陽だまりの中へ
一緒に暮らすことが決まると、玉葉様は一度部屋を出て、緑色の湯呑みを手に戻ってきた。
「お待たせ。応急処置はしてあるけど、お腹空いているだろう?」
「あ……、はい……」
「なら、ひとまずこれを飲みなさい。水分と栄養が摂れるからね」
差し出された湯呑みから、甘い香りが漂ってくる。
中身は……、甘酒に似てるな……。
「さあ、どうぞ」
「ありがとう、ございます……あっ!?」
受け取ったそばから、湯呑みを落としそうになってしまった。
湯呑みって、こんなに重かったっけ……?
「うーん、予想以上に体が弱ってるみたいだね」
「すみません……。せっかく頂いたものを無駄にするところでした……」
「ふふ、そんなことは気にしなくて大丈夫だよ。それよりも、一人で飲めそうかな?」
「……」
正直なところ、湯呑みを持つので精一杯かも……。
「難しそうなら、口移しで飲ませてあげるしかないけど……」
金色の目が、楽しそうに細められた。
「どうする?」
「あ、いえ……、一人で大丈夫です……」
「そう、それは残念。じゃあ、気をつけて召し上がれ」
「はい、いただきます」
重い湯呑みを持ち上げて、中身を一口飲むと、口の中いっぱいに甘い香りが広がった。
美味しい。
「あまり急に飲んでは駄目だよ。ゆっくり、少しずつね」
「ん……」
言われたとおりに飲み進めていくと、だんだん手が震えてきた。
「ふむ、つらそうだね。やっぱり、口移しで……」
「ぅうん」
「えー、そんなにすぐに、首を横に振らなくてもいいじゃないかー」
玉葉様は唇を尖らせて、大袈裟に拗ねた顔をした。
「……っぷは。もうしわけ、ありません。でも、汚れていますから」
だから、こんな綺麗な方と、唇を合わせたりしたらいけない。
「命に関わることなんだから、そのくらいの汚れなんて気にしないのに……。でも、たしかに、このままだと身体に悪いからね。湯浴みの用意はしてあるよ」
「ありがとう、ございます」
「いえいえ。でも、思った以上に弱ってるし、一人にするのは危ないか……」
ひょっとして、湯浴みを手伝うって話になるのかな……。
「あ、えーと、お気遣いはありがたいのですが、一人でも……」
「そんなこと言って、湯船で溺れたりしたらどうするの。でも、さすがに年頃の女の子の湯浴みを手伝うのは、まずいしな……」
よかった、思いとどまってくれた……
「まあ、明は僕のものなんだし、別に問題はないか」
……わけじゃなかったみたいだ。
「さ、湯殿に案内しようね」
「あの、本当に一人で大丈夫ですから……」
「湯呑みすら落としそうになる状態の人を一人にするわけにはいきません」
「でも……」
「駄目なものは駄目」
「うぅ……」
どうしたら、納得してくれるんだろう……。
パタパタパタパタ
あれ?
誰か、こっちに来る?
「玉葉様ー、今期分のあやかし一覧できましたよー」
縁側の廊下から、巻物をたくさん抱えた女の人が顔を出した。
結ってない髪に、丸い眉毛、寺子屋で見せてもらった絵巻物にいた気がする着物。
すごく古風な格好だけど、この人もあやかしなのかな?
「あ、文車、ありがとう。結構な量になったね」
「まあ、最近はここらに住むあやかしも増えましたからね。ところで、その子は新入りのあやかしですか?」
文車と呼ばれた女の人が、こちらを見て首をかしげた。
「ううん、人間だよ」
「……は? 人、間?」
「そう。明っていうんだ。さっき拾ったの」
「拾ったのって……、なに平然と言ってるんですか!? 犬猫の子じゃないんですよ!? ちゃんともと居た所に、帰してくださいよ!」
「えー、でも、この森の長への捧げ物として、社の下に埋められてたんだよ?」
「……捧げ物?」
「そう。ほら、よく見てみなよ」
玉葉様に促され、文車さんがこっちに顔を向けて目を凝らす。
「これなら、僕が貰った方がよっぽどいいと思わない?」
「ああ、まあこれは……、そうですね……」
「だよねー」
よく分からないけれど、二人はうなずきあった。
本当は早く帰って、家の人に尽くさないといけないんだけどな……。
「まあ、事情は大体分かりましたよ。最後の巻にまだ余裕があるんで、但し書き付きであやかし一覧に載せときますね」
「あ、それは確認がてら、こっちでやっておくからいいよ。それより、明の湯浴みを手伝ってあげてくれない? 僕がしようとしたら、断られちゃって」
「当たり前ですよ。なんてことしようとしてるんですか、この助平」
「ふふ、相変わらず手厳しいなぁ。じゃあ、お願いね」
「かしこまりました、湯帷子とか手拭いとか、諸々借りますよ」
「うん。湯殿に用意してあるから、自由に使って」
二人の間で話がどんどん進んでいく。
「というわけで、この文車に湯浴みを手伝ってもらうってことでいいかな?」
「あ、はい。でも、文車さんのご迷惑になるんじゃ……」
「全然問題ないよ。ね、文車?」
玉葉様が首をかしげると、文車さんはコクリと頷いた。
「そうそう。大変な目に遭ったんだから、今は他人の迷惑がどうとか考えずに甘えときな」
「ありがとう、ございます……」
「ははっ、いいのいいの。それじゃ、連れてくから手を貸して」
「あ、はい……」
それから、文車さん支えられて廊下を進み、湯殿に移動した。
広い洗い場に、大きな湯船。家にあった湯殿よりも、ずっと大きいな……、お掃除が大変そうだ。
「それじゃあ、背中と髪は私が洗うから、お腹の方とかはこれ使って自分で洗いななね」
いつのまにか白い浴衣に着替えていた文車さんに、手拭いと白い塊を差し出された。いい香りがするけど、これはなんだろう?
「ん? ああ、そうか。石鹸使ったことないのか」
「えーと……、はい……、物知らずですみません……」
「ははっ、別に謝ることじゃないよ。ほとんどが舶来品だから、あんまり世間に出回ってないみたいだし」
「舶来品!? そんな貴重な物……、私なんかが使っていいのでしょうか?」
それに、お言葉に甘えてしまったけど、そもそも湯殿を使わせてもらうのだって恐れ多いよね……。
今からでもタライを借りて、いつもみたいに外で行水にした方がいいのかも。
「いいの、いいの。ほら、今はあれこれ考えずに、素直に甘えとく。さっきも言ったでしょ」
不意に、頭をポンと撫でられた。
「でも……」
「これ以上つべこべ言うと、玉葉様に代わってもらうよ?」
「……すみません。ありがたく使わせていただきます」
「うん、よろしい!」
……今は大人しく、お言葉に甘えておこう。
湯気が溢れる洗い場で、文車さんに石鹸の使い方を教えてもらいながら、身体を洗った。ところどころ泡がしみたけれど、香りもいいし、汚れもよく落ちてる。
これで、全部の汚れが落ちてくれたらいいのにな……。
「さて、髪の香油も馴染んだし……、じゃあ流すよ」
「あ、はい。お願いします」
「はーい、目つむってー」
温かなお湯が、頭から注がれる。水と違って、胸の辺りが痛くならないな……。
「はい、綺麗になった。もう、目開けていいよ」
「ありがとう、ございます」
「いえいえ。じゃあ、あとはゆっくり温まりなね」
「はい」
身体を支えられながら、湯船に入った。温かいお湯に浸かるうちに、手足が動かしやすくなっていく。
これなら、明日からは働けるかな……。
「湯加減はどう?」
「はい、ちょうどいいんだと、思います」
「それはよかった」
「ただ、ちょっとだけ、フラフラしてきたのですが……」
「おっと、それは大変。じゃあ、そろそろあがろうか」
「はい」
身体を支えられながら湯船を出て、用意してあった藍染めの浴衣に着替えた。その途端、文車さんが不服そうに頬を膨らませた。
「まったく、玉葉様ったら、こんなブカブカなのを寄越して……」
「いえ、私が急にお邪魔してしまったので……、それに、風通しがよくて着心地がいいですから……」
「そう? でも、せっかくだから、あとで家から色々持ってくるよ」
「すみません、色々と気にかけていただいて……」
「ははっ、気にしないで。それじゃ、髪を乾かしにいこうか」
「はい」
湯浴みの前より動くようになった脚で縁側に戻ると、庭を見渡せる位置に座布団が敷いてあった。
「お水もらってくるから、庭でも眺めながら休んでて」
「はい、ありがとうございます」
「いえいえ。それじゃ」
鼻歌まじりに、文車さんは去っていく。
「よいしょ……」
座布団に腰を下ろすと、庭からほんのり甘い香りのする風が吹いてきた。池の周りに咲いてる、ツツジの香りかな?
陽射しも暖かいし、風も気持ちいいし、なんだか眠くなってきたな……。
「ふふ、そんな格好で眠ったら、また身体が痛くなっちゃうよ?」
「!?」
いつのまにか、玉葉様が真後ろにいた。
「す、すみません! はしたない真似をしてしまって!」
「別にはしたなくはないし、謝らなくていいんだよ。それより、湯浴みはどうだったかな?」
「は、はい。おかげさまでサッパリしましたし、身体が少し動かしやすくなりました。ありがとう、ございます」
「ふふ、それなら何よりだ。じゃあ、今度はゆっくり一緒に入ろうね」
「は、はい……、え?」
何か今、勢いでとんでもない言葉に頷いてしまったような……。
「こら、玉葉様。あんまりからかったら駄目ですよ」
不意に聞こえた声に顔を向けると、文車さんが湯呑みを片手に後ろにいた。
「ふふ、つい可愛くてね」
「可愛いからって、年頃の娘の湯浴みに同行しようとしないでください。ほら、明、水だよ」
「あ、ありがとう、ございます」
湯呑みを受け取ると、さっきみたいに落としそうにはならなかった。まだちょっと重く感じるけど、これなら大丈夫かも。
「うん、さっきより上手く飲めてるね。でも、口移しの機会がなくなったのは残念だなぁ……」
「また、そんなこと言って……、明、なんか変なことされそうになったら、引っ叩いていいからね」
「……っぷは。大、丈夫ですよ、ただの冗談でしょうから」
もしも、本当に何かする気なら、もう行動してるはずだから。
……それに、こんなに綺麗な人が私なんかに、何かするなんてあるわけがない。
「冗談と思われるのは心外だなぁ……、まあ、それは置いておこうか。それよりも、眠くなってきたようだし、また少し休んでいなさい」
「そうだね。身体が弱ってるときは眠るのが一番だよ」
二人にそう言われると、眠気がまた戻ってきた。
この状態でなにかしてもご迷惑になりそうだから、お言葉に甘えてしまおうかな。
「ありがとう、ございます……、土間は、どちらに、ありますか?」
「……え? 土間?」
「……は? 土間?」
玉葉様と文車さんが、ほぼ同時に同じような問いを口に出した。
何を驚いてるんだろう……?
「えっと……、私のような卑しい生まれのものは、土間に筵で寝ないと、いけないんですよね?」
「……」
「……」
家の人たちがそう言っていたから、これが礼儀のはず……。
「……文車、大至急、寝屋に布団敷いてきて」
「……かしこまりました。その前に、大急ぎで家から濡れちゃってもいい乱れ髪箱、持ってきます」
「うん、お願い」
「では、行ってまいります」
文車さんがバタバタと足音を立てて、縁側から去っていく。
「よしよし、明、今用意してるからね」
なぜか、玉葉様が頭を撫でてくれた。
「眠たかったら、このまま僕に寄りかかって寝ても大丈夫だよ」
「あ、りがとう……、ござい……、ます……?」
なんだか騒がせてしまって申し訳ないけど、目を開けてられないくらい眠い……。
起きたら、お二人にちゃんと謝らなくちゃ……。