第11話:侵食する夜
夜は、音もなく町を覆っていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の壁に淡く揺れている。
それは街灯の明かりではなかった。
もっと不自然で、もっと遠い場所から来る光だった。
澄羽は、布団に横たわったまま、それを見ていた。
空に浮かぶ淡い輝き。
雲の向こうで瞬くそれは、まるで星が地上に降りてきたかのようにも見える。
けれど、胸の奥がざわつく。
——あれは、綺麗なものじゃない。
行かなければ。
その言葉は、どこにも浮かばなかった。
代わりに浮かんだのは、先日の光景だ。
理解できない声。
変わり果てた姿。
自分の手で終わらせてしまったという、揺るぎようのない事実。
澄羽は、拳を握りしめる。
——もし、また。
その先を考える前に、視線を逸らした。
考えてはいけない。
考えれば、きっと足が動いてしまう。
そして、その先で何が起こるかを、澄羽は知っている。
だから、動かなかった。
動かないまま、やがて澄羽の意識は世界と隔たれた。
町の上空に、淡い光が現れていた。
それは一つではなく、点在するように、あるいは連なりながら、空を漂っている。
人々は最初、それを「珍しい現象」だと受け取った。
写真を撮り、動画を回し、言葉を並べる。
だが、時間が経つにつれて、違和感は確信へと変わっていく。
光の下で、動物が怯え始める。
機械が誤作動を起こす。
そして、夜の闇の中で、「何か」が形を持ち始めた。
同じ頃。
都心でも、地方でも。
同じように、空が静かに、しかし確実に侵されていた。
これは、ひとつの町の出来事ではない。
世界のあちこちで、同時に起きている現象だった。
深夜の空港で、計器が一斉に警告音を発する。
管制官は原因を特定できないまま、通信のやり直しを指示する。
海上では、航行中の船が磁気異常を報告した。
コンパスがわずかに狂い、波のない海で船体が軋む。
山間部では、星空観測をしていた天文台が、不規則な光の分布を記録する。
既存のデータベースには、該当する現象が存在しなかった。
誰もが「何かおかしい」と感じていた。
だが、それが同じ原因によるものだと気づく者は、まだいない。
無機質な通路に、規則正しい足音が反響していた。
白色灯に照らされたA.E.O.I.施設の内部を、司令官と玲司は並んで歩いている。
「――ここが物理専門部門だ。君の特性に最も適しているだろう」
司令官がそう告げた、その直後だった。
「司令官!」
通路の奥から、やや切迫した声が飛んでくる。
駆け寄ってきた職員は、手元の端末を握りしめたまま、息を整える余裕もなく報告を始めた。
「市街地上空で観測されている発光現象ですが、光量が急激に増加しています。増加率は先ほどまでの予測を大きく上回っています」
司令官の歩みが、ぴたりと止まる。
玲司もその表情の変化に気づき、思わず息を呑んだ。
「原因は?」
「現在解析中ですが……時系列的に、最近確認された天使の出現パターンと一致しています」
一瞬、通路の空気が張り詰めた。
「……各部門に警戒レベルを引き上げさせろ。観測班は映像と数値をリアルタイムで統合。戦術班は即応体制に入れ」
「了解!」
職員は即座に踵を返し、走り去っていく。
司令官は玲司の方へと視線を向けた。
「予定を変更する。先に状況を確認する」
「……分かりました」
短い応答の後、二人は進路を変え、モニター室の方向へと向かった。
モニター室に足を踏み入れた瞬間、情報の波が押し寄せた。
壁一面に並ぶスクリーンには、各地の夜空が映し出されている。
座標、光量、出現時間。
数値が更新されるたび、表示が微かに色を変えた。
「こんな短時間で……」
誰かの声が、かすかに漏れる。
解析班の職員たちは、端末に視線を落としたまま、必死に指を動かしていた。
だが、追いついていない。
増え続ける光に、計算が遅れている。
玲司は、無言でモニターを見つめていた。
映像の中で揺らぐ淡い輝きが、胸の奥をざわつかせる。
理由は分からない。
ただ、直感だけが告げていた。
——これは、まだ始まりに過ぎない。
能力系部門へと続く廊下は、白く、静かだった。
足音だけが、規則正しく反響している。
「最近、上空に現れる光の数が明らかに増えている」
通路の向こうから、職員たちの会話が聞こえてきた。
「融合体の発生率も比例してる。……例の天使と、無関係とは思えませんね」
その言葉を、ローゼは歩きながら聞き流すように受け止めていた。
ほんの一瞬だけ、口元が緩む。
「……ようやく、尻尾を見せたのね」
小さく、独り言のような呟きだった。
「え?」
隣を歩いていた燈莉が、思わず足を止める。
ローゼを見て、不思議そうに首を傾げた。
「今、何か——」
「いいえ」
ローゼはすぐに表情を戻し、いつもの柔らかな声で答えた。
「ただの独り言よ。気にしないで」
再び歩き出す二人の背後で、
施設のモニターには、各地に出現した光の座標が次々と表示されていく。
施設内の空気が、わずかに変わっていた。
照明の明るさは同じはずなのに、影が濃く感じられる。
すれ違う職員たちの足取りは早く、会話は短い。
端末を操作する指先が、どこか強張っている。
視線は自然とモニターの方向へ向かい、そしてすぐに逸らされる。
誰もが口にはしない。
だが、全員が理解していた。
——通常ではない。
その静かな緊張の中を、ローゼと燈莉は歩いていた。




