幼馴染が屋敷に居座っている、の逆
御者の手を借りて馬車から降りた令嬢に若きフィース子爵ことアレス・フィースは言った。
「ルティナ男爵令嬢。ようこそ、フィースへ。大したもてなしはできませんが、来訪は歓迎します」
「わざわざのお出迎えをありがとうございます」
美しい微笑みを浮かべて淑女の礼をする令嬢には、爵位こそ最下位ではあっても確かに貴族の貫禄が備わっていた。
ふたりのやり取りを横目で見ていたリーシャは、幼馴染のアレスもまた貴族なのだと改めて認識したのであった。
リーシャはフィース領で商いをしている商家の娘だ。
ここは王都に隣接した土地であり、両者は馬車で半日もかからないという位置関係であった。
王都を目指す多くの旅人はここを抜ければ目的地だとばかりに足早に通り抜けていくだけで、宿場町としての機能は期待できない。
また、領地のほとんどが山間部の為、木々に覆われており、これを農地として利用するには大規模な開墾が必要で、それは骨の折れる仕事であった。
しかし山には大型の獣や盗賊が出る。
山道を行く貴族や商隊をそういった危険から護衛してその対価を得る、というのが、この領地の主な収入源。
お世辞にも裕福とは言い難い。
これがフィース領であった。
このフィースを治めているのが先ほど男爵令嬢を出迎えていたフィース子爵のアレスである。
アレスはまだ二十一歳であり爵位を継ぐには少し若かったのだが、数年前、彼の父が病に倒れてしまった。
幸い命に別状はなかったものの、病を押しての領地経営はいささか無理があり、一人息子のアレスがそれを引き継ぐことになった。
都会には人が集まる。当然、腕のいい医者も集まる。
半日かけて王都まで通ってもよかったのだが、ちょうど手ごろなタウンハウスが売りに出ていたこともあり、アレスの両親は王都での生活を選んだ。
とはいえ、王都と領地の二重生活となったのだから出費は増える。
税率を上げようにもフィース領には大した収入源がないし、そもそも領主の都合を領民に押し付けるなどナンセンスだ。
そこでアレスは少しでも出費を抑えるべく、家政の仕事を幼馴染のリーシャに依頼することにしたのだ。
家政の主な仕事は使用人と家計の管理であり、領主の妻が担うべき領分である。
しかし彼はまだ妻帯しておらず、そうなると家政専門の使用人、俗にいう家政婦長を雇うのが一般的な解決法となる。
当然だが、家政婦長を任せられるだけの人材はなかなか見つからないし、仮に見つかったとしてもそれなりの給金を出さなければならない。
残念ながらフィース家にはその余裕がなく、そこでアレスは、使用人の管理は古くから仕えてきた執事長に、そして家計の管理はリーシャに任せることを思いついた。
リーシャは商家の娘だから読み書きそろばんは一通りマスターしている。
そのうえ、兄と共に商売のいろはを父親から学んでおり、なかなかに抜け目ない商売根性を持っている彼女なら無駄のない支出に抑えられる。
小さく、裕福でもない領地の為、領主と領民の距離は近く、特に商売を営んでいるリーシャの家とは昔から家族ぐるみの付き合いをしてきた仲だった。
アレスの提案にリーシャの父は渋い顔をしたものの、最終的には合意した。
友人の息子が困っているのだからそれを助けてやるのが筋だと考えたのだ。
こうしてリーシャはアレスの屋敷に住み込みで働くことになったのである。
リーシャがフィース家の屋敷に移り住んで一年ほど経った頃、王都の用事を終えて戻ったアレスは、出迎えた執事長とリーシャに来客があることを告げた。
「近々、ルティナ男爵のご令嬢がこの屋敷に滞在されることになった」
それを聞いてリーシャは素直に喜んだ、やっとアレスの縁談が決まったのだ、と。
いや、正確に述べよう。縁談の兆しは前々からあるにはあった。
アレスはとにかく見た目がいい。どこぞの王族だと言ってもおかしくないほどの素晴らしい容姿をしていた。
護衛業には彼自身が出向くことも多く、その短い旅の中で幾人もの令嬢がアレスにお熱になった。
しかしアレスは、爵位を継いだばかりで妻帯できる状況にない、と言い、その全ての想いを退けてしまったのだ。
そんな中で令嬢が訪問ということは、つまりそういう状況になった、ということだ。
この見目麗しい幼馴染がいつまでも結婚しないことを執事長はいつも愚痴っていた。
「旦那様と結婚してくれそうな女性を知りませんか?」
屋敷で働くようになって執事長にそう聞かれたリーシャは、初めの頃こそ真剣に悩んでいた。
商売柄、貴族の知り合いがいないわけでもなかったし、それとなくアレスに話を振ってみたこともあったが、まだそのタイミングじゃない、と言うばかりで会おうともしなかった。
そのうち、執事長の愚痴はどんどん具体的になってきて、最近では、
「旦那様より年下で、家政ができて、ご実家が商売を営んでいらっしゃる女性を知りませんか?」
と言ってくる。
そんな都合のいい令嬢なんか知らないし、知っていたとしても売約済みだろう。
そもそもリーシャが相手を見つけてきても当の本人にその気がないのだから無駄だ。
「今はそのタイミングではないらしいですよ」
つい先日も執事長の愚痴にそう応じたリーシャだったのだが、彼自身が招待したということはやっと婚姻のタイミングが来たのだろう。
「かしこまりました、では明日から別の部屋で仕事をさせて頂くことにします」
リーシャは今、女主人の部屋で仕事をしているのだ。
そのほうが都合が良かったから間借りしていたが、本物の女主人が屋敷に入るというのなら早急に明け渡さなければならない。
「いや、今のままでいい」
リーシャの提案にアレスは即座に反対した。
「でも、奥様がお見えになるのに?」
「違う、ただの客だ」
それを聞いたリーシャは心底呆れた。
年頃の令嬢がなんの意味もなく独身男性の屋敷に遊びに来るわけがない。
百歩譲って領地経営を学ぶ為だったとしても、この領地にはこれといった産業はなく、アレスという色男がいるだけだ。
「本気でおっしゃってますか?」
リーシャは遠慮なくあきれた顔をして見せ、それにアレスは嫌な顔をしたものの、とにかく、と話を続けた。
「ご令嬢は客間でいい。リーシャは今の部屋を使ってくれ、なんならこれを機に隣室の寝室を使ってくれても」
「バカですか、そういうのは未来の奥様とどうぞ」
「いや、だから」
アレスはまだごにょごにょと言ってたがリーシャはその一切を無視して執事長に言った。
「臨時雇いのメイドを数人手配しましょうか?」
「そうですね、フィース家としてお客様へのもてなしをおろそかにすることはできませんから」
相談の結果、今いるメイドのうち何人かを令嬢の専属にして、臨時雇いは本来、彼女たちがしていた仕事をこなす人員として配置することにした。
「部屋は三階の奥でどうでしょう?」
「あそこは午後の日当たりがよくないわ。若いご令嬢ですし、明るい南側のお部屋にしましょう」
「かしこまりました」
本来、こういった細やかな指示を出すのは女主人の仕事だ。
リーシャはこの屋敷で経理のみを任されてはいるものの、女性らしい気配りは執事長には難しく、暗黙の了解でリーシャが引き受けている。
「これでよろしいでしょうか、アレス様」
執事長との話し合いがまとまったところでリーシャはアレスの許可を求め、彼はそれに頷いた。
「ふたりともよろしく頼む」
主人の言葉に執事長とリーシャは使用人らしく背筋を伸ばして応じた。
「承知いたしました」
それから一週間ほどしてルティナ男爵令嬢がフィースにやってきた。
華やかな顔立ちをした令嬢で、アレスと並んだ姿を領地の子供たちが見たら、本物の王子様とお姫様だと思うかもしれない。
「よろしくお願いします」
そう言ってお辞儀をした令嬢の前にアレスは突然、リーシャの肩を抱き、その場に引っ張り出した。
予想もしていなかった彼の行動にリーシャはいつものように怒鳴りつけそうになり、慌てて口をつぐんだ。
今のリーシャに求められているのはこの屋敷の使用人としての立場であり、彼の幼馴染ではない。
主人に軽々しく口を利くなどしてはならないことだ。
「紹介する、こちらは俺の幼馴染のリーシャで屋敷に住んでもらっている。ここの家政は彼女に任せているんだ」
まさかこんな風に紹介されるとは思っていなかった。彼女はアレスの妻となる為にこの屋敷に来た。
その屋敷に住み着く幼馴染のリーシャを男爵令嬢がどう思ったのか、その顔を見ればよくわかるというものだ。
「初めまして、リーシャと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
彼女と同じくらいひきつった笑みを浮かべたリーシャは当たり障りのない挨拶の言葉を口にした。
怒りに任せて本当のことをぶちまけてやりたかったが、大勢の使用人たちが居並ぶこの場で、子爵家にはお金がないから幼馴染がタダ同然で働いてあげてます、とはさすがに言えない。
アレスにも同席してもらってあとで打ち明けることにしようと考えたリーシャは、鋭い目つきで睨みつけてくる彼女を全力で見て見ぬふりをする。
「お部屋をご案内いたします、どうぞこちらへ」
執事長が間に割って入り、令嬢は屋敷の中へ連れていかれた。
使用人たちも自分たちの持ち場へと散っていき、その場にアレスとリーシャの二人だけになったところで、自身の肩に置かれたままになっているアレスの手を乱暴に振り払った。
「なに怒ってるんだ」
「これを怒らないひとがいたら会ってみたいものだわ」
「俺がなにかしたか?」
「事前にわたしの話を彼女にしていないのですね?」
「今、紹介をした。それで十分だ」
アレスが悪びれもなくそう言ったことでリーシャは彼が悪いと思っていないことを知った。
「彼女はあなたに嫁ぐためにここに来たのですよ?
未婚の幼馴染の女性が住み着いてるなんて、いい気はしないわ」
リーシャの噛みつくような反論にアレスは深いため息をついた。
「何度も言っている、彼女とはそういう関係ではない」
「こんななにもない領地に来てくれるご令嬢なんてなかなかいません。一体、彼女のなにが不満だというのか」
「別に不満はない」
不満がないならなにをしでかしてるんだと言いたいが、彼の表情から察するにいくらリーシャが言ったところで無駄であることは容易に推測できる。
話の通じない相手に説明をしている時間などない。
屋敷に客人が入ったのだ、家政を任される身としてはもてなしの準備を進めなければならない。
「あとでルティナ男爵令嬢に事情をお話ししましょう、もちろんアレス様も同席してください」
「なんで俺が」
「いいわね?!」
アレスの反論をリーシャは最後まで聞かずに言い放った。
こちらの怒りを察した彼はそれ以上なにも言うことはなく、リーシャは己が責務を果たすため、急ぎ屋敷の奥へと向かうと、メイドたちにもてなしの指示を出したのであった。
客人を迎えてから数日が経過した。
リーシャはルティナ男爵令嬢に面会を申し出ているのだが、いまだに許可は下りていない。
たぶん彼女はリーシャと話をしなくないのだろう。
それはそうだ、リーシャが彼女の立場だったとしても同じ対応をしたと思う。
好きな男性の屋敷に住み着いている女と仲良くお茶など、冗談ではない。
仕方なくアレスから説明しておくようには言ったが、令嬢の反応から察するに、あの朴念仁がリーシャの願うような説明をしていないことは明白だ。
金に困った結果として雇い入れただけだと分かれば彼女はリーシャの面会希望にも答えてくれるはずだ。拒否され続けているということは、事情がきちんと伝わっていないということになる。
貧乏ですと言いたくないというアレスの気持ちはわかるが、リーシャという人間を誤解されたくはないのできちんと説明しておいてほしい。
アレスはとにかく口下手だ、そこは昔から全く変わっていない。
女性好みの見た目をしているくせに、甘いセリフを彼が口にしたところをリーシャは見たことがない。
一度、彼から抱えきれないほどの大きな花束をもらったことがある。
しかしそれは黒百合の花束で、花言葉は『呪い』。
確かに黒髪のリーシャに深いワインレッドの黒百合は似合うのだが、呪いの花言葉を持つそれをもらったところでどうしろというのか。
「えっと、ありがとう」
微妙な笑顔でしどろもどろに礼を言うことしかできなかったリーシャはそのとき彼がどんな顔をしていたか覚えていない。
結局、ルティナ男爵令嬢とは一週間以上経っても話をできないままだった。
彼女は怒っているのだ。
なおさら、早いところ彼女に仕事を引き継いでリーシャは早々にこの屋敷を出ていかなければならない。
執事長を通して引き継ぎの日程を確認してもらっているのだが、ちっとも返事がない。
そこで悪いとは思ったがアレスを使うことにした。引継ぎなどというどうでもいいことに領主を巻き込むなど、本来はしてはならない。
しかし進展しないことも含めて現状を認識してもらいたかったから、彼に訴えることにしたのだ。
「アレス様、ルティナ男爵令嬢様に仕事を引き継ぎたいのですが、日程が決まりません。お手数をおかけしますが、調整をお願いできないでしょうか」
リーシャの言葉にアレスは嫌な顔をした。それはそうだ、日程調整など領主の仕事じゃない。
しかし、彼の返事は意外な内容だった。
「仕事は教えなくていい、これからも君にお願いしたい」
「でも、じゃぁ彼女は何をなさるのですか?」
「何もさせない」
そのセリフの後に、そもそも彼女と結婚しない、などとほざいていたが、リーシャはその言葉を無視して考えた。
女主人に家政の仕事をさせないとはどういうことなのか。
家計を切り盛りすることは妻の大事な仕事のひとつだ、それ以外で妻がなすべき仕事とは?
そこまで考えてリーシャはアレスの意図に勘づいた。
彼はルティナ男爵令嬢を大切に思っているからこそ、家政という大変な仕事をさせたくないのだろう。
それで本人が納得するかはともかく、少なくともアレスは彼女に苦労させることを望んではいないのだ。
それよりも社交と、そして何より大事な跡継ぎを儲けるという仕事をしてもらいたいのかもしれない。
リーシャは、フィースを通り抜けていく貴族令息たちを見かけたことがあるが、アレスは彼らと違ってがっしりとした体をしている。
服を着ていれば王子様のように見えるのだが、領民と一緒に護衛の任に就いて、王都と領地の山岳地帯を往復している彼が鍛えられた体をしていることは想像にたやすい。
体力のあるアレスの夜の相手をするのは相当に大変だと思う。
王都暮らしのご令嬢にはそれだけでもかなりの負担になると予想できる。
そのうえ、家政の仕事を強いれば男爵令嬢は逃げ出してしまうかもしれない。
やっとアレスの相手が見つかったのだ、絶対に逃してはならない。
仕事より子作りを優先させたいだなんて、なんだかんだでアレスもしっかり彼女に骨抜きなのね。
その事実はリーシャにほんの少しの寂しさを抱かせた。
とはいえ、実務の引継ぎは彼女が出産を終えてからでもいいとしても、現状は把握しておいてもらいたい。
少なくとも使用人であるリーシャが勝手にやっていると思われては困るのだ。
「わかりました、では実務はこのままわたしが担当します。
ですが、現状は把握して頂きたいのでだんだんに事情をお伝えしていくことにします」
「それは。いや、わかった。そうしてくれ」
アレスは何か言いかけたがすぐに口を閉じ、リーシャの提案に同意した。
「ありがとうございます」
リーシャは深く頭を下げ、領主に感謝を述べると執務室を後にした。
ルティナ男爵令嬢の朝は遅い。
王都住まいの彼女には朝のうちに起きるという習慣はないようで、お昼近くになってようやく、朝昼兼用の食事を取るという状態だった。
アレスはすでに仕事に出ていて屋敷にはいない。ひとりの食事に不満を漏らしているようだが、彼と朝食をともにしたいのなら、常識的な時間に起きればいいだけだ。
もっともその時間は彼女にとっての『早朝』になるのだろうが。
男爵令嬢が起きたと報告を受けたリーシャは食事を出すように指示をした。
裕福ではないこの屋敷ではジャガイモ主体のメニューが普通だったが、最初からそんなものを出されては驚かせてしまうと思い、肉料理を用意させている。
今は少しばかり多めに作らせて、まかないとして使用人たちにも食べてもらっている。
アレスが貴族にあるまじき勤労を厭わない人物であることも手伝って、彼女の振る舞いは怠惰に映るようで、はっきり言って使用人の間では評判が良くない。
豪華な賄いを長く続けることはできないが、それでも令嬢がアレスの妻になればいいことがあるのだと使用人に印象付けておきたいとリーシャは考えたのだ。
その意図を含んだ料理は令嬢の口にもあったようでペロリと平らげたと聞き、リーシャはほっと胸をなでおろした。
今夜はアレスも屋敷で夕食をとると聞いている。
令嬢との晩餐にふさわしい豪華なメニューを出すよう、リーシャは料理人に指示を出したのだが、それにアレスが物申してしまった。
「とっておきのワインに肉料理とは。随分、豪華にしたんだな」
アレスはダイニングに料理人を呼びつけるとそう言った。
それに男爵令嬢が怪訝な顔をしている。
「豪華ですか?わたくしはランチにもお肉料理を頂きましたけど」
悪くなかったわよ、と笑顔を添えて料理人を褒める言葉を口にした令嬢だったが、それとは対照的にアレスは不機嫌な顔をして黙ってしまい、早々に食事を終えると、
「リーシャと話をしてくる」
と言ってさっさとダイニングを出て行こうとする。
「アレス様、お待ちください。食後にと異国の茶葉をご用意しましたの」
晩餐の後はサロンで食後の語らいを楽しむものだ。
彼女はそのためにアレスを引き留めたが、彼はちらりと一瞥し、失礼、と言って、そのまま出て行ってしまった。
去っていくアレスの後姿を彼女が睨みつけていたのは言うまでもない。
そしてその怒りはアレスではなくリーシャへとむけられることもまた、当然であった。
一日の仕事を終えたリーシャは、他の使用人たちと一緒に夕食を取ろうと自分たちの休憩スペースのある地下へ向かっていた。
屋敷の廊下を歩いていると前からアレスがやってくるのが見えた。
アレスは貴族令息にしては足が速いほうだと思うが、その夜は一段と早かった。
あっという間にリーシャとの距離を詰め、目の前に立つと、
「どういうつもりだ」
と不機嫌を隠そうともしない声色で言った。
言われた内容にもアレスの不機嫌さにも心当たりのないリーシャは首をかしげるしかない。
「何かございましたか?」
「今夜の晩餐のメニューだ」
「アレス様の嫌いな物はお出ししていないはずですが」
「そうじゃない、特別な夜でもないのに肉料理など出さなくていい。それに彼女には昼間も肉料理を振舞ったと聞いたぞ」
フィース領は貧しい土地だ。領主といえど普段はジャガイモなどの野菜を中心とした料理を食しており、肉や魚が晩餐に並ぶのは三日に一回もあればいいほうだ。
令嬢に昼、夜と肉料理を出したのは破格の対応と言っても過言ではない。
しかしリーシャはあえてそうしたのだ。
いずれは彼女にもフィースの現状を知ってもらわなければならない。
だとしても、彼女は王都での贅沢な生活に慣れた令嬢だ。そんなひとに最初から全速力の貧乏飯では気の毒というものだろう。
「それが問題でしょうか?精一杯のおもてなしを領主様が否定されるとは思ってもみませんでした」
「もてなしなどしなくていい」
「何故です?将来はともかく、今はフィース家にお見えになった大切なお客様ではないのですか?」
「それは!」
アレスの発した突然の大声にリーシャは驚いたものの、怯むことなく言った。
「彼女は大切なお客様なのですからおもてなしをしなければなりません。礼儀を欠けば、フィース家としての評価が下がりかねません」
リーシャの静かな物言いに彼の気持ちも少し落ち着いたようだった。
幾分、声を落としてアレスは言う。
「君の気配りには感謝する。でも贅沢はさせなくていい、いつものフィースを見てもらう」
「それでよろしいのですか?」
お嫁さん、逃げてしまいますよ?という気持ちを込めてリーシャは言った。
それはアレスにも通じたようで、彼は苦々しい顔をしながらも、かまわない、と言った。
幼馴染としてのリーシャであれば小一時間ほど説教を食らわせたい場面ではあるが、今のアレスはリーシャの主だ。
執事長ならばともかく、家計を任せられているだけのリーシャが主人の意向に異を唱えることなど、さすがに出過ぎた真似だ。
リーシャは、承知しました、と彼に頭を下げてその場を離れた。
アレスの指示通り、翌日の令嬢の朝食には、パンとスープと少しの果物だけを並べた。
「これだけかと聞かれて、どうお答えすればいいのか分かりませんでした」
リーシャは彼女付きのメイドから心底困った顔で報告を受けた。
アレスの希望で『フィース流』にしたのだが、やはりいきなりはまずかったと思う。
彼女を逃したらアレスに嫁いでもいいと言ってくれる女性はもう現れないかもしれない。
「アレスはなにを考えてるのやら」
メイドが下がり、ひとりきりになった部屋でリーシャはつぶやいた。
その後もルティナにとっては面白くない日が続いている。
王都と違ってここには何もない。せめてアレスが積極的に彼女との時間を作ってくれればいいのに、彼はいつも通り仕事をこなすだけで顔を見に行こうともしない。
幸い、ルティナは使用人に当たり散らすような人物ではなかったから彼女専属にしたメイドたちから苦情は来ていないものの、ピリピリとした空気は漂っていると聞いている。
淑女に対して失礼すぎる。
業を煮やしたリーシャはある日、アレスが外出から帰ってくるなり、執務室に押しかけた。
「アレス様がここまで甲斐性なしとは思いませんでした。彼女はあなたとの結婚を考えてくださっているのですよ?」
「あちらが勝手に押し付けてきただけだ、俺は結婚するつもりはない」
間髪入れずに発せられたアレスの返事にリーシャは思わず声を荒げた。
「なんてこというのよ!たとえそう思っていたとしても、使用人の前で口にしてはいけないわ。
わたしはあなたの使用人なのよ?」
するとアレスはリーシャを真っすぐに見つめ、
「君を使用人だと思ったことは一度もない」
と言った。
もしこれが雰囲気のいい夜景を眺めながら言われた言葉であれば、恋愛に疎いリーシャでも少しくらいは頬を染めていたかもしれない。
でも今は領主の執務室で執事長も同席していて、なによりリーシャはアレスの幼馴染として間違いを正すべく説教をしにきているのだ。
王子様のような見た目でそんな言葉を吐かれてもむしろ怒りが増すだけである。
「そうね、あなたにとってのわたしは都合のいい女ですものね!」
リーシャが怒りに任せて怒鳴ったちょうどそのとき、ドアをノックする音が重なった。
アレスは対面するリーシャを見据えたまま応じた。
「誰だ」
「あの、ルティナ男爵令嬢が旦那様とお話をされたいとおっしゃって、今、ここに」
それはルティナに付けたメイドの声だった。
ルティナは今、ドアの前にいるのだ。先ほどのリーシャのセリフは聞こえていたはずだ。
アレスはなんとも言えない表情をしている、彼女を追い払うつもりなのだろうがそうはさせない。
いい加減、ルティナ嬢と向き合うべきだ。
俺は都合のいい女しか必要としていないとでも言って、平手打ちを食らわせられればいい。
「わたしの話は終わりました、失礼します」
「待て、リーシャ。俺はまだ君に話がある」
「後ほど伺います、ルティナ男爵令嬢をお待たせするのは失礼ですわ」
リーシャは踵を返すとさっとドアを開けた。
そこには居心地悪そうに目を泳がせているメイドと、いかにも不機嫌ですという顔をしたルティナが立っていた。
「失礼いたします」
リーシャは使用人らしく一礼して、彼女の横を通り抜けていった。
アレスの非難するような視線を背中に感じたがそんなものは無視だ。
彼のまいた種なのだ、自分でなんとかするべきだ。
結局、アレスとルティナの話し合いは決裂したようで、数日後、男爵家が手配した馬車が屋敷に到着すると彼女はそれに乗って帰っていった。
アレスも見送りに立ったがふたりの間にはだれがどう見てもわかる険悪な空気が流れていた。
せっかくアレスにお嫁さんが来てくれると思ったのに逃してしまった。
男爵のような下位貴族でも社交はある。今回の件で残念ながらアレスの悪評は広がるだろう。ますます婚期が遠のいてしまう、そしてそれは自分も同じ。
リーシャの労働契約は彼が結婚するまでの間ということになっている。
リーシャはもうすぐ十八歳になる。そこまで焦る年齢ではないが、アレスの結婚を待っていたら行き遅れそうな気がする。
「お父様に頼んで、どこかのお嬢さんを紹介してもらいましょうか?」
ルティナが屋敷を去った数日後、アレスと話す機会があった為、提案をしたのだが、彼は苦々しい顔をしただけだった。
なんだかんだで彼は失恋したのだ、まだ新しい恋に心を向けるには早すぎるのかもしれない。
しばらくはそっとしておくしかない。
リーシャはそれ以上はなにも言わなかった。
この国では年に一度、夏の盛りに使用人たちへ長期休暇が与えられる習慣がある。
屋敷には最低限の使用人だけが残り、あとは里帰りをするのが普通である。
フィース邸に住まう貴族はアレスひとりの為、世話係もひとりいれば十分だ。
去年はリーシャが居残りを引き受けた。
まだ屋敷の仕事を始めたばかりで雑務が溜まっていたし、久しぶりにアレスとふたりで過ごすのも悪くないと思ったのだ。
子供の頃、リーシャはよくこの屋敷に泊まりに来ていた。
アレスの両親は忙しく、家を空けることが多かったから、寂しくないようにとしょっちゅうお泊り会を開いていたのだ。
ふたりでこっそり屋根にのぼって見た夜空は今でも覚えている。
キラキラと星が輝いていて、そのひとつひとつはまるで宝石のようだった。
「僕が大きくなったら星に負けないくらい綺麗な宝石をリーシャにプレゼントするよ」
「本当?嬉しい!アレス、大好き!」
そう言ってリーシャはアレスに飛びつき、危うく屋根から転がり落ちそうになったのはいい思い出だ。
その言葉通り、アレスは爵位を継いでしばらく経ってから、見たこともないほど大きなダイヤモンドがあしらわれた指輪を持ってきた。
「やっと約束が果たせる」
アレスはリーシャの手を取り、それを指にはめようとしたがリーシャが遮った。
「こんな高価な物、ただの幼馴染の、それも商人の娘になど贈ってはいけません」
「え、でも」
「アレス、いいえ、アレス様。
あなたはフィースの領主になられたのですから、考えもなく平民に施しを与えるなどしてはいけません」
「施しなんかじゃない、これはリーシャへの俺の気持ちだ」
「でしたらお気持ちだけでけっこうです、こういう物は将来の奥様にプレゼントすべきです」
「だから君に」
そのタイミングで奥から声がかかった。
「リーシャ。お夕飯のしたく、手伝ってちょうだい」
アレスの言葉はリーシャの母が彼女に呼びかけた声に消されてしまった。
リーシャは母親に返事をしながら、
「早くいい人が見つかるといいわね」
と言い、アレスを励ますようにその肩を叩いてキッチンに向かったのだった。
去年の休暇の間のアレスとの日々は楽しかった。
アレス様と呼び、敬語を崩さなかったリーシャもふたりきりの気安さからついアレスと呼んでしまった。
彼もそれを咎めるでもなく、穏やかな微笑を浮かべただけだった。
彼は領主なのにリーシャと一緒に食事の支度をしたり、馬の世話をしたりした。
夜になると子供の頃のように屋根にのぼり、満天の星空を眺めた。
「クレッグスさんが見たら卒倒するわね」
「彼女は厳しいからな」
クレッグスというのは引退した家政婦長のことで、彼女はアレスの父が子爵になった頃からこの家に仕えている最古参の使用人のひとりだった。
アレスやリーシャが子供の頃はその教育係も兼ねていた為、彼女の前ではお行儀よくしていなければならなかった。
領主となったアレスと年頃を迎えたリーシャが寝間着でこんなふうに屋根にのぼっていると知ったら、彼女は間違いなく雷を落とすだろう。
「見て、流れ星!」
リーシャは心の中で願い事を唱えようとしたが、それより早く流れ星は消えてしまった。
「あぁ、もう消えちゃった。こんな短い時間で三回も唱えるなんて無理だわ」
「なにか願いがあるのか?」
「もちろんよ。
えっと、まずは仕事がうまく行くように、でしょ。
あと夕方に仕込んだパン生地で明日のパンが美味しく焼けるか心配だし、それから皆に無事に帰ってきてほしい。あとは」
指折り数えるリーシャにアレスはこらえきれないというように笑い出した。
「ははは、随分ささやかな願いなんだな」
「何故?とても大切なことよ、あなたは明日も硬いパンでいいっていうの?」
今朝焼いたパンは恐ろしく硬くなってしまったのだ。
アレスはそれを振り回して、釘でも打てそうだと笑い、失敗したリーシャを責めるようなことは言わなかった。
それどころか、
「行儀はよくないが、スープに入れて食べよう。せっかくリーシャが作ったんだから捨てるのはもったいない」
と言ったのだ。
「領主様にこんなものは食べさせられないわ」
「休暇の間は領主じゃない、俺は幼馴染のアレスだよ」
「でも」
「俺の大切なリーシャが頑張って作ったんだ、無駄にはしたくない」
どこまでも優しい声色と穏やかな笑みでそう言われてしまうとリーシャはそれ以上の反論はできなかった。
「明日はうまくやるわ」
自分のふがいなさにしょんぼりとしてそう言ったリーシャの肩をアレスはそっと抱き寄せて、
「俺も手伝うよ」
と言い、夕方に仕込みを始めたパン生地は彼の手によってあっという間に完成した。
「パンなんて作ったことがあるの?」
「母さんが料理好きなのは知ってるだろ?パン生地は力が必要だって言われて手伝わさせられた」
アレスの母は子爵夫人でありながらよく料理をする人だった。
夫人の実家は男爵家だから貴族婦人が料理をすることが珍しいとは思っていなかったのかもしれない。
フィース邸で出されるパンはとてもおいしくて、普段は食の細いリーシャが進んでおかわりをする姿にリーシャの両親は目を丸くしていたものだった。
「ふぅん、でもその経験が今に活きたわけね」
今朝は失敗してしまったが、明日はせめて普通のパンをアレスに食べさせたい。
リーシャはそう思って星に願い事をしたかったのだが、それ以降、流れ星が落ちることはなかった。
夏の暑い時期だから寒さは問題ないが、あまりに夜更かししては明日に差し支える。
「リーシャ、そろそろ寝よう」
「もう少しだけ、お願い」
アレスにそう言ったところまでは確かに覚えている。
気が付いたらベッドで横になっていて、カーテンの隙間からは朝日が覗いていた。
いつの間にベッドに入ったんだろうと首を傾げたリーシャだったが、それよりも今はパンを焼くことのほうが大事だ。
リーシャはベッドから飛び降りると急いで着替えてキッチンへと向かった。
アレスの腕は衰えていないようで、その日の食卓に並んだのはリーシャがおかわりをするほどおいしいパンだった。
そうやって十日間をアレスとふたりきりで過ごし、使用人たちが全員戻ってきて通常運転に戻ったところでリーシャは帰省した。
しかし今年は是が非でも帰りたかった。兄に赤ちゃんが産まれたのだ。
もちろん出産後すぐに数時間だけの休憩をもらって顔を見に行ったが、また会いたい。
赤ちゃんはあの頃よりもずっと大きくなっていることだろう。
「リーシャさんは休みの間はどうされるんですか?」
幾人かの使用人たちとランチをとっていてそのうちのひとりに聞かれた。
「できれば実家に帰らせてもらいたいかな。兄さんの子供が産まれたばかりなの、だから会いたくて」
「まぁ、それはおめでとうございます。男の子ですか?女の子ですか?」
「兄さんにそっくりの男の子よ」
「それならちょうどいいわ、孫のためにおむつをたくさん用意したんだけど、使わずじまいのが余ってて。良かったら持っていってちょうだい」
「わぁ、助かります」
女同士でワイワイと話をしているとメイドの一人がリーシャに言った。
「リーシャさん、旦那様がお呼びよ。手が空いてるならサロンに来てほしいって」
「そう、急いで食べちゃうわ。なんの用事かおっしゃってました?」
「いいえ、確認したいことがあるとだけ」
「わかりました、すぐに行きます」
リーシャはおしゃべりもそこそこに昼食を平らげると、簡単に身だしなみを整えてアレスの待つサロンへと向かった。
残った使用人たちはアレスのもとへと向かうリーシャを見送った後、一斉にため息をついた。
「まったく、いつになったら『奥様』とお呼びできるのかねぇ」
「旦那様も旦那様ですけど、リーシャさんも相当鈍いですからね」
その言葉に誰もが大きくうなずいた。
「リーシャちゃんは旦那様の何が気に入らないんだろう。
だってそうだろ?王子様みたいにハンサムな男が嫌いなんて若い娘はいないさ」
すると執事長が困った顔で、
「旦那様のことは幼馴染としか考えておられないようで」
と嘆いた。
「そこはうまいこと丸め込んでさ」
別の使用人の発したこのセリフに執事長は大声で訴えた。
「旦那様のお探しの相手は『旦那様より年下で、家政ができて、ご実家が商売を営んでいらっしゃる女性』とまで言いました!
それでもあの方はそれがご自分のことだとお気づきにならないのです」
突っ伏して泣き出した執事長の肩を使用人のひとりが叩いて慰めた。
「もういっそのこと勝手に式を挙げちゃえばいいんだよ、リーシャちゃんにとっても悪くない嫁ぎ先なんだしさ」
「それはリーシャ様のお父上がお許しになりません。本人の承諾を得たうえで、と念押しされていますから」
執事長の涙ながらの報告に使用人は頭を抱えるしかなかったのである。
フィース邸のサロンには扉がない。
茶会や夜会といった集まりの際、休憩スペースとしてサロンを気軽に利用してもらおうとわざと作らなかったのだ。
込み入った話をしたいときは入口のカーテンを閉めることになっている。
カーテンが閉まっているときは暗黙の了解で使用人たちはその周囲に近づかないし、それを知らない客がいたら別の部屋に誘導することにしている。
そのときはカーテンが空いていて、つまり内密な話ではないということだ。
リーシャは気楽な気持ちになってサロンへと入った。
「リーシャです、お呼びと伺いました」
「座って」
誰が用意したのかサロンにはすでにアレスとリーシャのためのお茶が用意してあった。
しかし、その位置がおかしい。
アレスは二人掛けのソファに座っているのだが、リーシャのお茶はその隣に用意してある。
そもそも使用人が主人とお茶を同席する話もおかしいのだが、それは主のほうが気にしなければそんなこともあるのでそこまで首をかしげることではない。
だが、隣に、それも異性の隣に座るなど、恋人や婚約関係にないのなら、ありえないことだ。
「失礼します」
リーシャはアレスの向かいの席に座り、黙ってお茶を手繰り寄せた。
するとアレスは短くため息をついたかと思うと、さっと立ち上がってリーシャの隣に座ると、彼女と同じようにティーカップを手繰り寄せる。
「あの、位置がおかしいと思うのですが」
「別におかしくないだろう」
アレスはあまり社交が好きではなく、本当ならシーズン中の今は王都で生活しなければならないのに距離が近いことを言い訳にして領地に居座っている。
本人曰く、出席が必須の集まりには参加できる距離だから問題ない、だそうだ。
リーシャは商売上、付き合いのある貴族令嬢から教えてもらって知っている。
しかし社交をしないアレスは、恋人や婚約者でもない異性が隣同士で座ることがおかしいと知らないのかもしれない。
「確認したいことがあると伺いましたが」
リーシャはできるだけアレスと距離を取りながら、話を始めた。
「今年の休暇はどうするつもりか、聞きたかったんだ」
「実家に帰りたいと思ってます、兄さんに赤ちゃんが生まれたのはご存じでしょう?会いたくて」
去年は居残りを引き受けたのだから、今年は帰省を主張しても誰にも嫌な顔はされないはずだ。
リーシャはそう考えて自分の計画を口にしたのだが、アレスはそれに意外な提案をした。
「そうか、じゃぁ俺も同行する」
リーシャは目を丸くするしかない。
使用人の長期休みに主人がついてくるなど聞いたことがない。
家族水入らずで過ごす期間なのだ、雇い主が一緒だなんて気を使うに決まっている。
もっともアレスはリーシャの幼馴染だから、家族はそれほど気を使わないだろうけども。
「休暇中の使用人についてくるなんて非常識ですよ」
「君は使用人じゃない」
それにカチンときたリーシャはつい強い言葉で反論した。
「そうね、わたしはあなたの都合のいい女だったわね」
「違う」
「でもそんなことお父様の前で言ってごらんなさい、二度とうちの敷居はまたげなくなるわよ」
反論の隙も与えず言い切ったリーシャにアレスは青い顔をした。
いくら幼馴染とは言え女性に対して『都合のいい女』と表現することが非道だということくらいは分かっているようだ。
とはいえ、アレスがリーシャと同行するなら屋敷の居残りは必要なくなる。
誰だって他の人と同じ時期に休みを取りたいに決まっている。
連れ合いをなくした年配の女性が今年の居残りを引き受けるようなことを言っていたが、彼女にはちゃんと息子も娘も孫たちもいる。
広い屋敷にアレスとふたりきりでいるよりは彼女も帰省したいだろう。
「仕方ないですね。両親には手紙で知らせておきますから、アレス様もご一緒にどうぞ」
リーシャが譲歩したことにアレスは笑顔になって、手土産にはなにが喜ばれるかと言い出した。
別にすぐそこの街に行くだけなのに土産もなにもないだろうと思ったが、アレスがあまりに嬉しそうでリーシャは適当に相槌を打つだけに留めた。
リーシャの家はアレスの屋敷と街を挟んで反対側に位置している。
アレスの操る馬車で街を抜けていく。休暇に入っている為、ほとんどの店が閉まっていて街は閑散としていた。
途中、リーシャの家がやっている店の前を通った。四階建ての大きな建屋で手広く商売をやっていることが窺える。
「おじさんの商売は順調なんだな」
「王都に店を出す計画があるそうです、そうなったらわたしはそちらに回されるかもしれませんね」
「それは困る」
「最初は他人を雇う余裕もないでしょうから、娘のわたしが手伝うのが自然です」
「うちの家政はリーシャに任せたいんだ」
懇願するような声色でアレスが眉を寄せて言う、美男子の憂い顔というのはなかなかの破壊力だ。
しかしこればかりはどうしようもない、リーシャは当主である父の決定に従うだけだ。
「まだ決まったわけではないですし、父が考えるでしょう」
リーシャの言葉にアレスはなにか言いたげな顔をしたものの、それ以上はなにも言わなかった。
リーシャの家の前では家族が出迎えに出てくれていた。
遠目に姿が確認できる距離になったところで、御者のアレスの隣でリーシャが大きく手を振ると、みんなが手を振り返してくれた。
やがて馬車は彼らの前で静かに止まり、それとは対照的にリーシャは馬車から飛び降りた。
「みんな、ただいま!義姉さん、赤ちゃんは元気?」
「おかえりなさい、リーシャ。さっきお乳をあげたの、今は眠ってるわ」
義姉の腕の中で安心しきってすやすやと寝息を立てている小さくて愛らしい生き物を、リーシャは息をつめて覗き込んだ。
そのリーシャの横でアレスが礼儀正しく彼女の父と挨拶の握手を交わしている。
「お久しぶりです、おじさん」
「よく来てくれたね、アレス。領主の仕事はどうだい?」
「大変ですが、リーシャの支えもあるのでなんとかやってます」
「そうか、それはよかった。立ち話もなんだから中へ入りなさい」
アレスは隣に立っているリーシャの母にも挨拶をする。
「おばさん、厄介をかけますがよろしくお願いします」
「何言ってるの、アレス坊が久しぶりにお泊りに来てくれて嬉しいわ。自分の家だと思ってくつろいで頂戴ね」
ふたりのやり取りにリーシャは心が温かくなる。
急に領主を連れてくることになって迷惑だと思われないか心配だったのだ。
リーシャの家族はアレスを心から歓迎している。彼らにとってのアレスは領主ではあるけれども、同時に娘の幼馴染でもあるのだろう。
「さぁ、入った入った」
リーシャとアレスの荷物を引き受けたリーシャの兄の明るい声に急き立てられて、ふたりは家の中へと入った。
その夜は大変なごちそうが並んだ。
リーシャの母と義姉、もちろんリーシャも手伝って、テーブルに並びきらないほどの料理を用意したのだ。
皆、大いに食べ、飲み、陽気な笑い声は絶えることがなかった。
あれだけあった料理も残りわずかとなり、リーシャと母は徐々に片づけを始める。
義姉は赤ちゃんと一緒にもう部屋に入っている。
まだまだ夜泣きの時期なのだ、赤ちゃんが眠った隙にお母さんも眠らなければ参ってしまう。
その傍らで男たちは話し込んでいる。
「高低差を利用した野菜の栽培を計画しています。収穫時期が自然にずれるので年中出荷できれば収入増につながるかと」
「それなら北方原産がいいな、土地が瘦せていても育つ作物がいくつかあるんだ。知り合いに扱っている商店があるから紹介しよう」
リーシャの父の意見のあとで兄が口をはさむ。
「開墾はどうする?男手が必要なら護衛業の半分を回してもらえると思う、今は社交のシーズン中で王都を出入りする貴族はあまりいないはずだ」
「適切な給金とはいかないかもしれませんが、それでも集まってくれるでしょうか」
「収入がゼロよりはマシだ。それに領地が豊かになる手伝いならば皆、喜んで手を貸してくれるさ」
アレスの不安をリーシャの兄が一蹴する。
リーシャの家は街一番の商店だったから、自然とまとめ役になっており、父や兄の声掛けならばと気やすく応じてくれる人たちも多い。
「お父様、王都にお店を出すんですか?」
片付けの手を止めてリーシャがそう尋ねると父は笑顔を見せた。
「トマスが幾人かの貴族を紹介してくれてね。
うちで扱ってる商品にご興味を示されていて、長い付き合いになるなら店を出したほうがお互いに都合がいいという話になってるんだ」
トマスというのは王都に住んでいるアレスの父、前子爵のことだ。
王都にいれば社交は自然と繋がり、リーシャの父に話を回してくれたのだろう。
「じゃぁわたしはそちらの手伝いをしたほうがいいのかしら」
リーシャの言葉をアレスが慌てて遮る。
「君にはうちの家政があるだろう」
「それはそうだけど」
「俺はリーシャを手放す気はない」
そんなことを言うなら一人前のお給金を支払ってほしい。格安で働かされて、これでは本当に都合のいい女になってしまう。
「それはお父様がお決めになることよ」
リーシャがぴしゃりと言い放つとリーシャの父は少し眉をあげ、
「お前はわたしが決めてもいいのかい?」
と言った。
「もちろんよ、お父様に従います」
「リーシャ」
アレスはどこか責めるような響きのある口調で言う。
「わかった。いずれにせよ出店はまだ先だ、その時がきたら決定することにしよう」
「待ってください、おじさん。俺は」
「わかっているよ、アレス。でも、そうだな。一つアドバイスをするとしたら、この娘は恐ろしく鈍感だということかな」
それを聞いたリーシャの兄が噴き出すように笑った。
「あっはっは、違いない。でもそこがリーシャのいいところだ」
「わたしが鈍感ってどこがよ、それに出店とそれは関係ないでしょう?」
いつの間にか赤ちゃんを寝かしつけて戻ってきた義姉まで兄と一緒になって笑っている。
「リーシャ、気にしなくていい。君は今のままでいいんだ」
憤慨するリーシャを何故か元凶のアレスに慰められて、余計にリーシャは不機嫌になり、それにまたみんなが笑った。
起床ベルの鳴らない日はいい。リーシャはしっかりと日が昇り切った頃にようやくベッドから降りて、寝る前に用意しておいた水桶の水で顔を洗った。
着替えを済ませて階下に降りると、すでにアレスは起きていて義姉と話をしている。
赤ちゃんはもちろん彼女が抱っこしている。
「おはようございます」
「おはよう、よく眠れた?」
「えぇ、ぐっすり。義姉さんは眠れた?この子はまだ夜泣き真っ盛りでしょう?」
「昨日は割と眠ってくれたほうだけど、まだまだね」
そう言ってあくびをかみ殺している。
「すぐに朝食を済ませちゃうわね、赤ちゃんはわたしとアレスでみていてあげるから少し寝たらいいわ」
「俺もか?」
「いいじゃない。わたしたち居候だもの、少しは貢献しましょうよ」
一晩経ってリーシャの言葉はすっかり幼馴染のそれに戻ってしまった。
でもアレスが気にしないことは知っているし、リーシャの家族ももちろん気にしないから、このままで話すことにしたのだ。
「ありがとう、じゃあお願いするわね」
リーシャは、まかせて、と元気よく返事をし、急いで朝食をお腹に詰め込むと義姉のそばに座った。
「さぁ、リーシャおばちゃんが抱っこしてあげますよー」
リーシャは義姉から赤ちゃんを受けとった。
最初は落ち着きなさそうにしていた赤ちゃんも危なげないリーシャの手つきに安心したのかすっかり体を預けている。
「悪いわね、なにかあったら呼んで」
「大丈夫よ、ゆっくり休んでね」
リーシャはそう言って義姉を見送った。
アレスはまだ遠巻きにしているが彼も子守担当になったのだ、そんなところに座っていては困る。
「アレス、隣に座って。あなたもお世話係なんだから」
ソファに移動したリーシャが促すとアレスは少しの躊躇のあとで観念したように隣に座った。
「抱っこしてみる?」
「無理だよ、赤ちゃんなんて見るのも初めてだ」
彼の使用人には住み込みで働いている女性も数多くいる。
だとしてもさすがに出産時は実家に帰るため、アレスの身近に赤ん坊がいたことはない。
彼が結婚して子を授かったなら、それが最初の体験となるだろう。
「あなたもいつか父親になるんだから、今のうちに練習しておいたら?」
リーシャがクスクスと笑うとアレスは憮然とした顔で言った。
「気が早いよ、まずは結婚が先だ」
「そうだったわ。せっかく素敵なご令嬢が領地に来てくださったのに、あなたったら逃してしまうんだもの」
「彼女はそういうんじゃない、男爵に頼まれただけだ」
「娘を頼みますって言われたら、イコール結婚ではないの?ほんと、朴念仁なんだから」
リーシャの怒りにもアレスは口をへの字に曲げて、納得していないことを訴えている。
とはいえ、赤ちゃんの頭上でいつまでもいがみ合っていてはよくない気がして、リーシャは話題を変えた。
「アレスはいつ実家に帰るの?」
リーシャの問いにアレスは思いのほか、うろたえた。
「いつって。そのうちだよ」
その返答にリーシャはまたもあきれた。
長期休暇ではあるが実際にはほんの二週間ほどしかないのだ。そのうちなどと言っていたら休暇が明けてしまう。
どうしてここまで彼が渋るのかを考えて、男爵令嬢との婚約がダメになったことに思い至った。
息子の結婚を心待ちにしていない親などおらず、そのチャンスを逃したことをガッカリさせてしまうと考えているのかもしれない。
そう思うならルティナ嬢を逃がさなければよかったのに、と言いたかったが、それはもう何度も言ってきた。
また蒸し返すのはさすがに悪い気がしてリーシャは仕方なく言った。
「いいわ。明日、わたしと一緒に行きましょう」
「本当か?!」
アレスは急に元気のいい声を出す。そこまで両親の怒りを恐れているのだろうか。
「男爵令嬢とのことは、わたしも一緒に謝ってあげるわ」
リーシャは励まそうと彼に笑顔を向けたが、何故かとても嫌そうな顔をされてしまった。
「アレスを送り届けたら戻ってくるわ」
翌日、身支度を整えてアレスの馬車に乗り込んだリーシャは見送りに出てきた兄に告げた。
「そう言わずにゆっくりしてこいよ。アレスのご両親と会うのも久しぶりなんだろう?」
「それはそうだけど」
「うちはすぐに会える距離なんだからまた来ればいい」
そして何故かアレスに、
「お前もいい加減、なんとかしろよ」
と小言にも聞こえるようなことを言っていて、言われているアレスも神妙にしており反論すらしない。
よく分からない状況ではあったが、ともかく、アレスの両親が住む王都に向かって出発した。
アレスの両親はこじんまりとしたタウンハウスの前で待っていてくれた。
「お久しぶりです、先代子爵様、子爵夫人様」
リーシャはタウンハウスの使用人の手を借りて馬車を降りると、礼儀正しく挨拶をした。
「他人行儀な言い方はやめて頂戴」
アレスの母である前子爵夫人は困ったような顔で微笑んでいるが、実際に他人なのだからこれ以上、どう呼べというのだろう。
疑問符を浮かべているリーシャに夫妻も同じ顔をしたところでアレスが両者に声をかけた。
「とりあえず中に入れてくれ」
「それもそうだな」
前子爵の言葉で一同は屋敷の中へと入った。
「ふたりの部屋を案内するわね、すぐにお茶を運ばせるわ」
そう言って夫人が案内したのは、でかでかとしたベッドが真ん中にある寝室とそれに応接室が隣接している、いわゆる既婚者用の客間だった。
「あの、これって」
リーシャの戸惑いにも夫人はにっこりと微笑んで、晩餐で会いましょう、と言って部屋を出るとしっかり扉を閉めて行ってしまった。
ただの雇い主と使用人という関係でしかないふたりが密室にいるなど外聞が悪い。
リーシャは慌てて扉を開けようとしたが、その手をアレスにつかまれてしまった。
「離してください」
「嫌だ」
リーシャの願いにもアレスは間髪入れずに拒否を口にする。
彼にはこの状況が理解できていないのだろうか。
リーシャが文句を言うより先にアレスが言った。
「この部屋をふたりで使えということだよ」
「何を言ってるの?ここは夫婦で使う部屋よ、わたしとアレスは夫婦じゃないわ」
リーシャの反論にアレスは怖いくらい真剣な顔をして言った。
「俺はそれを望んでる」
「え?」
驚くリーシャの目の前でアレスは跪くと彼女の手を取って言った。
「君を愛してるんだ、俺と結婚してほしい」
「考えたこともないわ」
リーシャは慌てて手を引っこ抜こうとするもそうさせてくれるアレスではない。
「考えてくれ」
「無理よ」
「好きな男でもいるのか?」
リーシャは即座に首を左右に振って、まさか、と言った。
「でもあなたを異性として見たことがないもの」
必死の言い訳にも彼は動じない。
「なら、今、この瞬間からそういう風に見てほしい」
「そんなこと言われても」
リーシャが困ったように言えば、アレスは立ち上がって壁に手をつくと、自身とその間に彼女を閉じ込めてしまう。
多くの令嬢が夢中になる程度には整った容姿をしているアレスにこんなことをされたら、何とも思ってないはずのリーシャでもさすがにドキドキしてしまう。
「俺はずっとリーシャが好きだった」
「急に言われても困るわ」
「ずっとアピールしてきた。でも気づいてもらえなかった。だから」
アレスはリーシャの髪をひと房すくうとそれに口づけをし、
「これからはストレートな愛情表現をすることにした」
と艶めいた瞳でうっそりと微笑んだ。
結局、リーシャはアレスと婚約し、結婚式の日を迎えた。
アレスに想いを告げられた頃は彼に特別な思いなど抱いていなかったのだが、そこは美男子のアドバンテージなのか、王子様のような彼に四六時中、愛を囁かれてはさすがのリーシャも陥落してしまったのだ。
「支度はできた?」
様子を見に来たアレスにリーシャは思わず絶句した。
白のタキシードがとても似合っていて、本当に王子様のようだ。
このひとの隣に自分のような平凡な娘が並んでいいものかと心配になる。
リーシャの思いを知ってか知らずか、彼はとろけるような笑顔で甘く微笑んで、
「綺麗だ、リーシャ」
と、うっとりとした口調で言い、触れるだけの口づけをした。
「ダメ、口紅が取れちゃうわ」
「だから触れるだけで我慢した」
そう言う彼は早くも色気をにじませ、目元を潤ませている。
「リーシャと結婚できるなんて夢みたいだ」
アレスはリーシャのうなじに口づけをしている、唇はダメだと言われたからだろう。
いつもは隠れているそこも今日は結い上げている為、あらわになっていた。
ちゅっと強く吸われリーシャは慌てた。結婚式の前にみだらな印を付けられては困る。
「アレス、ダメってば」
「ベールで隠れるから問題ない」
「そういうことじゃなくて」
「大丈夫、これは誰にも見せたりしないから安心して」
アレスはそう言ってにっこりと微笑むと側に置いてあったベールをそっとかぶせた。
「絶対に取ってはダメだからね?」
美男子の言い聞かせに恐ろしさを感じたリーシャは、自分の選択が本当に正しかったのか、今更ながらに心配になったのであった。
お読みいただきありがとうございました。