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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

薄緑

作者: 秋山杏

夏のホラー2018に投稿予定の作品でしたが、参加表明を忘れていたので通常投稿にて供養させていただきます。



   薄緑


             秋山 杏


     1

 


  微かな硝煙の臭いと、スプリンクラーが作動して水を噴射する音。しばらくして瞼を開けると、揺蕩う赤色を知覚した。

 感覚器官が再起動を始めたように、次々と情報が脳へと伝達される。稼働率が四割程度を超えたであろうところで感じたものは、頭部の激しい痛みだった。

 思わず左手を頭部にあてがってみると、原因は外傷ではない事が分かった。それから十数秒して稼働率は七割、八割とより鮮明になってゆく。

 視界は大きく広がり、自身はうつ伏せていること、この場所が室内であること、鉄の扉を大槌で叩く男が目の前にいること。



 更に十数秒して、八割五分。男が振り返り大槌を僕に振り下ろしたこと。

 八割七分、右腕が無いこと。

 八割九分、男はもうそこに居ないこと。


 九割、月の光が聞こえてくること。

 鉄の扉はもう無いこと。

 月の光が聞こえてくること。

 九割五分、左腕が無いこと。感覚が無いこと。月の光が聞こえてくること。

 もう目覚めない事。

 月の光が聞こえてくること。

 「」はもうここに居ないこと。

 月の光がもう聞こえてこない事。


 鉄格子の中に居た。それを掴むと「」の爪は剥がれ落ちていた。壁には赤の線が無数に見える。白い兎が外から覗いている。「」は手を振る。両腕は無くなっていなかった。カサブランカの花瓶が落ちて割れた。悲しい気持ちになった。

 花瓶からこぼれた水が、冷たい。

 天井に張り付いた梟に声を掛けてみる。

「ここから出して、カサブランカが枯れてしまうから」

 一つ目の黒い梟は、沈黙したまま目を赤く光らせる。やがて白い兎がぞろぞろとやってきて、鉄格子を開けてくれた。

 梟は瞼を閉ざし、再び深い眠りにつく。「」は部屋を出て淡い色をした廊下を真っ直ぐに歩く。ひたひたと素足が床に触れる音だけが鳴り響き、なんだか心地がいい。



 しばらくして、エントランスに出た。窓から漏れた光が湾曲して、不自然に「」を差している。

 階段を降りると大きな扉が待ち構えていて、外に出る事が出来ない。鍵でも掛かっているのかとしゃがみこんでみる。足元には白い花びらが散らばっていた。そうだ、カサブランカを持ってこなければ。「」は踵を返す。

 エントランスはもうなかった。

 木製の椅子に掛けられたラジオと、古ぼけたノートが一冊座っている。「」はラジオのスイッチを入れてみる。何も起こらない。

 ノートを開いてみる。空白がただ続いている。最後のページを捲ってノートを閉じる。

 振り返ると扉は開いている。

 ラジオのスイッチを入れてみる。

 ラジオはノイズを放っている。

 頭が痛くなる。

 空いた扉から外が見える。眩しくて何も見えない。風が吹いている。少しだけ、心地がいい。引き寄せられるように足は動く。やがて音が聞こえる。

 金属を大槌で叩く音が聞こえる。

 ラジオはノイズを放っている。

 拳銃を握る男が立っている。

 ラジオはノイズを放っている。

 男は銃を「」に向けている。

 月の光が聞こえてくる。

 男は銃を自分に向けている。

 月の光が聞こえてくる。

 男は引き金を引く。

 光が包み、風が舞い踊る。そしてカサブランカはとうに枯れていた。

 カサブランカはもう、死んでいた。

 月の光はやがて、聞こえなくなっていた。



     2



  七月も半ばを過ぎて、いよいよ本格的な夏が訪れた。今年は特に猛暑のようで、なんでも数十年ぶりの猛暑だそうだ。毎年聞いているような気もするが。

 幸いなことに湿気はなく、からっとしている。まるで神様が往生際悪く、木陰をつたって歩く僕に諦めろと促しているような気がして、すがすがしいような、見透かされたような不思議な感覚だが悪くはなかった。

 猛暑のせいなのか、やや水位の低い川を横にしながら歩くと、小さな川魚がキラキラと光っている。

 僕は先月の金曜日から、毎週金曜日この道を通ることにしている。正確には、目的地に続く道が、この道一本しかないのだ。



 一つ二つを横断歩道を渡り、横を流れる川がだんだんと大きくなってゆく。それから見えてきた赤い橋を渡り、五十メートルほど直進してから左の路地に入る。すると入口には純和風な狐の置物が突っ立っているアンバランスな洋風の建物に辿り着く。



 扉には彫刻が成され、年季の入った木製の取っ手を引くと微かな鈴の音が響き渡る。

「いらっしゃい」

 鈴の音に呼応するように奥から声が聞こえ、しばらくしてから声の主は姿を現す。

 タイトなジーンズに簡素な無地のTシャツ。その上には『喫茶・和弧』と紺色で刺しゅうされた白のエプロンを掛けた女性。

「こんにちは。いいですか」

 その女性に僕は声を掛ける。目が合った途端に彼女は淡くため息を吐きながら表情を変えた。

「どうぞ、ご自由に」

 気だるげに伸ばした手の先には窓際の席がひとつ。僕が毎週座る席だ。

 案内された椅子に座ると、静かに軋む音がして、なんだか少しだけ気分が落ち着く。僕はテーブルに置かれたメニューを見る事もなく、彼女が席へと訪れるのを待った。



 窓の外をぼうっと眺めていると、木製の床をコツコツと叩くような足音が聞こえて、それが段々と近づいてくるのが分かった。

 僕はそれに振り向くことなく静止して足音の主を待った。

「お待たせ」

 小さくそれだけ呟いて、コーヒーカップを一つテーブルの上に置く。その時僕は、少しだけ彼女のほうを向いてみる。不愛想な事だけを除けば、相変わらず欠点のない女性だ。

 コーヒーカップに口を付けて、やや浅く啜り含める。香りはそこそこ、味は別段美味くもなく、不味くもない。いつも通りの味だ。僕はその没個性なコーヒーを、毎週金曜日の昼下がりに啜っている。

「それと、お目当ての物、ね」

 彼女がそっと差し出した一冊のノート。これこそが、僕がこの店に通う最大の理由だった。

『お客様ノートNo27』と書かれた安っぽいノートを受け取り、ページを捲る。十ページを過ぎた頃に、先週の金曜日の日付が書かれたページに到達する。

そこには先週の僕が書いた文章と、その下に綴られた『あの人』の文章だった。

『7月10日(金) 今日は酷い雨でした。それでもここへ足を運んでしまうのは、きっとこのノートに惹かれてしまうからでしょうね。これから来られる方は、どうかお気を付けて。』

 なんともまあ気障ったらしいものか。先週の自分を消してしまいたくなる。

 やや目をそらしながら、続きを読み進めてゆくと、明らかに自体が変わる。ここからが本題になってくる。

『お気遣いに、感謝します。私が着いた頃には小降りになっていました。外の狐さんも、何だか潤ったような顔をしていました。美味しいコーヒーを頂いていたら、いつの間にか雨は止んでいました。それではまた来週。』

 丸みを帯びた文字で書かれたそれは、7月10日に書かれた最後の文章であると同時に7月17日の今日に至るまでの最後の文章であった。

 僕はその短い文章を指でなぞらえながら何度か繰り返して読んだ。口元が緩くなっているのが自分でも分かる。

『あの人』は毎週金曜日にここへ訪れる。そしていくつかの法則の下で、必ずこのノートに短い文を書き記してゆくのだ。

 先ず、『喫茶・和弧』の別段珍しくもないコーヒーを必ず褒める。これはいくつかページを捲ってみても例外は一切無い。

 次に、必ずその日の最後に書き込みをするという事。これもまた、順守されている。

一度だけ気まぐれと卑しい好奇心で遅い時間に訪れてノートを開いても、何も書き込まれていなかったのだ。

 そして最後に、必ず姿を現さない事。であった。

『7月17日(金) 今日も一番乗りみたいです。何十年ぶりかの猛暑らしいので、アイスコーヒーにすればよかったかな。外の狐は溶け――たりはしてませんね。』

 先週の書き込みになぞらえて少しだけ話題に触れてみる。何とも女々しいことだろうかと思うが、僕はこの絶妙な探り合いというか、紙一重の距離感が好きだった。



 ノートを閉じて、来週を想像しながら二、三口とコーヒーを含んでいると、ゼンマイ式のいかにも古風な振り子時計が重厚感のある定時音を鳴らす。針は三時を指し示している。

すると、奥の方からピアノの音が聞こえてくる。

 僕は今日もドビュッシーか。と思いながら微笑んで耳を傾ける。『月の光』だ。

 不愛想な彼女なりのもてなし、なのだろうか。あるいは、そろそろ出ていけという警鐘のつもりか。真意のほどは彼女にしか分からないが、だいたい振り子時計の定時音と同時くらいに毎回聞こえてくるのだ。

 それは『月の光』であったり、『アラベスク』の時もあれば『夢想』の時もあるのだが、決まってドビュッシーの曲が流れてくる。恐らく彼女の趣味なのだろう。

 月の光が佳境の頃、僕は財布から五百円玉を取り出してテーブルに置き席を立つ。これは経験則だが、以前ピアノを弾き終わるまで目の前で待ってから会計を済ませてみたところ、えもいわれぬ形相で睨まれた事からなるべく干渉しないようにと行っている。

 彼女はきっと、どのように聞こえていたのかだとか、何故ピアノを引くかだといった問答をされたくないのだ。もっと言うと、それらを言い出されそうな雰囲気すらもが気恥ずかしいというか、どうにも苦手で、怒りのような羞恥のような複雑な表情をしたのだと思う。だからこそ、言及もせず、干渉もせず。ただ、『聞いていた』という事だけを伝わるように硬貨を置いて僕は店を出る。

 からん、と扉の鈴が鳴ってから重い扉が閉まり、今週の楽しみは静かな余韻とともに終わりを告げる。番犬ならぬ番狐の頭を撫でてから、僕は帰路についた。



     3


 眩い闇の中で目覚めた。

 ここが世界の中心だと知った。「」とってのホワイトハウスで、「」にとってのエルサレムで、月の光が当たる場所。パラドクスの螺旋を進むと、胎盤に繋がれた無数の星が輝いていた。

 その輝きを掴むことは、きっとしてはいけないことだと思った。何だか途轍もない恐怖を感じた。「」は輝きと真逆の方へと歩くことにした。

 


 白い廊下に出た。それでも歩くことにした。

 途中で大槌を見つけた。「」はそれを持っていくことにした。代わりにカサブランカの花を置いていった。

 途中で拳銃を見つけた。「」はそれを持っていくことにした。変わりにカサブランカの花を置いていった。

 大きな扉が目の前にあった。鍵が掛かっていて、びくともしない。大槌の男はもう居ないから、扉は開かない。

「」は持っていたラジオを大槌で叩き壊してみた。誰かがそれを賞賛した。だが、扉は開かない。

 古ぼけたノートを開いてみる。相変わらず空白だ。何もない。扉は開かない。「」は振り返る。兎が追いかけてくる。

「」は走った。喰い殺されないように逃げた。扉はもうどこにもなかった。辺りは蝙蝠が飛び交っていた。

 螺旋階段を上った。途中で壊れたラジオを拾った。「」はそれを首にかけてから先へ進むことにした。

 


 エントランスに出た。窓から差す光は不自然に屈折して中央にある木製の椅子を照らしていた。大きな扉はもうなかった。仕方がないので椅子に座ることにした。

「」はノートを開いた。空白のままだった。ラジオからノイズが聞こえてくる。

「」はページを捲ってみる。空白のままだった。カサブランカの花びらが、ひらひらと舞い落ちてくる。

「」は更にページを捲ってみる。月の光が聞こえてきた。

「」は更にページを捲ってみる。兎はもう何処にもいなかった。どこか寂しい気持ちが込み上げてきた。

「」は最後のページを捲ってみた。朝は来なかった。

 今日は来なかった。

 昨日が来ることもなかった。

 「」は来なかった。

 月の光はここまで届くことはなかった。ただ悲しかった。

 7月24日が来なかった。

 7月24日が、来ることは決してなかった。

 明日が消えてしまうことも、決してなかった。

 月の光が消えてしまうことも、決してなかった。



 「」は鉄格子の中に居た。壁には赤い一つ目があって、じっと睨めつけている。羽を捥がれた梟は、地面に伏している。

 男が拳銃を突き付けて、赤い一つ目を撃った。「」の左目から涙が零れた。

 カサブランカの花瓶が元通りになっていた。「」は嬉しかった。花を一輪持って行くことにした。

 鉄格子はねじ曲がっていたので、「」は外に出ることにした。風が吹いてきた。

 「」はラジオのスイッチを入れた。ノイズが聞こえてきた。

 「」はラジオのスイッチを入れた。ノイズはより大きくなった。

 「」はラジオを大槌で叩いた。月の光が聞こえてきた。

 月の光の音はより大きくなった。

 眩い闇がまた、「」を包み込んでどこかに消えてしまった。狐が笑っていた。

 狐が、兎を喰い殺していた。



     4



 予想外の先制攻撃を食らって、僕は唖然としていた。

 一週が過ぎて『喫茶・和弧』に顔を出した。先週とそう変わらない不愛想な接客を受けて席に案内される。それからいつも通りの席に腰を下ろし、変わらず椅子の軋む音で和やかな気持ちになっている。

 時間が過ぎるのがやけに早く感じるのか、聞きなれた足音が背後から迫り、振り返ってみる。

「え」

 思わず声が漏れた。

 テーブルに置かれたそれは、見慣れたコーヒーカップではなく、清涼感溢れるグラスだったのだ。

 グラスの中で滑り小さく音を漏らす氷に見とれている内に、紙袋に入ったストローを置かれる。

 考えなかった訳じゃない。

 三つの法則からなる条件をあてはめて逆算すると、むしろ高い確率でこの結果になるのだ。と思考が高速で巡ってゆく。

 出されたのは普段通りのコーヒーではなくて、アイスコーヒーだったのだ。

 僕が驚いているのはこの事象に対する結果ではなく、掛かった獲物が想像以上に聡明であったという事だ。

 先週書き込んだ内容は、可能性を絞る罠の役目もしていた。とはいえそれは途轍もなくチープな罠で、獲物が掛かる事など期待すらできない代物だった。どちらかと言えば牽制の意味合いが大きいだろう。

 ところが『あの人』と言うべきか、それとも彼女と言うべきか、とにかくそれはこの杜撰で安っぽい罠を掻い潜るのではなく、敢えて掛かる事によって探りを入れてきたのだ。

「それと、いつものね」

 思考を遮るようにノートが手渡される。何処かしたり顔のように見えるのは気のせいなのだろうか。まるで答え合わせでもさせるようなタイミングで僕の手の中にやってきたそれを、捲らずにはいられなかった。

『7月17日(金) 今日も一番乗りみたいです。何十年ぶりかの猛暑らしいので、アイスコーヒーにすればよかったかな。外の狐は溶け――たりはしてませんね。』

 先週の文章からすぐ下には、やや見慣れた丸い文字が続いていて、それは更に深みへといざなう謎を孕み、根底を揺るがしていた。

『7月17日(金) 夕方でも全然気温が落ちなくて、びっくりしました。私もアイスコーヒー、頼んでみようかな。なんて。』

 この店に通って一か月と少しが過ぎるが、これは初めての事だった。

 以前仮定した三つの法則、『必ず文章のどこかでこの店のコーヒーを褒める』『書き込まれる文章は、必ずその日最後の文章である』『決して姿を現さない』に於けるAの法則『必ずこの店のコーヒーを褒める』が崩壊しているのだ。

 No27以前のノートに書かれた文章については知りえないのだが、少なくとも僕が通い始めた六月中旬以降から一度も破られた事のない法則がいとも簡単に消し去られている。これが大いに曲者で、意図が見えてくるように期待させては、陽炎のようにまどろみ曖昧になってゆく。

 状況を整理しよう。

 先ず、一番大きな議題として、『彼女』は『あの人』であるかどうか、という一点である。

 これを判断するにはAの法則、そして続く『文章は必ずその日最後に書き込まれる』というBの法則は重要な要素なのだ。

 あくまで主観的判断なのだが、そもそも『喫茶・和弧』のコーヒーは毎週絶賛される程たいそうな代物ではない。寧ろその逆で、大衆店や各地の場末に広がる有象無象な喫茶店と大差はない。

 それを『あの人』は毎週必ず絶賛し、まるで名店に訪れたような振舞いをしている。この不自然ないわゆる「ゴリ押し」がAの法則における『あの人』正体を示唆している。

 続いてBの法則では、『あの人』は必ずノートの殿に控えている。これは単純に客が入らなくなる時間帯、つまりは閉店後や開店前にノートを確認して書き込んでいるからと推察する。これについては時間をずらして来店した前例が裏付けている。

 したがってこの二点、ABの法則は『彼女』と『あの人』を等号する確証に大きく肉付けしているのだ。

 勿論、可能性や確率の話であって、やたらコーヒーを褒めているのは単純に店の雰囲気に飲まれているだけだとか、僕が来店する時間をずらした日に偶然『あの人』もずれてしまったというifの要素も存在する。とはいえ本筋では前述の推理の方が可能性として、また確率として優れた数値であることには間違いない。

 つまり、今日『喫茶・和弧』に訪れるまでの推察では、決して低い数値ではないが、否定する材料も幾何かは存在していた。という事になるのだ。


 ところが現状になってどうだろうか。

 『彼女』はノートに記載された僕の文章からしか知りえない情報を元にして、頼んでもいないアイスコーヒーを提供した。更に『あの人』はABCの法則の内、Aを破棄して思考を阻もうとしている。これを先制攻撃と言わずになんと比喩すればいいのか、少なくとも僕には分からない。

 僕はこの先制攻撃で面を食らった。だがそれは同時に真相に迫る大きな鍵としても作用した。

 であれば、と次の仕掛けに転じる事にする。だがこれは、危険な賭けでもあった。

例えるのなら、目隠しをして高層ビルの鉄骨を逆立ちで渡るようなものだ。

細心の注意だけではなく、強靭な精神と肉体を兼ね備え、更には強風に見舞われない豪運を制した完璧超人が如くでなければならない仕掛けだろう。

 僕は熟考する。

 無尽蔵に湧き出る単語、比喩、それら全てを取捨選択して。自問自答を繰り返して、大海に沈んだ一つの宝石を探るように思考を巡らせる。

 彼女とあの人を繋ぐものではなく、僕と彼女を繋ぐものを。そしてそれを気取られぬように擬態させなければならない。



 振り子時計が鳴った。

 グラスの中を覗くと、氷が完全に溶けきっている。溶け出た水分のせいで完全に薄まったそれはアイスコーヒーと呼ぶには烏滸がましい何かである。

 小休止のつもりで、一気に飲み干す。薄いこと以外は、そう悪くはない。

 そういえば今日は、定時音が鳴ってから暫く経つがピアノの音が聞こえない。何もかもが予定調和とは真逆に奔走し、頭の中をかき回されるような気分だ。


『7月24日(金) アイスコーヒーを飲んでみました。正直な感想ですが、僕はこっちのほうが好きみたいだ。そして今日は、ドビュッシーが聞こえてこない。』

 であれば、と僕も不協和音に重ねるようにして、全く違う角度から抉りこんだものを書く。

 冷静になって考えてみれば、これ位が丁度よいのだ。

 例えば、森林に鉄の臭いが残る罠を仕掛けるのでは当然獲物は掛からない。だからこそ罠師は試行錯誤し環境に馴染ませて存在を隠滅させるように工夫を凝らす。

 ここで重要になってくるのは、環境に対して異物である物を順応させ擬態させる。というただ一点なのだ。

 確かに、木々が生い茂り、平静とした森林に武骨な鉄の塊を無数にまき散らしたところで効果は無いだろう。しかしそれは、前提とした森林が正常である。という条件下で起こる結果であり、決して擬態ではない。

 何故なら僕が足を踏み入れた深い森は、行く手を阻む無数の茨に引き裂かれた骸が彼方此方に転がっていて、血と腐臭が広がる悪魔の森だからだ。

 ここを根城とした獰猛で醜悪な悪魔に背後から近づき、銀の弾丸を打ち込むには木や草を張り付けたギリースーツではなく、転がる肉片や滴る血、体液に至る全てを全身に纏った悪魔の装束でなければならないのだ。


 つまり、前提とした環境、そのもの自体が正常ではないのだ。

 ひと月以上の普遍を破り息を潜めていた怪物が次々と姿を現し始めた現状では、並の擬態では意味をなさないどころか悪目立ちしてしまう可能性さえも浮上する。

 故に、正常な環境であれば絶対に触れてはいけない爆薬は、銀の弾丸へと変成を遂げ、非常事態という名の怪物に対するリーサルウェポンとなるのだ。

 これが僕のベットであり、最上の立ち回りと信じている。

 


 僕はノートをやや力強く閉じて席を立った。伝票をレジスターの前までもって行くのはこれで二度目だが、随分と不慣れに感じた。

 気難しいピアニストは僕が差し出した硬貨を無機質な表情のまま受け取って奥へと消えてゆく。たたぽつりと残された僕は、静かに振り返って重たい扉を開いた。



     5



 中庭には枯れた噴水が堂々と立ち尽くしている。寄る辺のない名も無き花は鉢植えの中で草臥れたまま、ありもしない水源を探していた。

「水をくれませんか。そうすればきっと、君の役に立てる。どうか、水を」

 しゃがれた声で言語を放つ。「」はどうにかして助けたいと思ったが、近くに水はないし、来た道を辿ってもエントランスは見当たらない。

「水を、どうか、お願いですから水を」

 次第に小さくなる声。刻限は近いようだ。潤いを失い続け、形を取り留めることすらもう叶わない。崩壊が始まる。

 助ける事は出来なかった。そこに水は無かったから。仕方がないと諦めて先へと進んでみる。

「そこのお方、お願いします。水を」

 名も無き花がまた一つ。

「救って頂ければ、きっと力になれますから、水を」

 リピートする。助けを乞う花は、違う花なのに。

 「」は救えなかった花のことを思いながら、また見捨てて前へ進むことにした。それがきっと、正しいことだと思えた。

「どうか、水を」

「お願いします、何でもしますから」

「どうか、水を」

「お願いします、生きていたいのです」

「どうか、水を」

「死にたくはないのです」

 ループする。円環の狭間に立たされているようで、頭が痛い。ただ歩き続ける。

「どうか、希望を」

「水が無くてもいいのです。連れて行って欲しいのです」

「どうか、死を」

「この苦しみから解き放たれたいのです」


 歪んでゆく。


「どうか絶望を」

「希望が生まれないように」

「どうか、静寂を」

「そして願わくば、「」に同じ苦しみを」

「そして願わくば、「」に同じ絶望を」

「そして願わくば、「」に同じ死を」


 頭が痛い。大罪を犯したように錯覚する。良心という脆弱で矮小な存在にミサイルの雨が降り注いでいくような痛みを感じる。

 歩みを止めることはない。

 屍を踏み越えて、怨嗟を乗り越えて、ひたすらに歩いてゆく。

 大槌の男が後ろから迫ってくる。

「ありがとうございます」

 鉢植えが砕け散る音と、感謝しながら無に帰る声が迫ってくる。

「どうか、死を」

 大槌の男は呼応するように鉢植えを叩き割ってゆく。解き放たれた者たちは、例外なく男に祈りを告げながら消えてゆく。

 「」は大槌の男が堪らなく怖かった。狼男よりも、幽霊よりも。悪魔よりも怖かった。

 迫りくる大槌が奏でる破壊の音が怖かった。ナイフよりも、大砲よりも、プルトニウム爆弾よりも。

 だから走った。

 犬よりも速く、豹よりも速く走った。それでもまだ、追いかけてくる。

 だから疾走した。

 ペストよりも、音よりも、光よりも速く。

 そうして辿りついた出口には鉄柵が遮っていた。僕は鍵を持っていなかった。



 微かに水の流れる音が聞こえる。女神を模した翼のない像が、涙を流していた。それはえらく悪趣味な造形として目に映った。

 彼らに対する救済はそう遠くない場所にあって、万象に施しを与える女神は決して届かない場所からただ無意味に泉を創造している。

 僕は女神像を大槌で叩き割った。

 瞳から滴り続ける清らかな水は、赤黒い液体となりながら、乾くことを知らなかった。

 やがて溢れ出た赤い泉に煤汚れた金属片が浮かび上がった。身を乗り出し、片手で掬い上げるとそれは鍵のような形をしていた。

 「」は鍵を鉄柵の錠前に差し込む。スムーズに開錠音がして、眼前の障害は消え去っていた。

 ここと、ここじゃない何処か。その境界線に「」は立っている。

 木漏れ日が、眩しい。

 大槌の男がまた迫ってくる。僕は拳銃で男を撃った。

 酷い雨で、ずぶ濡れだ。

 「」はラジオのスイッチを入れる。

 境界線は曖昧になってゆく。蝕み、蔓延り、微睡んで溶け合って巡ってゆく。

 陰と陽は混ざり合って、一つになってゆく。

 僕はラジオのスイッチを入れる。

 木漏れ日と太陽が、薄緑に溶けてゆく。

 ラジオのスイッチを入れる。



 振り子時計は定時音を鳴らせて、次第に月の光が聞こえてくる。



 重い瞼を開けると、「」はエントランスに置かれた椅子に座っていた。カサブランカはもう何処にもない。

 立ち上がろうと両足に力を入れるが、身体は全く動かない。

 早く扉を開けなければ。焦りを隠せない。

 薄暗い箇所から赤く光らせた眼が、「」を睨めつけている。僕がそれを拳銃で撃つと、身体の自由が戻った。

 「」は扉の前に立つ。狐の面をした番人は、ただじっとしている。

 気にせずに私は目の前にある年季の入った木製の取っ手を引いた。



     6



 月の光が聞こえる。

 重く堅苦しい大きな扉を開けると、彼女はピアノを弾いていた。僕を見つけると目線だけを送って、席へ案内する。

 いつもの席には、ノートが置かれていた。先週にも増して様子がおかしい。とにかく僕はノートを開いた。


 何も書かれていない。

 何度もページを行ったり来たりと往復したが、その結果は何も変わらなかった。

 7月24日、僕の残した文章を最後にしてそれ以降一切の文字はなく、空白が支配している。

 返事は無かった。そう考えるのが妥当だろう。

 水面下の攻防は終わりを告げ、『あの人』へと続く細い糸は途切れてしまった。そう思えた。

 闇の中に消失し、悠久を彷徨えど再び巡り合う事はない。果てしなく遠い場所。月の裏側にまで来てしまったような気分だった。


 No27のノートに重ねられていた、No28のノートを見つけるまでは。

 それは周到に整えられ、全く同じ色をした物だった。狡猾といっても過言ではない。ただ無造作に重ねていた。なんてとんでもない。間抜けにノートを捲る僕をあざ笑う為に隠蔽したのだ。

 翻弄されている自分が悔しいと同時に、笑みがこぼれる。なんとも淡い気持ちにさせてくれる。

 しかしここで、疑問が生じた。

 27のノートに返事は無かった。それは変えようもない事実であり、続く28のノートが眼前にあったとしても何ら変わらない。

 そして挑発するように配置された28のノートが示している意味。であろう。

 九分九厘、28のノートには『あの人』の文章が書かれている筈だ。でなければ、この行為自体に意味がないのだ。この性格の悪いピアニストが愉快犯的な行為に及んだのならば、という万に一つの抜け道があるが、針の孔ほどに極小のものだろう。

 つまり、反転しているのだ。

 まるで暗示だ。

 先週はAの法則を、そして今週はBの法則を惨殺し、足音が段々と近づいてきている。力を誇示するように、或いは警告しているように。僕と『あの人』の間に設置された不可侵のバリケードを一枚ずつ破壊してゆく。



『7月31日 (金) 初めて一番乗り、です。一つだけ。最後に残ったそれは、私が打ち破るにはとても大きな障壁でした。だから私はピアノを弾くのです。』


 

 あの人は、待っていた。

 ずっとここで、聞こえない声を放ちながら、届かないピアノを奏でながら。

 彼女はこちらを一度も向かずに、ただピアノを弾き続けている。美しくも儚い月の光を奏でている。それがどうにも胸を締め付けてくるのだ。

 

 僕は、何をしたらいいだろう。何をすれば、いいのだろうか。

 彼女を抱き寄せるのか、静かにピアノを聞き続けるのか。

 あの人への想いをノートにしたためればいいのか、共にCの法則を打ち破ればいいのだろうか。

 僕に出来る事は、そう多くはなかった。

 彼女はいったい、何を思いながらピアノを弾いているのだろうか。

 間抜けな僕を笑いながら弾くのだろうか。

 その存在を探して欲しくて、見つけて欲しくて弾くのだろうか。

 ただ寡黙に、弾くだけなのだろうか。無垢な赤子のように汚れなく、高貴な騎士のように鋭く、しなやかに。


 尽きないこの感情に、僕は心躍らせた。

 ただ時間が許す限り、僕は彼女を演奏を聴き、あの人への想いを書き留めた。

 いつか二人を紡ぐ事が叶うなら、と祈りを込めて時を流れを貪った。



 やがて雨が降る。木々を跳ねる水滴がピアノと重なって、緑とのセッションが始まる。

 プレリュードが終わるころには、自然と一体になり、自由気ままに音を鳴らすジャズのように、メヌエットが終わるころには、嵐をも支配する力強いロックのように。

 それから再び月の光が聞こえてきて、通り雨は過ぎる。刹那のような永遠も、そろそろ終わりを告げるだろう。

 虹を掛けよう。途切れる事のない、七色を繋ごう。



『7月31日 (金) 僕は、君と君を繋ぎたい。』

「僕は、君と君を繋ぎたい」

 

 手を伸ばす。

 それに呼応するように伸びた白く美しい指に触れて、僕は最後の壁を壊す者となった。

 大きな扉が開き、光を照らしていた。



     7



 僅かな硝煙の臭いと、スプリンクラーが作動して水を噴射する音。それから、揺蕩う赤色を知覚した。

 目の前には進行を阻もうとする年季の入った木製の扉が立ち塞がっている。鍵の類は見当たらない。

 

「」は大槌を振り上げて、扉に向かって叩きつける。面白いほど簡単に扉は風穴を開けて降伏の姿勢をしている。

 こじ開けた扉の先へと進む。暗闇が包み込んで、今いる場所が分からなくなる。頼れるものは感覚と、握りしめた大槌だけだった。

 吹き抜けてゆく風から、暗闇の先に出口があることが分かった。それから更に歩を進めると、米粒ほどの小さな光が微かに照らす。

 その光までは、途轍もなく長い道のりで、気が滅入る。

 「」は歩き続ける。僅かなる前進だとしても、他に手段はないのだから。引き返すにしても、同じだけか或いはそれ以上の距離だった。

 やがて光は大きくなる。

 背後から誰かが迫ってきているようだ。それは足音から察知できた。すかさず振り向いてみる。腰ほどの高さで握られた銀色の何かがキラリと光るだけで、それ以外は姿形から性別に至るまで、何も分からない。

 ゆらりゆらりと左右に動いてから、ぴたりと静止する。銀色の物体が向かう先は出口と思われる光の方向だった。

 十数秒してから、銀の先端から激しい光が生じた。その発光で握られていたものは拳銃であることが判明する。

 出口に向かって一発放たれた後、銃口は「」に向く。応戦しようと構えるが、極めて不利な状況であるのは拭えない。

 じりじりと距離を詰めてくる。この暗闇だ、精度に多少自信があったとしても、標的が見えないのだから意味を成さない。であればロングレンジのアドバンテージを捨てて、とにかく命中させる事を優先させるのは道理だろう。

 そこで「」は、相手が埋めようとしている距離を放し続ける。こうすれば、膠着状態のまま背後に、つまり出口の方向へと進むことができるのだ。

 打開とまではいかずとも、最低限の現状維持と、思考する時間が得られる。



 痺れを切らしたのか、間隔を開けながら二度、三度と足元に向けて発砲してくる。といっても、でたらめに乱射する訳ではなく、光源としてそれを使って、索敵を始めている。こうなると、非常に厄介だ。

 だが、その発砲から得られる情報を見逃さなかった。

 握られていた拳銃はリボルバーで、最初の発砲から数えて四発目。小柄な銃であることから残弾はせいぜい1発か2発程度だろう。

 予備の弾丸を携帯していたとしても、装填には時間のかかる銃で、ましてやこの暗闇。再装填の隙を突けば勝機は充分にある。

 相手もそれを察知したのか、それ以上の発砲はせず。再び膠着状態。また攻防をを繰り返す。

 気づけばかなり進んできた。薄暗くなってゆき、状況は一転する。これ以上進めば、必ず負けてしまう。

 途方もない道のりの先にあった希望の光が、今は忌まわしく感じた。とにかく、視界が良くなる前に、何としてでも残弾を空にしなければならない。でなければたちまち銃口は眉間を捉え、撃ち抜かれるだろう。

これ以上は引き下がれない。前に出て迎撃をする。大前提として、銃と大槌。正面から挑めば勝ち目はない。

それに、距離感もまだ分からない。先ほど相手が足元に撃ったような、運よく当たれば御の字で、索敵。なんて芸当は大槌では不可能。だからこの攻めは、防衛の一手でもある。

 「」は地面に向かって大槌を振り下ろす。そしてすかさず横へ逃げる。

 衝撃音に反応し、遅れて音の鳴った箇所へと発砲。残り一発。

 完全に不意と突いた一撃だった。その応酬として得た一発の弾丸は、巨大な金塊にも勝る、至高の宝だろう。

 次を撃たせれば、弾切れ、最低でもリロードする隙が生まれる。そうなれば一気に走り抜けて距離を放すも良し、接近してリーチを盾に殲滅するも良し。状況は打破できる。思わず大槌を握る両手は汗ばんでいた。

 場面は変わらず、「」は最後の発砲を待った。同じ手を食らわせる事も考えたが、そう何度も上手くはいかないだろう。何より、不意に消耗した弾丸を惜しむように、相手は露骨に静止している。似たような手段で最後と思わしき一発を消費する事あり得ない筈だ。

 今まで距離を詰めて来ていたのは、残弾数に余裕があったからだ。絶対的優位性を失った現状では、そう簡単に前には出られない。

何故なら敵は、一発だけ装填されたそれは最強の矛であると同時に、撃たなければ強大な抑止力として作用することを知っているからである。

 石橋を叩いた上で命綱を付けて渡るような、堅実さからはもはや逸脱した受け身な姿勢が、視界がなくとも伝わってくる。

 敵は戦士ではなく、策士だ。

 熾烈な戦場の圏外から眺め、最小の被害、コストで最大の戦果を挙げる存在。その性質から、不利は元より論外、最低でも五分以上の状態でなければ直接手を下す事などありえないと想定する利己的な精神の持ち主であることは間違いない。

 その証拠に、『当たれば勝ち』『外れれば負け』というコインの裏表にも似た戦況に直面して撃たないという選択肢を取ったのだ。

 だがそれでは、こちらを襲ってきた理由が分からない。

 単なる殺戮が目的ならば、ここまで深入りすることはないし、ここまで慎重に事を進める必要もないだろう。

 この狡猾な策士が無策でここまでやってくるとは到底考えにくい。つまりはこちらと同じで、状況を探り合っている。そう考える他になかった。

 膠着する時間が長くなるほど、それは確信に変わり、相手も同じ事を思ったのだろう。じわりじわりと銃口が遠のいてゆく。 

 「」は臆病者め、と内心で卑下しながら、視線を逸らさずに後ろへと進んだ。



 見えなくなるのを確認してから、振り返る。これ以上未知との遭遇はしたくはない。足が速くなる。

 何度か息を切らしては再び走り出してを繰り返す。光は濃くなり、大きくなってゆき、やがて眩く闇を照らしていた。


 遂に出口に辿り着いたのだ。身体を輝きが覆い尽くす。白い闇は「」を飲み込んで、溶け合ってから消えてゆく。



     8



 初めに芽生えたものは、嫌悪だった。

 彼の一歩引いた位置で野次を飛ばしているような態度が堪らなく不快だった。

 評論家ぶった講釈が苦痛だった。

 気障ったらしい書き出しに、反吐が出た。

 毎週金曜日、同じような時間に訪れるのは、まるで拷問だった。

 時間をずらして来た時なんかは、殺意すら芽生えた。

 

 私は、彼が嫌いだ。それはきっと、この先も変わる事はないだろう。


 必ず同じ席に座るのが嫌いだ。

 ノートを舐めまわすように読み漁るのが嫌いだ。

 いつもコーヒーは後回しなのが嫌いだ。

 回りくどい事をしてくるのが嫌いだ。

 

 彼女は、彼に好意を抱いていた。

 何かと気にかけてくるのが嬉しかった。

 些細な変化に敏感で、すぐに気づくのが嬉しかった。

 存在を認めてくれたことが、嬉しかった。


 

 だから私はもう、彼女を幽閉しなければならない。

 眠りの森の奥底に、呪いを掛けて閉じ込めなければならない。殺さなければならない。でなければ、私が消えるしかないから。

 私はピアノを弾き続けた。ただひたすらに、無心のままで、彼女を殺し続けた。

 空洞を埋めるようにピアノを弾き続けた。旋律が心の穴を埋めて、彼女を殺戮し続けていた。

 音楽と、私。どちらが私で、どちらが音楽。彼女と私。どちらが彼女で、どちらが私なのか。わからない。



 私が殺すのか。



 彼女が殺すのか。



 嗚呼、もうどっちでもいい。



 ただ、溶け合っていたい。

 交わるように、螺旋を描いて繋がっていたい。そしてそのまま、一つになりたい。私が彼女で、彼女は私になってミキサーに掛けられて、粉々になりたい。



 私の大好きな彼は、虹になりたいと言った。

 彼女の大嫌いな彼は、二人を繋ぎたいと言った。

 「」の――な彼は、最後の壁を打ち破る者となった。

 手を伸ばす。届きそうで届かない曖昧な距離が、もどかしい。あと少し、あと少しだけ振り絞れたら、きっと。

 強く地面を蹴った。

 重く堅苦しい扉は、誘うように笑って口を開いた。

 


 僕はこの扉の向こう側に辿り着く。その為にここに来た。きっと長い旅路になる。だからカサブランカを持って行くことにしよう。

 月の光が終わったのなら、僕はもう行くことにするよ。

 そしていつか、君と君に花束を贈ろう。



 

     9



 まるで牢獄のような場所に僕は立っていた。

 厳重な鉄格子に阻まれ、天井の隅には監視カメラが覗いている。これでは囚人ではないか。

 とにかく力任せに鉄格子を前後にしてみる。ただ金属が擦れる不快な音がするだけで、びくともしない。

 じたばたしているのが莫迦らしくなってきた頃、白衣の男がこちらへと向かってくる。

「静かにしなさい。一体何があったというんだ」

 男は声をやや荒げていた。監守、というよりは医師のような風貌をしている。

「ここから出して下さい。まるで状況が理解できない」

 ありのままに伝えた。僕が分かる事はただ現状が理不尽だということだけで、それ以外の情報は一切手にしていない。

「記憶が混濁しているようだ――わかった。興奮しないように。落ち着いて、ほら、ゆっくりと手を放すんだ。今ここを開ける、いいかい? 興奮しないように、静かに。だ」

 諭すような態度で男は牢の鍵と思わしきものを見せながら言った。手掛かりには十分だろう。とにかく逆らわずに流れに身を任せることにする。

「そうだ、先ずは手を放そう。そう、そして少しずつ離れるんだ。いいよ――そのまま椅子に座って。私の話に集中するんだ」

 催眠術でも掛けるように、男は会話の節々を強調して、意識の誘導を始めた。僕は言われた通りに身体を動かした。

「よし、少し大きな音がするけど、驚かないように。いいかい、落ち着いて――そう、いい調子だよ」

 静かに向こう側から鍵が開く。

「入るよ、ああ――そのままでいい。そう、それでいいんだ」

 ゆっくりと男は中に入ってくる。出入口を身体を盾に塞ぎながら、巧みに距離を詰めてくる。

「さて、何が聞きたいんだい? 話はそこからだ」

 そして僕の両手を掴んでから言った。

「ここは、どこですか」

 所在を明らかにする為に、まずは避けては通れない質問から切り出してみる。

 男は少し口を歪ませて思考する。それから一呼吸置いてから声にする。

「場所は、そうだな。ここは病院だよ。そして君は私の患者だ」

 僕の両手を握る力が強くなる。逆上するとでも恐れているのだろうか。僕は至って冷静だ。

 この男の言う事は恐らく真実で、大方ここは隔離病棟か何かだろう。

 何故ここにいるのか、という問いは恐らくしない方が良さそうだ。どう転んでも事態が好転することはない。

「どうすれば、出られますか」

 切り口を変えて引き続き問う。恐らく出すつもりなど一切ないのだろう。眉間に皺を寄せ、言葉をどう濁すか考えている。

「難しい質問だね。必ず出られるが、今ではない。としか言えないな」

 予想外の答えだった。本質的な回答はされないと思っていたので、少し動揺する。

「だから私の言う事を素直に聞くんだ。いいね。そうすればきっと、早く出られる」

 真摯な眼差しで僕を見ているその表情は、まるで嘘を言っている様には見えなかった。それどころか、どこか信じさせてしまう程の。魔法じみたなにかを感じる。

「君の不安は過去を消さなければ消えない。そう、内に刻まれた深層で眠る記憶を、完全に焼却しなければ痛みを忘れる事は無いんだ。だが君はそれを覚えていない。失った記憶の痛み。心の幻肢痛とでも言うべきかな」

 白衣の男がやや早口で説明する。一つ区切って息継ぎ、そして続ける。

「それは、君の精神の最も奥深い場所に焼き付いている。切り取ってしまうのは簡単だ。しかし、巻き込まれた精神はどうなる? そうだ。君を殺してしまうのと同じなのだよ」

 何を言っているのか、僕には全く分からなかった。

 つまり今、僕は僕が知覚していない僕の起こした『何か』によってここに幽閉されているという事なのだろうか。正直な感想として、全くの他人事だ。

 自我を支配しているのは今の僕で、男の言う僕ではない。であればそれは同じ顔をした別人としか思えないのだ。

 だというのに彼の説明は、とにかく概念というか、内側を直接抉るように脳へと浸透してゆく。僕じゃない僕を、僕は堪らなく認識したくなる。

 頭が痛い。

「私は君の内にある闇を取り除きたい。それだけだ」

 きっと彼の話術には、魔力が宿っている。言葉が槍のように身体に突き刺さって、自由を奪われる。

 断言し、可能性を予測するのではなく、限定するように逃げ道を失わせるのが手口なのだ。

「いいかい、じゃあ横になろう。そうだ――そう。ゆっくりと、そして目を閉じよう。大丈夫――怖くはない。私が傍にいるよ」

 この声に全てを委ねてしまえば、どれだけ楽になれるだろう。何もかもをかなぐり捨てて、深い眠りに落ちる事が出来れば、どれだけ幸せなことか。

 僕の両手を握っていた手は、いつの間にか肩をさするようにして横になるようにと促している。どこかほっとするような心地よさが、遅れてやってきて感情を支配する。

「さあ、右手を出して。大丈夫――少しだけ痛むけど、すぐに良くなる。じっとしているんだ――そう。そのまま――」

 瞼が重くなる。身体が一つの鉛で、脳は単なる蛋白質へと還ってゆく。そんな感覚。ただひたすらに落下する。そんな淡い喪失感。

「おやすみ。君を殺す君は、私が殺してあげよう」

 その声は、もう届かない。



「な――にを」

 それは銃声だった。

 白衣の男の触れていた手が離れる。遮断された僕の意識と呼べるものが覚醒してゆくのが判る。

 視界が開けてくると同時に、注射器が地面に落ちて割れる音がした。

「君はここで終わるべきではない」

 狐の面をした男が、僕に手を差し伸べてそう言った。その逆の手には拳銃が握られていた。

 頭部を撃ち抜かれた白衣の男は、その風穴から赤黒い液体を漏らしながら地に伏せている。即死だろう。

「これを持って早く逃げろ。すぐに追いつかれるぞ」

 握っていた拳銃を持ち直して、僕に手渡す。次から次へと、状況が飲み込めないまま進んでゆく。

「行くんだ。君はここで朽ちるべきではない」

 それだけ呟いて、狐の面をした男は暗がりの中に溶け込んで消える。その原理については、納得するどころか理解すらできない。

 だが僕には、考える時間がもう無いようだ。

 銃声を聞きつけた誰かがいるのか、辺りはざわめきだす。死体の転がるここに長くいてはいけない。そう直感した。

 僕は拳銃を腰に差して、それからシャツを被せて隠した。それから牢から顔を出して左右を確認する。

 淡い緑のような廊下がずっと続いている。人影は、今のところは無いようだ。

 道は左右に広がっている。どちらに行けばいいか、それが分からない。僕は高速で思考を巡らせる。白衣の男が来たのはどちら側だっただろうか?

 右か、或いは左か。

 仮説だが、ここが何かの病棟で、狐の面をした男が射殺した彼が、異変に気付き僕の牢までやってきたのだから、訪れた方向には医療スタッフの詰め所のような場所があるのだろう。

 つまりその逆から進行すれば、誰かと遭遇してしまう可能性は極力減らせると睨んでみる。

 だが、最重要な項目がまだ判明していない。二分の一、50%を一分たりとも越えないのだ。

 とにかく情報が得られればと、躊躇なく僕は死体を調べる。うつ伏せの状態から返し、携帯品の類を暴く。生ぬるい血液が彼方此方に触れて、気分が悪いが仕方がない。

 所持品は牢の鍵だけ、靴は室内サンダル。凡その調査で分かる事はこれだけだった。加えていうなら、鍵には103という番号が書かれていた。という事だけだ。

 これはもう、頗る分の悪い賭けに出るしかないようだ。

 刹那的に考察した結果として、心もとない推論を述べる。死体はサンダルを履いていて、携帯品はこの部屋の鍵だけ。考えるに「ちょっと様子でも見てくるか」という気構えでこの部屋まで来たのだろう。つまり、位置としてはそう遠くない場所にあるのだろう。

 そして鍵の番号が示している現在の部屋の位置。103号室とでも言うべきか、これを通常の見取り図のように俯瞰して考えると、この部屋が中央にあるという事は極めて考えにくい。

 つまり、右から来た場合と、左から来た場合。どちらが103号室に近いのか。この一点のみが確立を上下させる要素なのだ。

 分が悪い賭け。というのは他のカードがまるで見えてこないからである。握られた103号室というカード以外の情報は大方抹消されていて、この一枚から残る四枚の手札の出目を予想しなければならない。

 だが状況を絞るには余りにも貧弱すぎる。故に、単純な数字の法則に従うことにする。飛び出してから、右だ。

 疾走。

 答えは今すぐには出なかった。しかし続く部屋は102、101と同じような鉄格子の部屋が順に連なっていて、それ以降部屋は無いようだったので、概ね正解だろう。

「――!」

 多少の手応えを感じながら廊下を進んでいると、サイレンが鳴り響く。気付かれたか?  

僕は利き腕を腰のほうへとやる。

 そのまま壁に背中を沿わせてじりじりと前進する。

 恰好だけでも銃を構えてみたが、予想以上に重く、腕が疲れる。長くは姿勢を制御できなさそうだ。というか、こんな物はできれば使いたくない。

 殺人という行為に怯えているのではなく、単純に扱いを知らないし、狙いを外せばこちらの位置は簡単に察知されてしまう。

 この手の武器が一番効果を発揮するのは撃つぞ撃つぞ、と脅している間なのだ。余程のことがない限り、引き金に指を掛ける必要すらもない筈だ。



 おかしい。

 絶え間なく鳴り響く警報に反して一切誰とも遭遇しない。それどころか、進めば進むほど人の気配は薄れてゆく。もしかして、僕以外の誰かが標的になっているのか。

 であれば好機であることは間違いない。勝手に陽動の役目を果たしてくれているのだから、感謝すら覚える。

 そしてこちら側が手薄という事は、左側で起きた出来事なのだろう。本当に至れり尽くせりだ。

 とはいえ、タイミングが良すぎる。狐の面の男が自ら囮になったのか、とも考えてみたが、彼にそのメリットは皆無であるし、超常現象を用いて姿を消してしまった。そんなイレギュラーな存在を要素に含めるのは余りにもお粗末だ。

 現実的な線でいくと、異変を察知して逃走を図った患者とやらが僕以外にも居ただとか、突然誰かが暴れ出しただとか、この程度が妥当だろう。

 なんにせよ、願ってもない隙だ。しっかりと利用させてもらう事にする。


 結局、このフロアを抜けるまでに一度も邂逅することはなかった。ここから先は上下に階段がある。踊り場から見下ろすとエントランスは閑散としていて、相変わらず人の気配はない。

 ここから見渡すだけで、エントランスの構造や広さ、出口。身を隠す遮蔽物に至るまで。充分な情報を手にすることができた。

 上の階に行く必要はないだろうし、ここを抜ければゴールだ。

 念には念を、身を隠すように腰を低くして階段をゆっくりと降りる。

 出口と思われる扉までは、十数メートル。走り抜けてしまえば一瞬で到達してしまうような距離感。

 だが、そう簡単にはいかない。

 ゴールというのは、あくまでこの建物内での話であり、大局的な意味ではない。寧ろ、ここを出てからが本番だろう。いや、そもそも扉が開くのか。それさえも全く確証などないのだ。

 よしんば開いたとして、その先は未知なる場所で、屋内と違って下界に通じる門は確実に警戒されてるだろう。

 物陰をつたいながら、扉へと近づく。聞き耳を立てながら前方に集中する。特には異常はないようだが、油断は出来ない。



 外周を沿うように、中央付近まで到達する。意味深にぽつりと木製の椅子が置かれている。先ほどの踊り場からは死角だったようだ。

 やや目を細めてみると、背には紐のようなものに掛けられた機械がぶら下がり、座面には新聞紙が四つ折りになっている。

 機械の方はどうでもいい。だが、新聞は気になる。

 覚醒してからというものの、僕には現状を知る機会が少なすぎた。それこそ、外の様子はおろか、今日が何日であるかすら分からない。

 してみれば、単なる紙切れ一つにしても、僕にとっては遮断された外界の痕跡で、洞窟を照らすライト、もしくは迷宮の地図たりうるのだ。

『喫茶店勤務の女性死亡、殺人及び死体遺棄の容疑で男を逮捕』

 手に取った新聞の一面に大きく書かれた見出し。さして興味のない事件が。それよりも日付が気になった。目線を上にやるが、文字が掠れて確認できなかった。

 よく見れば、角は丸みを帯びていたり、妙に皺だらけだったりと、かなり古い新聞のようだ。これでは何の意味もない。

 機械の方はというと、こちらも期待できそうにない。こいつの正体は、色あせたトランジスタラジオだった。

 スイッチをいじる以前に、持ち上げると中身がカラカラと音がして、役立たずであると自ら語っている。

 質の悪い悪戯だ。時間だけを奪われる結果となった。

 僕はそれらを元の位置に戻して、後にした。

 扉の前に立つ。

 妙に古めかしい彫刻と、色あせた木製の取っ手。どこか見覚えがある。施錠はされていない。



     10



 中庭のような場所に出た。元栓が閉められているのか、噴水が枯れている。

 通路は一本道のようだ。出口と思わしきものまでは、だいたい距離にして数百メートルからどんなに離れていても一キロメートル弱、といったところだろう。思ったよりも広い。



 外の景色や警備体制については、予想していたよりもかなり違う。というか、何もかもが想像と乖離していた。

 そもそも、大前提から違えていた。そう思えざる負えない惨状に、目を塞ぎたくなってくる。

 先ほどの院内でなっていたサイレンは、脅威を対処する為に鳴らされたものではなく、脅威から退避しろ。と警告していたのだ。

 左を進んだのではない。

『この』入口から入って奥へと進んでいったのだ。それは、扉にべったりと付着した血液や、外へと続く道のりに広がる、損壊の限りを尽くしたグロテスクな肉塊の山が物語っている。

どの死体も必ず頭を潰されていて、顔が分からない。獣だってここまで酷くは食い散ら

いだろう。

 外傷から察するに、鋭利な刃物というよりは真逆の性質をした武器で殺したようだ。叩き潰された頭蓋が露出して、内容物を鴉が啄んでいる。

 亡骸の肌に触れてみる。既に事切れてから暫く経つのだろう。血の巡りは一切なく、冷たく硬直して、物体に回帰していた。

 所持品は特に何もないし、服装もバラバラな彼らはそもそも、ここを守る警備の者だったのだろうか。真相は闇の中に葬られたまま沈黙。

 僕は死体の続く方へと進む。

 どれだけ躊躇ようが、道は一つしかないし、引き返せばここに転がっている骸と同じ運命をたどる事になる。天秤にかけるまでもなかった。

 無数の肉塊を過ぎる内に、環境に残る痕跡を何度も目にする。

 罅割れた地面、砕けたレンガの壁、石像の類。全て打撃による破壊だ。だとすれば獲物は鈍器だ。接地面の凹凸から察するに、それも特大の物である。そんな物を縦横無尽に振り回すような相手だ。只者ではない。

 奥へと進めば進むほど、死体の損壊は激しくなる。『張り切っていた』とでも言うべきなのだろうか。仕舞いにはそれが、人だったのかどうかさえも判断がつかないものまで見るかる。酷い有様だ。これならばまだサイコキラーのほうがマシだ。

 人を殺すという行為を、彼らは性的衝動に近い何かを芽生えていたり、或いは全能の神にでも見立てて信仰をしているのだ。殺された人物という殺人行為の結果ではなく、その過程を尊重する。つまるところ、『どうやって殺すのか』に拘るのだ。

 死体は自身の衝動や信仰、それらを昇華を表現する入れ物であり、作品である。

 根底から逆なのだ。本来、殺人とは自身やその周囲に対する脅威たりうる人物を排除する行為である。

そこには一切の余地など無い。脅威の排除、という結果のみに注視していて、刺殺するのか、銃殺するのか。撲殺するのか、毒殺させるのか。そんなものはどうでもいいのだ。

 あくまで殺害方法とは、対象をいかに効率よく殺すかという考察を前提に組み立てられている。それは発覚を防ぐ為であるだとか、自身よりも強い相手を排除する為といった条件が制限しているに過ぎない。

 故に、サイコキラーによる殺人と、そうでない殺人。その差異は死体に現れる。

 例えばナイフで刺殺したとする。大抵の場合は致死性の高い急所、つまりは心臓や臓器付近。もしくは頸動脈に近い首元を狙うだろう。恐らくこれは、闘争の本能からくる原始的なものだ。野生生物が獲物はどこをどれだけ痛めつければ死ぬのか、という勝手を理解しているのに近しい。

 ところがサイコキラーには、闘争本能の前にフィルターが一枚被さっている。

彼らは第一に、限定された条件の中で最も自身の趣向に合った殺し方を模索するだろう。眼を抉り、光を奪う者。四肢の切断を試みようとする者。腹を開いて内容物に至るまでを暴く者。喰らう者、例を挙げればキリがない。

 そうした過程の果てに死体が転がっている。数分前まで生者の入れ物だった空の容器は次に、彼らの主義や思想、信仰や衝動を並々と注がれた血塗られた杯になる。

 そうして完成したある種の『作品』は自己の感情を投影したものなのだ。

大なり小なりはあれど、誰かに見せる為に造形されている場合が多い。感性についてはともかくとして、第三者から感想を得たいという承認欲求が強く作用している。

 要するに何が言いたいかのというと、『見せる為の死体』だということである。

今現在、僕の周りに配置されている不気味な肉の塊とはまるで正反対の性質。これをやった者は、対象の排除、その一点にのみに特化している。

 ある意味で、快楽殺人犯より異質だ。

 ただ本能のみに振り切っている。なぜ殺すのか。という道徳などは最初から持ち合わせてない。

 それこそ、目障りな羽虫を叩き落とすような感覚で行っているとさえも感じさせる。

 つまりこれは、憎しみや防衛手段としての殺害でも、衝動や美学に則った殺戮でもないのだ。

 ただ目の前を過ぎたから。

 ただ、視界に映ったから。それだけの事だったのだろう。もはや殺人という枠組みに当て嵌めて良いものかと困惑すらも覚える。

 奴にはとって恐らく、人もバリケードも何ら違いがないのだからだ。であればこの殺戮は単なる破壊に過ぎない。薪を割るのと全くもって同義である。

 殺人鬼だなんて、生ぬるいものではない。

 局地的大災害だ。

理由や目的、それらは意志を持って初めて生じる。何故殺すのか、何の為に殺すのか。それらが抜け落ちているのだから大火事や落雷、ハリケーンやトルネードとやっていることは変わらない。

 本当にここまで、出会わなくてよかった。考えてみれば、今まで進行してきた道の殆どは狭く逃げ道のない一本道で、こんな化け物と遭遇すればひとたまりもなかった。

 運が良かった。僕は心底からそう思っていた。出口は目前まで迫っている。もうすぐだ。思わず足取りは早くなる。



 ようやく人肉の森を超えられるのか、と安堵交じりにため息が漏れる。

「気を抜くな。奴は必ず来る」

 心の隙間を貫くような声。一切の気配は無かった筈だというのに、背後から聞こえた。

「撃たなかったのか。まあ君らしいともいえるな。集中しろ、中は喰い尽くしたようだ」

 狐の面をした男は、どこからともなく現れて言葉を続ける。

「ほら、お出ましだ」

 男が指差したのは、僕出てきた扉だった。一体何のことか、と問いただす前に扉が轟音を立てて吹き飛ぶ。

「――――ッ!」

 扉をぶち破った『何者』かが初めに発したそれは、言葉とは言い難く、まるで魔獣の咆哮のようだった。

 見た目は、想像通りすぎる狂人。

二メートルは優に超える強靭な体躯。痩せぎすな女性の腰ほどに太い腕。そして錆だらけの鉄仮面を装着していた。

得物はやはり鈍器の類で、かなりの距離からでも大柄な槌であることが分かる。

 大槌の男はこちらに視線を合わせ、近づいてくる。障害物や死体の山。そんなものを気にも留めずに踏みつけ、最短距離で。

「手助けはしよう。だがこれは、君が葬らなければならない敵だ。それだけは分かってくれ」

 狐の面をした男は僕の肩に手を置いて言う。とてもじゃないが、冗談にしか聞こえなかった。

 逃げおおせるならまだしも、彼は奴を葬れと言っているのだ。正気じゃない。

「落ち着け、いいか。何もあいつを撃ち殺せと言ってる訳じゃないんだ。よく見ろ、あれだ。あれを破壊すればいい」

 思考を読み取るように、反論するよりも早く言葉が続く。

「もう少し近づけば分かる。肩に掛けてるあの二つを撃てばいい。弾は撃ってないから――四発残っている筈だ。よく狙えよ」

 走って迫りくる大槌の男を冷静に指差して言う。狐の面をした男の言う通り、肩には何かが、というか見覚えのあるトランジスタラジオのような物が掛けられている。しかしこれに、何の意味があるのだろうか。

「――――ッ! ――――!」

 ついに目の前まで迫ってきた。大槌を高く振り上げて構えの体制から威嚇してくる。

「足止めはしよう。さあ撃て!」

 掛け声と共に狐の面をした男は走り出す。大槌の正面に立って、振り下ろされた凄まじい一撃を紙一重で回避する。

 粉塵が舞い、視界が奪われる。

 感覚器官の一つが遮断されて、気が付いた。僕は更に聴覚に意識を集中させ、その音が何かを特定する。

 月の光だ。

 クラシックの、ドビュッシーが作曲したあの『月の光』だ。大槌の男が肩に掛けている『あれ』から鳴り響いているのだろう。一度認識してしまえば、耳障りなほどにそれは聞こえてきた。

 しかしこれが、弱点だとでもいうのだろうか。それが分からない。

 次第に舞い上がっていた砂塵は晴れてくる。狐の面をした男は、大槌の男の猛攻に変わらず適切な回避運動を行い時間を稼いでいる。

「何をしているんだ、早くしろ。時間はないぞ」

 硬直している僕を鼓舞するように、大きく叫んでいる。

 妙に透き通る彼の声に応じるように、僕は拳銃を構える。対象は二つ。残弾は四発。幸い的は大きいうえに、狐の面をした男に釘付けだ。そう難しい話ではない。

 肘をやや曲げて、反動に備えてから引き金に指を掛ける。

 それは発砲というよりは、爆発に近い感触だった。指先は痺れて感覚を失い、発光で目を眩む。所詮拳銃と高を括ったのは大間違いだ。

「――――ッッ! ――――!」

 大槌の男は頭を抱えるようにして暴れ、咆哮。右側のトランジスタラジオに弾丸は命中している。

「――――!」

 理屈は分からないが、かなり苦しそうな様子で見悶えている。

「いいぞ、あと一つだ」

 彼の声に軽く頷きながら、僕は二発目を撃つ準備をする。一度目で出来たのだ。衝撃で驚くことももう無い。続けて引き金を引く。

 弾丸は僅かに逸れて、大槌の男の肩を抜けてゆく。しまった。と思う頃にはもう標的は狐の面の男ではなく、僕に切り替わっていた。

 横薙ぎの姿勢で大槌が構えられ、僕に向かって振られようとしている。これを食らえば一撃で終わりだ。

 よく狙え。

 呼吸を整えてから、銃を真っ直ぐに構える。

 簡単な話だ。この一撃を食らう前に奴の肩に掛けられているもう一つのトランジスタラジオを破壊すればいい。

 僕が死ぬ前に奴を殺せばいい。

「――――ッ! ――――!」

 銃声と咆哮。それは同時に鳴り響いた。


 

 月の光は聞こえなくなっていた。

 奴の強烈な一撃は、僕に届く前に威力を失って、やがて静止した。

 どうやら、無我夢中で放った弾丸は、ウィークポイントに命中していたらしい。

 握られた大槌が滑り落ちて、鈍い音を響かせる。それは終戦を告げる鐘のように聞こえた。

 大槌の男は、ぴくりとも動かない。鋭い眼光をこちらに向けたまま、一切の活動を止めて固まっている。

「よくやった。君の勝利だ」

 狐の面の男は僕を賛美する。

 勝利、というのがやけに引っかかる。そもそもこれは、優劣を競う為に、勝敗をつける為に行われていたのか? いいや違う。防衛本能が訴えかけていただけだ。

「ここが終末だ。最後の砦は落とされた。後は扉を開くだけで、君の成すべきことは終わりを告げるだろう」

 相変わらず抽象じみた、訳の分からない言葉を並べている。

 それに狐の面の男は、成すべき事。なんてのたまっている。そんなもの、今の僕には存在しないというのに。

「奴の残滓を砕け。扉はそこにある」

 もはや石像と同義である大槌の男を指差して言う。

「丁度いい。利用させてもらおう」

 軽々と大槌を持ち上げ、それを僕に渡そうとしてくる。無茶だ。一体何十キロあると思っているのか。

「何をしている。ほら、早く」

 狐の面の男は一向に受け取らない僕に催促をする。このままでは仕方がないので、一応受け取ろうという意志は見せてみる。恐らく重力に負けてしまうだろう。とにかく怪我だけはしないようにと細心の注意を払うが、杞憂だった。

 その大槌は物理法則を超越していた。せいぜい空き缶でも握っているときのような、そんな感覚。重量感とやらが抜け落ちている。感覚と現実の格差に脳を直接揺らされているような気分だ。

「さあ、打ち砕け」

 僕は何故だか、その言葉に従わなければならない気がして、恐ろしく軽い大槌を振り上げる。

 目標は、破壊の限りを尽くしていた怪物の残滓。

 今まで葬ってきた者と同じ壊され方をするとは、なんとも因果なことか。

「――――!」

 振り下ろしたそれは、在るべき場所に還るように、鞘に納められるように、引き寄せられてゆく。鉄仮面ごと貫いて頭部が粉砕される。

 この一撃を最後に、大槌は存在を保つことを忘れ、霧散してゆく。主を失った鳥が檻から放たれ、飛び立つように。

 手に残る感触がまとわりついて、離れない。それほど疲れてもいないのに息が上がる。過呼吸になる。

 熟れたトマトが爆ぜたように辺りに赤が広がる。特別な理由でもなければ、二度と見たくない光景だ。

 噴水のように湧き出していた血液は、勢いが無くなって僅かに滴るだけになった。

 やがて噴き出したそれらはまるで意志を持つように右へ左へと走り、紋章のようなものを形成する。

 大きな扉だ。血の線で描かれた、大きな扉の絵。

「行くんだ。僕は、その為にここに来た」

 仮面は砕け散った。

 僕の顔をした僕は、扉を開く。



 この時、始めて知った気がする。ここにいる僕は、僕であり、僕ではない。

 光が差している。きっと、ここじゃない何処かへと通じる光だ。成すべきこと。それはもう分かっていた。



 僕じゃない僕は、静かに扉の向こうへと進んだ。



     11



 白い部屋。眩い闇。陰と陽。生と死。殺戮と創造。僕たちはその狭間に迷い込んでいるのだ。

 私はただ殺し続けた。無尽蔵に溢れ出す私を。消えない自分を。そうすれば、この迷宮から抜け出して、私は私になれる。

 僕はただ、探し続けた。君と、そして君を。いつか繋がると信じて、彷徨い続ける。この旅路が終われば、僕はきっと。

 あの人は、祈り続けていた。その存在を認めて欲しくて、殺す自分に殺されながら。いつの日か私になれると信じていた。

 ここはその中心。

 君にとってのホワイトハウス。あなたにとっての、エルサレム。月の光が届く場所。鉢植えの生命には水を、僕には冷たいアイスコーヒーを。

 一つになってゆく。

 ノートに何を書こう。金曜日が僕を待っている。

 鈴が鳴った。

 毎週飽きないものね。笑顔をふりまくのは苦手。だからピアノを弾くの。

 ノートには、何て書いてあるんだろう。金曜日が待ち遠しいわ。私に残る私を見つけてくれた、あなたの言葉が。

 朝は来ない。けれど、夜は明ける。それは終わることなく繰り返す。

 月の光が聞こえてくる。

 

 僕はピアノを弾く。私の為に。

 私は、君を探す。僕と、僕の為に。そして――。



 そして――手を繋ごう。

 最後の壁は、もう無くなっていた。僕たちはやっと、君と、君たちと。

 触れ合うことが出来た。



 扉を開けると鈴の音が鳴り響いた。狐面の番人は中へ入るのを躊躇う「」の背中を押した。

 懐かしい気持ちが込み上げてくる。ここにはきっと、何度か来たことがある。

「いらっしゃい」

 あの人が声を掛けてくる。不愛想で、覇気のない声だ。それでもどこか、愛おしい。

「外は酷い雨だろう。温まるといい」

 僕が「」に暖かいコーヒーを差し出した。

「今日は暑いから、冷たいほうがいいわ」

 私が「」にアイスコーヒーを差し出した。

 両手が塞がっていたので、「」はどちらも受け取ることが出来なかった。右手には拳銃が、左手には大槌が握られていた。

 仕方がないので「」はそれらを手放して、コーヒーを受け取った。僕と私は嬉しそうにしながら消えてゆく。

 とりあえず椅子に座ることにした。ここは僕の指定席だ。

 しばらく寛いでコーヒーでも啜っていると、時計が定時音を鳴らす。その音が充満した後に、私がピアノを弾く。

 プレリュード。「」はコーヒーを飲み干した。カサブランカが舞い落ちる。


『喫茶店勤務の女性死亡、殺人の容疑で男を逮捕。

 ――月――日未明、市内山林付近にて二十代女性と思われる死体を発見。警察はこれを他殺とみて捜査を開始。

 翌日、遺棄現場に訪れた男性を問い質したところ、血液が付着した金槌を所持していた為、殺人の容疑で逮捕された。』



 メヌエット。「」は新聞紙のページを続けて捲った。



『精神病院で銃乱射事件、死傷者多数。

 ――月――日午後、□□精神病院にて銃乱射事件が発生。院長がコレクションとして密輸したリボルバー拳銃を入院患者が奪って使用した。院長は頭部を撃たれ即死。その後犯人は中庭へと出て他の入院患者数名を発砲』



 そして、月の光。演奏は、終わる。

「」は拍手をして称えた。

 私はとても嬉しい気分になって、笑みが漏れた。

 あの人は、私を抱きしめて泣いていた。

 僕は、悲願を達成した喜びに震えていた。

 


 ノートはもう、必要なかった。

 紡ぐ言葉は、もういらない。一つに混ざり合って、溶けてゆく。やがてそれは蕾になって、また花を咲かすだろう。

「おめでとう。そして、ありがとう」

 狐の面の男は、静かに仮面を外す。この顔を「」は知っている。

 僕は地面に落ちた銃を拾い上げて、「」に渡す。最後の弾丸は、僕を殺すために存在していた。

 引き金を引いた。誰も、居ない。

 最後の一人になった。白い美しい花は、次々と枯れてゆく。扉に掛けられた鈴は落ちて割れる。


「」は喫茶店を後にした。もう用事は済んだのだから。

 八月が足音を立ててやってくる。今日も猛暑だ。逃げるように正反対の方向へ走る。木々を照らす太陽は、やがて交わり、彼を薄緑にしていた。

 そしてまた、扉を開けた。



 微かな硝煙の臭いと、スプリンクラーが作動して水を噴射する音。しばらくして瞼を開けると、揺蕩う赤色を知覚した。

 感覚器官が再起動を始めたように、次々と情報が脳へと伝達される。稼働率が四割程度を超えたであろうところで感じたものは、頭部の激しい痛みだった。

 思わず左手を頭部にあてがってみると、原因は外傷ではない事が分かった。それから十数秒して稼働率は七割、八割とより鮮明になってゆく。

 視界は大きく広がり、自身はうつ伏せていること、この場所が室内であること、鉄の扉を大槌で叩く男が目の前にいること。



 更に十数秒して、八割五分。男が振り返り大槌を僕に振り下ろしたこと。

 八割七分、右腕が無いこと。

 八割九分、男はもうそこに居ないこと。


 九割、月の光が聞こえてくること。

 鉄の扉はもう無いこと。

 月の光が聞こえてくること。

 九割五分、左腕が無いこと。感覚が無いこと。月の光が聞こえてくること。

 もう目覚めないこと。

 月の光が聞こえてくること。

 「」はもうここに居ないこと。

 月の光がもう聞こえてこないこと。


 鉄格子の中に居た。それを掴むと「」の爪は剥がれ落ちていた。壁には赤の線が無数に見える。白い兎が外から覗いている。「」は手を振る。両腕は無くなっていなかった。カサブランカの花瓶が落ちて割れた。悲しい気持ちになった。


 


 

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