豊胸男
「き、君は、えっと、ふざけているのかな?」
「いいえ。なんのことを仰っているのかわかりかねますが、私はふざけてなどおりません」
とある会社のオフィス。いつも通り、上司に呼びつけられた彼は胸を張ってそう答えた。そう、胸をでん、と。
「は、ははは。何を馬鹿な……その胸。一体何を入れているんだい? 風船か? ビニールボールか? まさかメロンじゃないだろう。ふぅー、こんなクイズやってる暇はないのだけどねぇ。今は業務時間なんだぞ」
「シリコンです」
「……え、じゃあ、それは本物、いや偽物だが本物の胸ということか?」
「はい、その通りです」
「え、え、な、なぜ? えっと君はいわゆるそっちの気が、あ、ああいや、忘れてくれそういうのはな、うん、聞いちゃいけない世の中だもんなうん」
「それで他に用件は? ないのなら席に戻りたいのですが。業務時間中なので」
「あ、うん……あの、いや、うん……」
わざわざみんなの前で呼び出したのは彼をいつものように叱りつけるためであったが(もはや朝のルーティーンと化していた)そんな気はどこへやら。上司は堂々とした背中を見送ることしかできなかった。自分の席に戻った彼を見ていたのは当然、上司だけにあらず同僚たち、その声を潜めていたがオフィス内は彼の話で持ちきりであった。
「なんだあいつ……どうしちまったんだ?」
「アルファベットで言うところのなんだ」
「Gだろ」
「ゲイか?」
「いやGカップだ。あれはでけーぞ」
「ねえ、あれ気持ち悪くない」
「しっ、そんなこと言ったら差別主義だって非難されるわ」
「弁護士に相談するって言われちゃうかもよ」
嘲笑半分恐怖半分。疑念は百。なぜ。なぜ。なぜ。
彼がなぜ豊胸したか端的に言えば、どうかしていた。その一言に尽きる。
本人の能力不足は否定できないが叱咤叱咤、パワハラの毎日。そして、ある夕方。フラフラと街を歩いていた彼が見かけた看板。
『人生を変えたければ豊胸しろ』
ライトアップされ、より白い歯を見せ二ッと笑う白衣の男の写真。
彼はその場で「変えたいです……」と呟き、次いで赴いたクリニックにて本人に「変えたいです!」と叫べば己を含め、もはや止める者なし。今に至る。
これにより彼の人生は確かに変わった。劇的に。周りの者の視線。触らぬ神に祟りなしとは、神側ならばそう悪い話ではない。少なくとも、今までのように酷い扱いを受けることはなくなったのだから。
会社だけでなく、満員電車。隣に立っていた者の手が彼の胸に当たり、おっと失礼とややニヤつき謝る相手。いいえと彼が微笑むと相手はギョッとした顔。喜んでいいものかどうかなんなのかと首を二度傾げる。それがどこか面白かった。
文字通り胸を張って歩けば周りの視線を集め、心地良い。営業先では戸惑われはするが、恐らく無意識いや、潜在意識だろう、ぞんざいに扱われることはなかった。多様性が叫ばれるこの時代の流れもあるが巨乳が嫌いな男はいないわけだ。
日が経つと気味悪がっていた周りも慣れたのか、男の同僚は彼と胸に向かって「おっす」と微笑み、女の同僚は化粧を教えてあげるとお節介をしたがり、少なくとも前より居心地は良かった。
そして、問題の上司はというと……
「わ、私、いや、ぼ、僕は気づいてしまったんだ。ぼ、ぼくがその君に、そ、そのパワハラというか、い、意地悪をしていたのはその、好きな子にする、そういうアレであったと、き、君の女性的部分を無意識に感じていたんだ!
ぼ、ぼくは結婚どころか彼女がいたこともないから、そ、そんな風でしか君に接することができなかったんだ。ご、ごめんよ、ぼ、ぼくを許してほしい……き、君が望むならそこから飛び降りてもいい! だ、だから、もしそれで生きていたら、僕と付き合って、そ、それかし、死んでしまったら、あ、愛して欲しぃ……」
電気も点けず、薄暗い会議室に二人きり。窓から差し込む薄日が日に焼けたように赤くした上司の顔を彼に晒す。
上司は膝をつき、おいおいとむせび泣いた。
その告白は当然、気の迷いどころか気の狂い。彼の狂気が伝播したに過ぎないのだが舞い込んだ復讐のチャンスに彼は窓の外に目を向ける。
……そして、視線を影の中で蹲る上司に戻すと、彼は膝をつき上司を優しく抱きしめた。
彼は許したのだ。かつて散々パワハラを受け、死にたい果ては殺したいと思うほど憎んでいた相手なのにもかかわらず。
彼は彼で胸を大きくしたことで、母性が育まれていたのである。