第2話:日常に射す影
『昨夜未明、燈朝市上空にて、未確認の光体が複数観測されました。国際宇宙外生命体対策機構〈A.E.O.I.〉は先ほど、宇宙外生命体による攻撃の可能性が高いと発表しています。
現在までに市民の死傷者は確認されておらず、迅速な迎撃により事態は終息したとのことです。詳しい情報が入り次第、改めてお伝えします』
淡々としたアナウンスがリビングに響く。
白鷺夜美は、食い入るように画面を見つめていた。
指先が、無意識に震えている。
その時――階段を踏む軽い音。
夜美の肩がぴくりと跳ねた。
「澄羽、おはよう」
「……おはよう、お姉ちゃん」
「朝ごはん、何か食べる? 用意するよ」
「いいよ、自分でできるし」
澄羽は視線を合わせないまま、トースターへ向かう。
その動きはぎこちなく、落ち着きがない。
(大丈夫……だよね? 今のところは……)
その時、ニュースの音量が不意に上がったように感じた。
『また、一部映像では、光体に立ち向かう白い影が確認されています。
〈A.E.O.I.〉はこの影を、危険性のある未知存在として警戒を強めています。
住民の間では天使を見たという証言も――』
澄羽の指が、トースターの上で止まった。
ほんの数秒の静止。その瞬きにも似た違和感を、夜美は見逃さない。
「……澄羽」
慎重に測るような声。
澄羽はゆっくりと顔を向けた。
「昨日の夜……どこかに行ってないよね?」
その問いが落ちた瞬間、空気がきしむ。
澄羽はほんの一拍、視線の行き場に迷った後――目をそらした。
「ちゃんと寝てたよ」
言葉より早く、拒絶の仕草が滲む。
トースターの加熱音が、焦げつくように部屋の静けさを埋めた。
「なら、いいんだけど……。体調は? まだどこか痛むとか、ない?」
夜美の声音は柔らかいのに、逃げ場を塞ぐ網のようだった。
「……平気だよ。学校、行くから」
学校へ――その言葉に、夜美の肩がわずかに強張る。
離れられることへの不安が、抑えきれず滲んでいた。
「行けそうなの? 本当に大丈夫?」
「うん。このままだと単位落としちゃうし」
夜美は、躊躇いがちに言葉をつなぐ。
「無理は、しないでね。何かあったら……ちゃんと私に言って」
澄羽は答えない。
返事をすれば、嘘がバレるかもしれない。
(……お姉ちゃん、気づいてる?)
トーストが焼き上がる。
澄羽はその半分を流し込むと、席を立つ勢いでカバンを掴んだ。
「いってきます」
リビングのドアの閉まる音だけが、曖昧な嘘を家に残した。
――――――――――――――――――――――
澄羽は靴ひもを結ぶ手を、一度きつく握りしめてから立ち上がった。
玄関を出ると、朝の空気が素肌にひやりと触れる。
通学路には穏やかな朝が広がっているはずなのに、何かが決定的に違って見えた。
昨夜のニュースが、まだ頭の片隅でざらついている。
未確認の光体、天使の影。
視界の端で、通り過ぎた生徒たちが小さくざわめいた。
——自分のことではない。
そう思い込みたいのに、胸の奥が重く沈む。
学校へ行かなければ、また夜美に心配をかける。
また、あれこれ聞かれる。
だから、とにかく前へ進むしかない。
歩幅は自然と狭くなり、足元ばかりを見つめてしまう。
背後から来る自転車の気配に肩が竦む。
どれも、普段と変わらないはずの音なのに、
澄羽にはひどく騒がしい雑音に感じられた。
校舎が見えた瞬間、呼吸が一段と浅くなる。
あそこに踏み入れば、また
「普通」であるふりをしないといけない。
大きな門を前に、澄羽は一瞬だけ立ち止まった。
けれど逃げ場はない。
ゆっくりと、足を踏み入れた。
教室の引き戸を開けた瞬間、空気が止まった。
ざわついていた声が、一拍遅れて小さくしぼむ。
「……あれ、白鷺じゃん」
「休んでたの、いつからだっけ……?」
視線が一斉に刺さってくる。
心配でも興味でもなく、ただ遠巻きに観察するような目。
澄羽は、何も聞こえないふりで席へ向かった。
椅子を引くと、横の席の女子が少し身じろぎをした。
そのわずかな距離の変化すら、澄羽の胸に重くのしかかる。
――また、居場所がなくなる。
チャイムまでの沈黙が永遠に続くかのように思えた時、
ぽん、と肩を軽く叩く指先。
「澄羽!おはよー!来たんだね!」
クラスの視線が一斉にそちらに向く。
声をかけてきたのは、同じ中学からのクラスメイト、花守美空だ。
美空だけは、距離を詰めてくる勇気のある数少ない存在だった。
「今日の朝、ニュース見た?」
明るい話題を選んだつもりなのだろう。
彼女は続ける。
「なんか、光?が降ってきて、それと戦ってる天使みたいなのがいたって!この街での話なんだってさ!」
周囲でもひそひそと同じ話題が囁かれる。
「天使」――その言葉に、澄羽は呼吸を乱しそうになる。
胸の奥がひどくざわつく。
昨夜の、砕け散る閃光の残像が瞬く。
「……ただの噂、じゃないかな」
そう返す声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
美空は一瞬たじろいだが、すぐに笑みを戻した。
「だよね!映画とかの見すぎだよね〜!」
無邪気な笑顔が痛かった。
知らないから、笑える。
澄羽は、机の下で握った拳が震えているのを、
必死に隠した。
――きっと、天使なんかじゃない。
自分が知っているのは、もっと……。
視線は教室の床へ落ちていく。
「話したいこといろいろあるんだ〜!あ…そろそろ席戻らないと、また後でね!澄羽!」
美空が席に戻ったあとも、澄羽の胸の奥では小さなざわめきが残っていた。
誰かに優しくされたのは、いつぶりだろう。
そんなことを考えていると、教室のドアが開き、担任の真田が入ってきた。
「よし、みんな席につけー。今日はホームルームの前に、少し話しておきたいことがある」
ざわついていた教室が静まり返る。真田は手元の端末を操作し、黒板に映像を投影した。
夜空を横切る幾筋もの光の線——隕石のようにも見えるが、誰もがそれが違うことを知っている。
「最近ニュースでも見ていると思うが……地球人と宇宙外生命体との戦闘が、日に日に激化している」
真田の声は淡々としていたが、その奥にかすかな緊張がにじむ。
「やつらは光のように降ってくる。だが、我々の領域——つまり地球圏の外側では、ほとんど迎撃できている。……ただ、昨夜のように光が地上に到達することもある」
教室の空気がわずかに重くなる。
昨夜、澄羽の町でも見えた光——それを見た者たちは、みな黙っていた。誰も、あれが何だったのかを口にできなかったのだ。
「みんなも警戒を怠らないように。もし光を見かけたら、絶対に近づくな。いいな?」
真田は強調するように言葉を区切った。
クラスメイトたちは小声で何かを囁き合う。
「またかよ……」「地球終わってんな」「宇宙外生命体とか、ほんとにいるのかよ」
ざわつく声の中で、澄羽だけは無言だった。
——昨夜の光を、誰よりも近くで見た気がする。
そんな確信めいた違和感が、胸の奥で静かに膨らんでいった。
――――――――――――――――――――――
1日の流れは驚くほど早く、気づけば放課後になっていた。
窓の外には茜色の空が広がり、校舎の廊下を柔らかな光が包み込んでいる。
「澄羽にとっては久しぶりの学校だったんじゃない? 大変じゃなかった?」
「ううん。美空のノートのおかげで助かったよ。ありがとう」
二人は窓際を歩きながら、他愛もない言葉を交わす。
ガラス越しに射し込む夕陽が、美空の髪を金色に照らしていた。
「困ったことがあったら、遠慮せずに言ってね。私たち、友達でしょ?」
「……友達、か」
澄羽にとって、美空の笑顔はあまりにも眩しかった。
長く閉ざされていた心に、ようやく一筋の光が差し込んだ気がした。
「それじゃあ澄羽、また明日ね!」
「うん。美空も部活、頑張って」
手を振り合うと、美空は軽やかな足取りで校庭へと向かっていった。
澄羽はその背中を見送りながら、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。
校門を出ると、夕暮れはすでに夜の色を帯び始めていた。
街路樹の隙間から見える空には、まだ薄く残る茜が漂っている。
澄羽は通学鞄を抱え、静かな住宅街を歩いていた。
「……なんで、だろう」
帰り道を進むほどに、心がざわついていく。
昨日――眠りにつく前に見た、あのまばゆい光の残像。
あれは夢だったのか、それとも。
ふと足を止めると、道の先に小さな立入禁止の標識が見えた。
昨夜のニュースで映っていた、光が落ちた場所だ。
住宅街の外れ、焼け焦げたアスファルトの匂いがまだ残っている。
足が勝手に、そちらへ向かっていた。
理屈ではなく、何かに導かれるように。
風が吹き抜け、髪が揺れた。
耳の奥で、微かに声のようなノイズが響いた気がした。
――□□□。
思わず振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
ただ、沈みきる夕陽が街を赤く染めていた。
――――――――――――――――――――――
夜の帳が降りるころ、澄羽はようやく家の門をくぐった。
玄関を開けると、リビングからテレビの光が漏れていた。
淡い照明の中、夜美が椅子に座り、静かに画面を見つめている。
「おかえり、澄羽。遅かったね」
「……ちょっと、寄り道してた」
澄羽は鞄をソファに置き、靴下のまま台所に向かった。
夜美の視線が背中に刺さるように感じた。
冷蔵庫を開け、冷たい水を一口飲む。喉を通るたびに、現実へ引き戻されるような気がした。
「学校はどうだった?」
「別に……。普通だったよ」
「そう。なら良かった」
短い沈黙が訪れる。
テレビのニュースキャスターが、硬い声で告げた。
『先日、燈朝市で観測された未確認光体について、〈A.E.O.I.〉は改めて宇宙外生命体による攻撃と断定しました。地表付近に残された痕跡からは――』
澄羽はその言葉に思わず顔を上げた。
夜美も、同じタイミングでリモコンを手に取り、音量を下げた。
「澄羽。昨日の夜……本当に、何も見てないんだよね?」
「……うん」
短い返答のあと、澄羽は俯いた。
彼女の瞳に、ほんの一瞬、夕方に見た焼けたアスファルトがよぎった。
夜美は立ち上がり、澄羽の頭を軽く撫でる。
「心配しすぎかな。……お風呂、もう沸いてるから先に入っておいで」
澄羽は小さく頷き、廊下を歩いていく。
足音が階段の奥に消えると、夜美は静かに息を吐いた。
その瞳には、報道映像の白い閃光が映り込んでいた。
「……そう、あれが…」
呟きは、誰に届くこともなくテレビのノイズに溶けていった。
――そして、燈朝の夜が静かに更けていく。




