離れがたい夜
美代さんが帰ってからは、いつも通りの一日だった。ただ、玉葉様は夕食が済んだあとも、奥の部屋にこもって作業をしてる。いつもなら、文車さんと咬神さんが帰ったら部屋から出てくるのに。
先に寝てて構わないとは言われたけれど、少し根を詰めすぎな気がする。
だから息抜き用に、お茶と落雁を持ってきたんだけれど……
「すぅ……、すぅ……」
……襖の向こうから、微かな寝息がきこえてくる。
これは、なにか掛けるものを持ってきたほうが、よかったかもしれない。いったんお茶とお菓子を片付けてこないと。
「うー……ん? あき、ら?」
不意に、眠たげな声が聞こえてきた。息抜きにどころか、お休みのところを起こしてしまった……。
「どうしたの? 怖い夢でも見ちゃった?」
「いえ、お茶と落雁をお持ちしたのですが……」
「ああ、それはすごく助かるよ、ありがとう。ちょっと散らかってるけど、入っておいで」
「はい、失礼いたします」
襖の開けると、背中から黒い「手」を無数に伸ばして、赤い目をこする玉葉様の姿があった。部屋の天井や壁や床、それと多分机や棚のようなものにまで「手」が這って、覆いつくしてる。
「ふふっ、ごめんね、ちょっと怖かったかな?」
「いえ、そんなことはないんですが……、一体なにをなさっていたんですか?」
「例の写しを完成させるのに、この部屋を使うから、その準備だよ」
「そう、ですか」
「うん。大掛かりだから大変だけど、一段落はついたから休憩にするよ」
蔓延った「手」がスルスルと退いて、白っぽい床が現れた。
「ちょっと冷たいかもしれないけど、こっちへおいで」
「はい」
足を踏み入れると、言われた通りひんやりとした感触があった。それに、少し柔らかい。
「ふふっ、歩き心地はどうかな?」
「なんだか不思議な感じがします」
「そっか。滑ったりはしない?」
「あ、はい。大丈夫です」
「うんうん。なら、床の準備はそろそろ大丈夫かな」
「こんなに大きな部屋の床を全部張り替えるなんて、大変ですね……」
「たしかに、さすがに疲れたよ……、あ、お茶とお菓子はここに置いてね」
「はい」
玉葉様の前にある、腰くらいの高さをした塊からも「手」が退いていく。出てきたのは、床と似たツルツルした質感の机。お茶と落雁を載せたお盆を置くと、ほんの少し天板が沈み込んだ。なんだか、座布団みたいだなぁ……。
「明も眠いのに、ありがとうね」
「あ、いえ」
不意に、「手」に頭を撫でられた。
「あまり眠くなかったので、大丈夫です」
「そっか……、やっぱり、昼間庭に来たっていう、長谷君たちのことが気がかりになったのかな?」
「えっと……、そうです」
もう痛み止めの効果も切れてるだろうし、美代さんがまた苦しんでるかもしれない。それに……。
「まあ、五日後の術が終われば、あの子は痛みから解放されるから」
「そう、ですよね……」
「うん。だから、明が気に病まなくても大丈夫だよ」
「ん……」
温かな「手」が、優しく頬をなでる。心地よいはずなのに、なんだか胸が苦しい。
思わず手を添えて握りしめると、赤い目が軽く見開かれた。
「明? 大丈夫? どこか痛むの?」
「いえ……、そういうわけでは、ない、です……、ただ少しこうしていても、いいですか?」
「……うん、構わないよ」
「ありがとう、ございます」
それからしばらく、落雁を食べる玉葉様の傍で「手」を握り続けた。
「……ところでさ、明」
お茶を飲み終え懐紙で口元をぬぐいながら、玉葉様がこちらを向いた。
「……はい、なんでしょうか?」
「あの写しの子のこと、どう思った?」
「えっと……、苦しそうだな、と思いました」
「他には?」
「はい、あとは、穏やかな方なんだな、と」
「そっか……、あとさ……」
赤い目がほんの少しだけ、伏せられる。
「……あの子が長谷君の奥さん本人だとは、思えたかい?」
「……いえ」
美代さんは、長谷さんのことをずっと「はせ」と呼んでたし、長谷さんに殺された思い出もあると言っていた。
「……そっか。なら、身体を完成させる術が終わったら、あの子は奥さん本人になると思う?」
「……多分、ならないんじゃないかと」
自分でも、別の人だと思ってる様子だったから。
「……そうだよね」
行燈の灯に照らされた顔に、苦笑いが浮かんだ。
「でも、長谷さんとの思い出も残ってるようでしたし、嫌いじゃないとも言ってたので、ひょっとしたらということも……」
「うん。そうなれば、いいよね」
寂しげな声とともに、頬に触れた「手」がトクリと脈打った。
「……」
最近、美代さんたちのことでお忙しいかったのは知ってるし、今も部屋の回想でお疲れのはず。
それでも。
「あの、玉葉様さま」
「ん? どうしたのかな?」
「このまま、続きを……」
「うん、いいよ。おいで」
「はい……」
胸に体を寄せると、背中に温かい腕が回さた。
「僕も、明を離したくない気分だから」
「ん……」
耳元で囁く声と一緒に、「手」が身体中に絡みつく。
玉葉様に触れていられる時間が、少しでも長く続きますように。




