5 あぶくの狂宴
お腹が空いた。
私は食卓一面に並んだ彩り豊かな料理をパクパクと口に運ぶ。
ああ、どれも美味しい。少しだけ満たされるけど、まだまだ足りない。
お箸で掴むのも面倒になって、素手で鷲掴んで口に運ぶ。
はしたない行為だけど、構っていられないほど早くお腹を満たしたくて仕方ないのだ。
食卓に並んだ料理をあっという間に平らげてしまう。
足りない。もっと何か食べたくて、食い散らかされた食卓を後にして、食べ物を探して歩き回る。
そもそもここがどこなのかわからない。家具のようなものがあるからどこかの家だと思うけど、家具以外は何も見えない真っ暗な場所だった。でも不思議と暗いとは感じない。
棚の中、水々しいリンゴを見つけた。
箪笥の中、甘いケーキを見つけた。
井戸の中、甘酸っぱいジュースで満たされていたから底が見えるまで飲み干した。
たくさん口に運んでいるはずなのに空腹も喉の渇きも治ることはなくて、むしろひもじくなる一方だった。
空腹に耐えきれなくなって、その場にうずくまる。過ぎた空腹は拷問のように苦痛に感じると初めて知った。
辛い、苦しい……こんなの、知らない。私じゃない。そうだ、夢だ。だってどれもおかしいもの。気づいてしまえば、目の前の光景はマジックの種明かしみたいにちっぽけなものへと変わっていた。
気だるさの残る身体を起こすと、目に当てていた濡れ手拭いが、顔から滑って布団の上に落ちた。
昨日不覚にも泣いてしまって、目が腫れていたのを気遣ってか、夜に桜が持ってきたのだ。
両親や兄にも心配されて誤魔化すのが大変だった。
窓の外を見ると薄暗くて、まだ早朝の時間帯だと気づく。
でももう一度眠ろうという気にならないほど、先ほど見た夢は不気味だった。
お腹を抑えるけど、少し空腹を感じる程度だ。夢で見たような苦痛を感じるほどの空腹感はない。
どうしてあんなにも食に執着した夢を見たんだろう。食べるのは好きだけど、食いしん坊ってほどじゃないのに。
……もしかして、九尾の狐に関係しているのだろうか。
顔を洗おうと、手拭いを持って立ち上がって、部屋を出る。
家の中はしんとしているけど、わずかに人が動く気配がある。父や兄はこの時間から働き出しているから、使用人も何人か起きているのかもしれない。
台所へ行くと、朝食の準備をしている小町の姿があった。
小柄な体であちこち動き回る姿は、見ているだけで元気になるほど可愛い。
「桔梗様?おはようございます、今日は早起きですね」
「おはよう、ちょっと目が覚めちゃって」
水甕に桶を入れて水を掬う。桶を流し台に置いて、そこから手で水を掬って顔を洗う。
台所の高さは母に合わせて作られていて、私では少し身長が足りないため、小町が使っている踏み台を使わせてもらっている。
この時代には水道も徐々に普及し始めているけど、井戸から水を運ぶことが使用人の仕事という考えが根付いているため、家の中の水回りはまだ水甕に頼っている状況らしい。
境内の手水は筧をかけて自動で水が満たされる仕組みをしているから、やろうと思えば楽にできると思うのだけど、そういうところで働き者かどうか見定めているのかもしれない。
個人的には水道の方がやっぱり便利だし、小町たちの負担を思えば早く導入してほしいと思う。
手拭いで顔を拭き、ついでに桶の水を入れ替えて、手拭いも水に浸して洗う。
一応ちゃんと洗って乾かしてから返さないと失礼だものね。
「あ、その手拭いは昨日桜に渡したものですね」
私が手にしている手拭いを見て、小町が気づいたように声を上げる。
「そうなの?」
「1番肌触りの良いものを、と言われたので不思議に思っていたのですが、桔梗様のためだったのですね」
小町は納得したように微笑み、「干しておきますよ」と言って手拭いを預かってくれた。
「……小町は、桜をどう思う?」
「とても真面目で働き者と思います。力仕事もできるので、つい色々頼ってしまっています」
小町は小さな指で頬を掻いて苦笑する。
まだ1日しか経っていないのに、あの子は小町の好感度も順調に上げているようね。
「桔梗様、ちょうどお味噌汁ができたので、お食べになりますか?」
小町が竈の上で温めていた土鍋の蓋を開けると、湯気と一緒に優しい香りが漂って、お腹が鳴りそうになる。
我が家は家族集まって食べるのが習慣だから、朝ごはんの時間にはまだ早い。私の様子を見て、小町が急いで作ってくれたのかもしれない。
「ありがとう、いただくわ」
お味噌汁はとても美味しくて、その一杯だけで十分満たされた。
早朝の境内は、とても空気が澄んでいた。しんと張り詰めた静けさが心地いい。
習慣の本殿への参拝をしようとすると、本殿の床を拭いている兄・白木院風見の姿を見つける。
華族といえど、神職。最上位に神様がいるため、身分関係なく清掃を行うのが我が家の掟だ。
「兄様、おはよう」
「あれ、早いね。おはよう」
襷掛けをした兄様は家族フィルターなしでも涼やかな美少年だ。
兄様も珍しい白蛇の種族で、白金に輝く髪がとても眩しい。金色の瞳は神々しくて、細く吊り上がった眦は艶がある。
参拝に訪れるご婦人方にもファンが多いと聞くし、攻略対象じゃないのが不思議なほどだ。
「どうしたの?また具合悪くなった?」
「え?」
兄様は掃除の手を止め、濡れ縁に腰掛けて、その隣に座るよう手招きした。
釣られて兄様の隣に座るけど、掃除の途中だったことを思い出す。
「ごめんなさい、忙しいのに」
「いいよ、ちょうど休もうと思ってたから。それより寝間着のままでどうしたの?」
言われて自分が浴衣のままだったことに気づく。
いつもは境内でも、外出する時は最低限身だしなみを整えるから、不審に思われても仕方ない。
話そうか話すまいか悩んだけど、兄様を前にするとつい甘えたい心が芽生える。
「……ちょっと変な夢を見たの」
「どんな夢?」
「なんていうか、食欲に際限がなくなって、食べても食べてもお腹がいっぱいにならないの……」
「………桔梗はその夢を見て、怖いと思った?」
兄様の言葉に、俯く。
怖い?そう訊かれると、確かに恐怖を感じていたかもしれない。
救いが欲しくなるほどの地獄だったかもしれない。
「何が1番怖かった?太ること?手が止まらないこと?」
「……私じゃないみたいだった、こと」
膝を抱えて蹲る。自分じゃ制御できない欲望に飲み込まれているようだった。
兄様は私の肩を抱き寄せて、優しく頭を撫でてくれる。
「夢で見たような自分にはなりたくない?」
「うん」
「そっか。……実は僕は蛇の特性で、食べ物を丸呑みしてしまう癖があるんだけど、そうするとつい食べ過ぎてしまうんだよね」
「そうなの?」
兄様は普段一緒に食べている時、ちゃんと咀嚼しているようだったから驚く。
「行儀が悪いって母さんにも言われてさ。だから、食べる時はなるべく人前だけにしているんだ」
「人前以外では食べないの?」
「うん、そうしたら無意識に丸呑みすることは無くなったからね」
そんな方法があるのかと、目から鱗が落ちるようだった。
「だから桔梗が、夢みたいになってしまうんじゃないかって心配なら、食べるときは誰かと一緒にする、って心がけたらいいんじゃないかな。見られていると思ったら気をつけることができるし、もし食べ過ぎていたら止めてくれるだろうからね」
兄様の言葉に心が軽くなるのを感じる。
私はあの夢に、自分が思う以上に参っていたのかもしれない。
夢の景色を思い出す。
食卓一面に並んだ彩り豊かな料理。それにお箸をつける前に、食卓の向かいに誰かいるのを想像する。……出てきたのが何故か桜だったのは気に食わないけど、この際まあいい。
食事に手をつけると、やっぱり止まらなくなる。
スープを飲み干して、次の料理へ手を伸ばそうとしたら、その手首を掴まれた。桜の表情は昨日見せた痛切なものだった。
「風見!またサボってないで、そろそろ朝拝が始まるぞ」
ビクリと顔を上げる。いつの間にか兄様に寄りかかって、うたた寝してしまっていたらしい。
「はいはい、行くよ」
兄様は呼びかけの声に、気だるげにそう返してため息を吐いた。
「ごめん、起こしたね。あいつ声大きいんだ」
「いえ、私こそ、寝てしまって」
「いいって。寝不足だったみたいだし、またいつでもおいで」
兄様は私の額にキスをすると、立ち上がって同僚の元へと向かった。
私は額に手を当て、しばらくの間フリーズした。
もしかして我が兄、なかなかのスケコマシかもしれない。
あと「またサボって」って、兄様よくサボってるんですか?