1話 ショートケーキ
「さっき思った言葉は本当にそう思っている。そう考えてもいいのかい??」
頭の中に突然現れた少女は念押しをするかのように問いかけてきた。
いつのまにか彼女は目の前へと移動していたのか、ひどく距離感が近い。
「そ、そうよ。あの人のためなら私は…。」
「そうかい。君の想いの深さはよくわかったよ」
私の頷きに対して、少女は微笑んだ。
その微笑みはどこか怪しい色を孕んではいたが、藁にも縋りたかった私には
それが何を意味するのかは見えていなかった。
「あの人を目覚めさせてあげよう。」
少女はさも簡単に目覚めさせることができるといった口ぶりだ。
病院の先生たちは散々匙を投げたというのに・・・。
本当にそんなことが可能なのだろうか。
「ただし・・・。」
少女の言葉はまだ終わっていなかったようで、その小さな口が新たな言葉を紡ぐ。
「一つ条件がある。」
「じ、条件・・・?」
何の対価もなく、願いが叶うだなんて思ってはいなかった。
そもそも、願いが本当にかなうのかという事自体怪しいのに・・・。
「あ~。そんなにも構えなくてもいい。そんな無理な条件は付けない。
貴方の命を差し出せ。とか。誰か別の人の命を差し出せとは言わん。
ただただ簡単なお願いを聞いてもらうだけだから。」
「お、お願い・・・?」
思わず聞き返してしまう。
お願いを聞くだけ。それも彼女曰く簡単なお願いを聞くだけで
あの人を目覚めさせてくれるらしい。
「ただし一つではない。50個の願いをあなたに聞いてもらう。
50の願いが全て叶った時、あの人を目覚めさせよう。どうだ??」
「分かりました。それであの人が目覚めるならします。いやさせてください!!」
心の底から彼女のことを信用したわけではない。
迷う気持ちも確かにあった。
けれども、もう医学の力や自分の想いだけではどうにもならないあの人を
どうにかして目覚めさせたかった私にとって、もう迷っている時間はないと感じた。
藁にも縋る。いやこの不思議な少女に縋るしかなかった。
「その願い聞き届けたり。」
少女は満面の笑みを浮かべると、私の手を優しく握りしめる。
「ここかな。」
私はスマホに出された地図アプリの店舗写真と目の前にあるお店を見比べる。
街の外観も周りの景色も写真の通り。
そして100人は優に超えるだろう人の列。
何回も見直したが、やはりここであるという確信が増すばかり。
「Königin-Erdbeere」
そのお店は有名なケーキ屋だった。
世界的に活躍していたパティシエがこの日本で出店してわずか1年
ケーキ専門雑誌にはいつもこのお店の特集があり、
毎日、人の列で歩道の片側が埋め尽くされてるというほどの人気を誇っている。
特徴としては精巧な飴細工で彩られた様々な色合いのケーキという外面的要素に加え
ケーキの生地はふわふわで舌の中でとろけ、一口食べれば夢の国へ誘われるような
濃厚な味わいであるにも関わらず、飽きを感じさせない味わいで手を休めることなく食べられるという内面的要素を内包した魅惑のケーキの数々。
そして、その中でもとりわけ人気を博しているのは、ショートケーキだと言われている。
そのケーキを一口でも食べてしまったものは、今まで食べてきたケーキの記憶を
優に超える味わいで書き換えられ、他のケーキを口にすることができなくなるのだとか。
そして、そんな魔性のケーキを私は今から買わなければならない。
その事を思い出すと、足取りが重くなっていく。
迷っているうちにまた一人また一人と列に人が増えていく。
「はぁ~」
このままでは目当てのケーキが買えなくなってしまうのではないか
私は深いため息を一つつき、列へと並んだ。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
あれから1時間以上並んだ末に店内に入ることのできた私の目の前に
ショートケーキはなかった。
仕方なく、他のケーキを数種買うも思わず深いため息が出てしまう。
(あと数分、いや数十分早く着いていたら買えたかもしれない。
いやもしかしたら、迷わずにパッと列に並んでいれば…。はぁ~)
後悔ばかりが取り留めもなく、溢れていく。
その度に追加のため息まで出てしまう。
「はぁ~」
家の前に着くまでに何度ため息をついたことだろう。
ため息をつくたびに人の幸せは逃げていくと言われているくらいだ。
きっと私の幸せ指数は今極限まで下がっていることだろう。
(はぁ。まず最初のお願いがKönigin-Erdbeereのショートケーキを食べるだなんて…。)
その日、私は後悔をかき消すかのようにケーキを貪った結果、体重が2kg増えた。
「よし!!ついに買えた~!!」
あの雪辱の日から3ヶ月後、私はようやくあのショートケーキを購入することが出来た。
あれから1週間おきに挑戦をしていた。
やはり大人気商品なだけあって、先頭に並ばなければ買うことができなかったようで、
この日は朝の7時から並んでいた。
もう今となっては常連にカウントされるようになってしまった私は
店員さんと世間話をするまでになっていた。
あの人が眠りに落ちてから人と極力接してこなかったが、
やはり人とお話をするというのは楽しくて、一瞬だけでも嫌なことを忘れられるのだと
思い出すことができた。
「フンフフ~ン、フフフ~ン♪♪」
やっと欲しかったものを手に入れることができた充足感と幸福感に包まれる帰路は
最初に変えなかった時とは全く別物に感じられた。
「それじゃあ、いただきま~す」
念願のショートケーキを目の前に手を合わせる。
あの人がああなって以来、食にも無頓着になっていたのが嘘のように
今から味わえることで胸を膨らませていた。
(そういえば、あの人ショートケーキだけは食べれたんだよね。
他のケーキは無理なのに・・・)
ケーキにフォークを突き刺した途端、そんな記憶が脳内に沸き上がった。
ケーキを買いに行くときもショートケーキを入手した時だって、
そんな思い出が過ることなどなかったのに突然それは甦った。
まるで固く閉じられていた記憶の蓋がほんの少しだけ開いてしまったような…。
思わずその思い出に寂しさを感じ、しんみりとしてしまう。
(どうして、忘れていたんだろう。あの人との大切な思い出なのに・・・。)
ケーキにフォークを刺したまま
時が止まっているかのように、手は動かない。
あの人を眠りから覚ますためにはこのケーキを食べなくてはならない。
そんな使命にも似た願いが頭を過り、やっとフォークで刺したケーキは口の中へ
しかし、口の中へ入れることのできた瞬間、スポンジは一瞬のうちに舌の上で溶け、
口の中を言い知れようのない程の甘みが襲ってきた。
(へ?、な、何、こ、こ、こ、このケーキ!?)
瞬間的に耐えきれないほどの幸福感ともっと食べたいという欲求が生まれ、
私は本能の赴くままにさっきまで食べることのできなかったケーキを貪った。
「ふぅ~美味しかったぁ。
これは本当にもう他のケーキを食べられなくなったかもしれない」
あまりの美味しさに気が付いた時にはお皿の上にクリーム一つ残っていなかった。
あの噂は真実なのかもしれない。
私の口角はいつの間にか上がりきっていて、満面の笑みになっていた。
ただこれだけの幸福感を感じている一方で気掛かりなことがあった。
(どうして、私躊躇していたんだろう・・・。)
思い出そうとしても、どうしても思い出すことができそうもない。
「う~ん、どうしてだったんだろう。でもま、いいかな・・・。
また買いにいこっと!!」
私は早々に思い出すことを諦め、ケーキの入っていた箱とお皿を片付け始めた。