赤い夢の終わり
少女の夢を見た。桜の木の下で、笑顔を浮かべながら踊りを舞う夢だ。目覚めた時、それがひどく美しい光景だったことだけを覚えていた。
絵を描いていた。夢から降りてきたインスピレーションに、とにかく夢中になっていた。アトリエとは言い難い狭い部屋に篭り、夢で見た桜の絵を何枚も描いた。
だけれども、再現できたものは一枚たりと存在しない。
諦めずに今日も絵を描く。表現できないもどかしさと、焦燥感だけが僕を動かしていた。
アパートの狭い部屋に絵具の匂いが立ち込める。僕と彼女がそこにいた。
「なんで桜なのに赤色なの?」
絵を覗き込んだ彼女は笑った。
「夢で見たままを描いてるから」と、僕は言った。
「見たまんまを描いてるのに描けないんだ」
カラカラと笑い声をあげた彼女の瞳孔は開いていた。コップと薬の空き瓶がキッチンに転がっていた。それに気づいた僕は、ため息をそっとつく。
「また落ち込んでる、才能がないって言いそうになってる」
「才能があったらこんなところに住んでないし──」
「アタシとも付き合ってない?」
彼女は部屋の中で踊り始める。笑顔のまま舞う彼女は、僕の夢の真似をし始めていた。
「そのまま、少し踊っててくれないか?」
「いいよ、今は気分がいいし」
彼女を見つめて筆を動かした。ハイになっていた彼女は踊りながらも口を動かした。
「ねぇ、好きな人のためなら死ねる?」
「好きな絵を描くためなら死ねるよ」
「じゃあ私もそのために死んであげるね」
ずっと笑顔だった。その言葉がどこまで本気なのか確かめる気もなかった。ただ、絵が完成すればいい。そう思っていた。
「どう? 描けた?」
踊り疲れた彼女は、再び絵を確認する。そして、目を細め、唇を吊り上げた。
「さっきのと同じに見えるね」
「……そうだね」
「また落ち込んでる。慰めてあげよっか」
「汚い体なんて抱きたくない」
服を脱ぎ、下着に手をかけた彼女に僕は筆を投げつける。赤の絵具が足に付着して、まるで血が流れたような跡になる。
ぼーっとそれを眺めていた彼女はヘラヘラと笑う。
「ナプキンつけてないみたいになったじゃん」
「君は楽しそうでいいね」
「まだ薬あるけど飲む? 初心者は一瓶飲まなくても結構効くよ?」
そんな言葉を無視して僕は立ち上がる。乾いていない絵をクシャクシャにして、ゴミ箱へと放り投げた。しかし、彼女がそれを拾い上げる。
「結局、何が違うの?」
「多分、桜の色が違うんだと思う。僕が描いた赤は、夢の赤と違うんだ」
「……捨てちゃうの?」
クシャクシャになった夢の絵を広げた彼女は悲しげに見えた。
「捨てるよ、だってさっきのと一緒なんだろ?」
「……夢の赤ってさ、もしかしてこんな色だった?」
彼女の手には、赤がついていた。さっき絵具を投げた時だろうか。それとも、元から着いていたのだろうか。それは僕にはわからなかった。
だけれども、その赤は、僕が作った赤よりもずっと綺麗な色をしていたのだ。だから、僕は黙って頷いた。
彼女は少し考え込んで、それからまた、にこりと笑って見せる。
「そっか、じゃあ見に行こうよ、桜。この赤色を見せてあげる」
その言葉を信じた僕は、彼女に手を引かれて外へ繰り出す。近くの公園には誰もいなかった。簡素な遊具と桜だけがそこにあった。
絵を描く準備をする僕を尻目に、彼女は桜の木の下へと陣取る。そして、ポッケから剃刀を出した。それを躊躇いもせずに、自身の首元に当てた。
僕も止める気はなかった。ただ見守っていた。
彼女はにっこりと微笑む。相変わらず、瞳孔は開いたままだった。
「アタシね、思うんだ。貴方の夢の赤はこの赤じゃないかなって」
まっすぐと、そして力一杯に剃刀が引かれる。すると、首筋から赤の原色が飛び出していく。そして、ゆっくりと彼女は舞い始めるのだ。
一滴一滴、丹念に振り撒かれた赤は、桜の花びらへと付着し、鮮やかさを添える。
僕はそれを絵に描かないといけなかった。
だけれども、僕はその光景に見入ってしまった。それは夢で見た通り、確かに美しかったのだ。
そのせいだろうか、絵を完成させることはできなかった。
アパートの狭い部屋に絵具の匂いが立ち込める。僕と別の女がそこにいた。
筆はもう持っていなかった。あの赤を描くのには筆が必要ないからだ。
彼女は笑った。
「ねぇ、なんでこの桜は赤色なの?」
「あぁ、それはね──」
彼女の後ろに立った僕はまっすぐと、そして力一杯に引く。
絵の完成が、近づいていた。