空は這い出した。
眠っていた寝室が一瞬で崩壊し、気づけば夜空が見えている。
頬には粉塵、掌には血。けれど痛みを感じる余裕もなかった。
その視線の先――燃える瓦礫の中心に、それは立っていた。
白。
けれど清らかさではなく、存在そのものがノイズのように白い。
形容しがたい異形。
無数の紅い眼が、まるで美空を「見ているようで見ていない」。
足元には、鉄と肉が溶けた残骸が散らばっていた。
「……天……使……?」
美空の口から、震える声が漏れる。
記憶が揺らぐ。あの夜、光の柱の中に降り立った天使。
優雅で、美しかった。
それが今――その同じ光が、ただのおぞましさとして目の前にある。
光のはずの存在が、影を撒き散らしている。
美空は息を呑み、後ずさった。
瓦礫を踏む音が夜に響く。
その瞬間、天使の顔面――いや、眼球の群れがギョロリと美空を見た。
何も発していないのに、頭の中に轟音が響く。
「近づくな」という命令にも似た圧力。
足が竦む。声が出ない。
燃える空気の中で、彼女はただ立ち尽くした。
やがて怪人は足を引きずりながら、夜の闇へと消えていった。
その光景を、美空は呆然と見つめていた。
心臓の鼓動だけが現実を刻む。
あれは本当に、天使なのか――
それとも、何か別の災厄なのか。
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耳鳴りのような残響だけが、頭の奥で膨らんでいる。
身体の芯が異常なほどに重い。
まるで体内に鉛を流し込まれたような、息苦しい倦怠感がまとわりつく。
立ってるだけで世界がゆっくりと傾いていく。
焦げた匂い。
瓦礫の向こうに、まだ微かに燃える赤。
――どこかで見た夕焼けみたい。
歩いても歩いても、家に辿り着けない気がした。
それでも、足だけが勝手に前へ進む。
何かに導かれるように。
……気持ち悪い……
吐息とともに、胃の奥からこみ上げる違和感。
扉をなんとか開け、床に倒れ込む。
冷たいフローリングの感触が、現実のようだった。
……これ、夢じゃない……よね。




