第0話・前編:外宇宙
私は、私という境界を持たない。
私は流れであり、構造であり、是正の方向だ。
だが、この身体は違う。
この心臓の鼓動は、必要ない。
この恐怖は、不要だ。
——それでも、切り離せない。
この少女が死ねば、私も終わる。
それは任務上の問題ではない。
理由を、私は理解している。
理解してしまったこと自体が、致命的だ。
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宇宙の大きさを語るとき、人は言語を使う。
単一宇宙だとか、多元宇宙だとか、無限や絶対無限といった言葉で、それを把握した気になる。
だが、それらはすべて――内側の話だ。
外宇宙は、数で測れない。
否、数という概念そのものが、意味を失う領域だ。
巨大基数や絶対無限を越え、さらにその先にある論理超越を想定し、それを掛け算のように重ね、さらに重ね、無限に反復してなお、ようやく塵一つを示せるかどうか。
その程度の広がりすら、外宇宙の全体ではない。
そこには距離も、時間も、方向も、確かな境界も存在しない。
存在しているのは、在るという事実だけだ。
外宇宙に秩序はない。
少なくとも、人間が秩序と呼ぶものはない。
皇帝は存在する。
一族の長も、支配者も、意思を持つ存在も確かにいる。
だがそれらは、社会を形成するための秩序ではなく、ただ力の偏りとして自然に生じているに過ぎない。
それは王国ではなく、群生だ。
文明ではなく、蠢動だ。
そして――神はいる。
人類が神話として名付けた存在は空想ではない。
外宇宙においては、現象であり、摂理であり、畏怖そのものだ。
彼らは支配しない。
裁かない。
だが、そこに在るだけで、意味を歪める。
外宇宙とは、そういう場所だ。
外宇宙には、流れるという概念すら曖昧だった。
それでもネヴ=ソスは「漂っている」としか言いようのない状態で、そこに在った。
数や大きさで語られる宇宙の尺度は、ここでは意味を持たない。
絶対無限も、論理も、重ねられる前提ごと擦り切れて消えていく。
存在は広がるのではなく、重なり合い、歪み合い、互いを否定しながら同時に成立していた。
ネヴ=ソスはその只中に身を置きながら、何かに触れているという感覚だけを、かろうじて自覚していた。
次期皇帝。
そう呼ばれる地位が、自身に付随していることは理解している。
外宇宙において皇帝とは、秩序を統べる者ではない。
むしろ、混沌が臨界を越えないよう「在り続ける」ための楔に近い存在だ。
学ぶべき儀式も、継ぐべき思考体系も、無数に用意されていることを、ネヴ=ソスは知っている。
だが、彼はそれらから意識的に距離を取っていた。
特に、戦うことだけは、生まれた瞬間から理解していた。
外宇宙の存在たちは、争うときに「技」を用いない。
思考を折り、概念を潰し、存在条件そのものを否定する。そこに型はなく、構えもなく、ましてや武器という発想すら希薄だった。
しかし、ネヴ=ソスだけは違っていた。
彼の戦闘知識は、あまりにも整いすぎている。
間合い、重心、踏み込み、斬撃の軌道。攻撃と防御を分離せず、連続した動作として組み上げる発想。
それらは、外宇宙の論理から見れば不自然なほど「内宇宙的」だった。
剣を振るう感覚。
両手に異なる重みを感じ、世界を切り分ける動作。
それは思考ではなく、反射に近い。教えられたものではなく、捨てきれなかったものだ。
外宇宙の存在としては歪だと理解していながら、ネヴ=ソスはその戦い方を手放さない。
なぜなら、それだけが――
かつて自分が「何であったか」を、確かに示してくれるからだ。
だから彼は漂い続ける。
皇帝となるための学習から距離を取り、外宇宙の流れに身を委ねながら、二つの刃の感覚だけを失わぬように。
――そのとき。
「……また、学びから逃げているの?」
声は、空間を震わせなかった。
時間も、因果も、媒介にしない。
それでもネヴ=ソスは、その声を妹のものだと理解した。
「逃げているわけじゃない」
ネヴ=ソスは答える。
声を発したのか、思考を流したのか、自分でも区別はつかない。
「必要だと思えないだけだ」
外宇宙の歪みが、ゆっくりと収束する。
そこに形が生まれた。
否、形ではない。
形を取っているように見える理解の焦点。
ネヴ=ソティア=ルゥは、そこに在った。
「それが、次期皇帝の言葉?」
冷ややかだが、拒絶ではない。
責めるでもなく、諭すでもない。
「兄上は生まれながらにして戦を知っている。それは事実。でも――」
ネヴ=ソティア=ルゥの存在が、わずかに位相を変える。
それだけで、外宇宙の一部が沈黙した。
「皇帝に必要なのは、戦いだけじゃないわ」
「知っている」
ネヴ=ソスは即答した。
「知っているから、嫌なんだ」
一瞬、ソティア=ルゥの波動が揺れる。
それは驚きに近いものだった。
「……あなたは、本当に変わっている」
「皆そう言う」
「内宇宙の存在だったから?」
その言葉に、ネヴ=ソスは否定も肯定もしなかった。
ただ、漂う向きを変える。
「剣を振るうことに、理由はいらない。敵を斬ることに、思想はいらない。でも、支配するには……意味が必要だ」
「だから、拒むの?」
「だから、任せたい。お前の方が、皇帝に向いている」
ネヴ=ソスはそう言った。
それは譲位の言葉ではなかった。
予言でも、願いでもない。
ただの事実認識だった。
「……兄上」
「私は、違う」
それだけを残して、
ネヴ=ソスは再び外宇宙の流れへと身を投じた。
ネヴ=ソスはそのまま、思考とも睡眠ともつかぬ状態で虚空に身を委ねていた。
皇位を継ぐための教養も、外なる神々への賛美も、彼の意識には浮かばない。
ただ、双剣の軌跡だけが、静かに脳裏を巡っていた。
そのとき、わずかな振動が外宇宙を掠めた。
――声だ。
近くで漂っていた幾体かの宇宙外生命体が、互いに思念を交わしている。
《また内側が騒がしいな》
《内宇宙の、さらに内だ》
《星の名は……地球、と》
その名を聞いた瞬間、ネヴ=ソスの意識が微かに揺れた。
《人間という種族が、勢力を広げているらしい》
《文明を喰い、領域を奪い、銀河を越えている》
《どうせ淘汰される》
《だが、何かが妙だ》
嘲るような思念が交わされる中で、ただ一つだけ、引っかかる言葉があった。
――内宇宙の存在が、宇宙を支配する。
ネヴ=ソスは、初めて虚空の向こうを見た。
外宇宙ではない。
内側へ。
まだ名も知らぬ、小さな世界へ。
その時だった。
外宇宙そのものが、わずかに歪む。
背後でも前方でもない、思考の内側に、何かが触れた。
名を呼ばれることはなかった。
問いかけも、命令もない。
ただ、視界が裂けた。
ネヴ=ソスは、夢を見た。
青い球体。
薄い膜のような空気に包まれ、脆く、しかし異様に騒がしい世界。
無数の光が地球の周り、そして宇宙を走り、無数の意志が衝突し、殺し合い、支配し合っている。
――人間。
その名を、誰かが教えたわけではない。
だが理解できた。
彼らは内宇宙の存在でありながら、
内宇宙に留まることを拒んだ種族だった。
星を喰い、文明を踏み潰し、「宇宙」という言葉を自分たちのものに変えていく。
ネヴ=ソスは、初めて心臓に近い場所がざわめくのを感じた。
嫌悪でも、恐怖でもない。
――興味だ。
次の瞬間、夢の中で、何かが彼の背後に立った。
姿は見えない。
輪郭も、質量もない。
だが確かに、這い寄ってきていた。
「……行け、とは言わない」
声は直接、思考に流れ込んできた。
「だが、お前はもう見た」
その言葉と同時に、夢が終わる。
外宇宙に、再び静寂が戻る。
ネヴ=ソスは、漂ったまま動かない。
だが先ほどまで無意味だった外宇宙が、ほんの僅かに――狭く感じられた。
「内宇宙に……星…」
誰に聞かせるでもなく、彼はそう呟いた。
そして、まだ知らぬ未来へと、双剣の在り処を、無意識に思い描いていた。
「……兄上?」
外宇宙の流れを裂くようにして現れたネヴ=ソティア=ルゥは、その場に留まるネヴ=ソスを見つめ、不確かな呼びかけを放った。
「名を持たぬ場所がある」
ネヴ=ソスは振り返らず、遠く、境界の歪みを見据えたまま答える。
「そこから、視線を向けられている気がした」
ネヴ=ソティア=ルゥは何かを言いかけ、しかし言葉を失った。
外宇宙の流れが、微かに逆巻く。
ネヴ=ソスはその流れに身を委ねることなく、
意志だけで逆らい、境界へと歩みを進めた。
ネヴ=ソスは振り返らなかった。
彼は境界へと身を沈めた。
外宇宙は、そこで終わった。
それが全ての始まりになるとは知らずに。




