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真田信繁の妻

作者: 洲本六文

「真田信繁の妻」

私の夫は真田左衛門佐幸村様でございました。

ございましたと申しますのは、先の戦…つまり大坂の陣で旦那様は豊臣方として参戦し、夏の陣で大御所様…あの徳川家康公の陣まで迫ったものの手傷を負い、その後徳川の兵に討ち取られてしまったからにございます。

と言いましても、私も旦那様の最期は噂で聞き及んだだけにございます。

私が大坂落城の日の前日までずっと城内におり、旦那様から堅く城の外に出てはならぬと言いつけられておりましたので…。

大坂の陣の後、私は大御所様の許しを頂き、こうして京の街で暮らしております。

私の娘の阿梅は色々とお世話をして頂きました伊達陸奥守政宗様の重臣、片倉様の元に嫁ぎました。

伊達様には敵方の私達を手厚く扱って頂き誠に感謝しております。

旦那様が伊達様に取り計らって頂いたお陰で私達はいまの暮らしをさせて頂いております。

今の私に出来るのは私の知っている旦那様を語ることだけにございます。

おきくと申しましたね?しばらく私の旦那様の話に付き合ってくださいな。

私が旦那様の元に嫁ぎましたのは亡き父、大谷刑部吉継が病に伏し、豊臣政権から離脱し、確か太閤様、つまり豊臣秀吉公による小田原征伐が行われる頃だったと思います。

太閤様が父上に「どうじゃ?刑部?そなたの娘とあの真田安房守の次男坊の真田源次郎と縁組みさせるというのは?源次郎の事は知っておろう?そうじゃ、そうじゃ源次郎は父親に似て度胸もあり、知恵もあり、そして父親に似ず義に厚い男よ!悪くない話じゃろ?」

源次郎というのは旦那様のことにございます。

父からこの話をお聞きした時、私は是非ともお受けしたいと思いました。

以前から真田源次郎様のお話は父上から聞き及んでおり、とても利発な若者だと聞いておりました。

一方、旦那様もこの話を快く受け入れてくれたそうにございます。

話は着々と進み、太閤様仲介の元真田と大谷の縁組が決まりました。

こうして私は旦那様に嫁ぐこととなったのでございます。

私の父、大谷刑部吉継はかの石田治部三成様と共に豊臣政権を支え続けていました。

私の父は義に厚く、豊臣秀吉公に堂々と意見を述べて豊臣秀吉公の怒りを買うほど己の生き方を通された方でございました。

父は大層私を可愛がってくださり、幼き頃から満足な暮らしをさせて頂きました。

関ヶ原の戦では石田様と共に豊臣家の為に兵を挙げ大御所様に戦いを挑んだものの小早川様の裏切りにより、自害したそうにございます。

未だに首は見つかっておりませぬ。

父は最後の時に家臣に首を決して大御所様に渡すなと言いつけたそうにございます。

その関ヶ原の戦の時、旦那様は同じく豊臣家の為に真田安房守様と共に上田の城に籠り、徳川秀忠公の軍勢から勝利を得ました。

父が関ヶ原の戦で亡くなる前、父がまだ大坂で戦準備をしていた時、私は人質として大坂におりましたものの、大谷刑部吉継の娘にございます。

ですから人質と言いましても不自由はなく、真田屋敷と父上様の元を行き来しておりました。

ある時父上様の元へ参りますと、父上様は病に侵され、力の入らぬ手で必死に文を書いておいででございました。

「そこにいるのは春か?」

「はい。春にございます。父上様。御身体の具合はいかがにございますか?」

「良くもならず悪くもならずといったところじゃ。春、もう少し近う。顔をよく見たい。」

私が父上様の隣に行きますと、父上様は私の手を握られました。

「春、そなたは人質としてわしと治部の元におるが案ずるな。ここに居れば安心じゃ。真田家の者もわしが面倒を見よう。」

「有難き幸せにございます。」

私は続けてこう言いました。

「父上様、春は左衛門佐様に嫁ぐことが出来、果報者でございます。これも父上様の御働きのお陰にございます。」

「そうか。そうか。それは良かった。これからも左衛門佐殿の妻として恥じることのない振る舞いをするのじゃぞ。」

父上様は笑っておりました。

ですがそれは私が最後に見た父上様の笑顔でありました。

話は関ヶ原の戦の後に戻ります。

安房守様と旦那様は紀州高野山の麓の九度山村に蟄居を命じられ、私も旦那様と共にその地で十四年を過ごすこととなったのです。

九度山村に向かう前、安房守様と旦那様は大坂に立ち寄り、私達の元へいらっしゃりました。

私は旦那様の姿を見ると我慢することが出来ず、抱きつき、泣いてしまいました。

「苦労をかけたな。」

旦那様は私にそう囁きかけました。

私は父の最期のことや敗戦からの成り行きを何も知らない旦那様にお話致しました。

旦那様は私と共に涙を流してくださり、「刑部殿は私の理想の武士であった。あの方こそ真の武士よ。私もあの方のように生きたいものよ。」と仰せられました。

その翌日、私達は紀州高野山の麓の九度山村に出立致しました。

九度山村の真田屋敷に着いた時、私は驚かざるを得ませんでした。

京の街とは違い、酷く寂しい村でございました。

最初は私達真田家の人々は謀反人とその一族として村人からは冷たい目で見られました。

その為、聞きたくないような噂を聞き及ぶこともあり、私は泣いてばかりいました。

ある時、旦那様に泣いているのを見つかってしまい、非常に恥ずかしい思いを致しましたが、旦那様は「辛い思いをさせて済まぬ。しかし、真田は決して謀反を起こした訳ではない。真の謀反人は豊臣家の天下を我が物にせんとしている徳川家康だ。真田は義のために戦ったのだ。私も父上も。堂々としておれば良い。」と御言葉をお掛けくださいました。

旦那様の兄上様、真田伊豆守信之様は真田が生き残る為に徳川方に味方した為、お咎めは受けておらず、関ヶ原の戦の後は安房守様と旦那様の赦免に奔走しておられましたが、私達は赦免される事はなく、大御所様は朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、更には征夷大将軍の座を息子の徳川秀忠公にお譲りになり、徳川の世は盤石なものとなり、大坂の豊臣秀頼公の御立場は苦しくなるばかりでございました。

いつしか私達は赦免を諦め、蟄居暮らしにも慣れてしまいました。

私は旦那様が秀吉公の馬廻衆として働いていた頃より、旦那様と過ごす時間が多くなりそれはそれは幸せにございました。

流れ行く月日の中で、私は長男の大助次女の阿梅次男の大八を授かりました。

長男の大助は大坂の陣で旦那様と共に真田幸昌と名を改め、真田丸の戦や道明寺の戦に出陣致しました。

道明寺の戦から戻られた旦那様は私に「阿梅と大八は伊達陸奥守殿の元へ行かせる。あの方なら必ず二人を守ってくださる。大助…いや、幸昌は私と城に残る。良いな?」

私は大谷刑部吉継の娘です。

その時は武士の女子として、大谷刑部吉継の娘として、そして真田左衛門佐幸村の妻として、真田幸昌の母として幸昌に「そなたを送り出すのは身を裂くような思いですが、そなたとて武士の子です。あなたには母の父、大谷刑部吉継様と旦那様の父上、真田安房守昌幸様の血が流れているのです。父上をお助けし、しっかりと徳川と戦いなさい。」と申し付けました。

幸昌は深く頷きました。

話は九度山村に戻ります。

安房守様が生きていらした間は不自由な思いはさせまいと私と旦那様は無理をしておりました。

ですが安房守様が亡くなられると、私達には借金が残り、生活は苦しくなる一方にございました。

そこで私は真田紐と呼ばれる丈夫な紐を考え、旦那様はそれを村人へ売り、村人はそれを各地で売り、真田紐は九度山村に、真田家にとって欠かせないものとなったのです。

その頃から旦那様は村人の宴などに呼ばれるようになり、真田家と九度山村の人々は親密な仲になりました。

そして九度山村での生活も十四年になりました。

慶長十九年、大坂の豊臣秀頼公から旦那様に使者がやってきました。

使者が申しますには「徳川様は豊臣家に対し、謀反の疑いありと仰せになり大坂征伐の準備を進めております。既に大坂城には後藤又兵衛様、毛利勝永様、明石全登様、長宗我部盛親様など十万近くの浪人が秀頼公の御為に集まっておりまする。真田様は秀頼公の覚えもめでたく、もし馳せ参じてくださるならこれら十万の軍勢は全て真田様の兵とお考えくださって結構にございまする。二度も徳川から勝利を得た真田様のお力をお貸し頂きたく存じまする。どうか。どうか!」

これを聞いた旦那様はすぐに「蟄居の身とあれど、私は太閤殿下から受けた多大なる御恩を忘れておりませぬ。すぐさま大坂へ駆けつけましょうぞ」とお答えになりました。

こうして旦那様は大坂に馳せ参じることとなり、私達は村人の協力もあり、九度山村を脱出し、大坂城へと入城を果たしたのでございます。

大坂城は既に浪人達で溢れており、廊下にも、座敷にも、至る所に浪人達がおりました。

秀頼公は「左衛門佐の妻子には不自由な思いをさせてはならぬ」と家臣の大野修理治長様に命じられ、私達は特別不自由な思いは致しませんでした。

旦那様は後藤又兵衛様、長宗我部盛親様、毛利勝永様、明石全登様らと共に大坂城浪人五人衆となりました。

事の次第は詳しく存じ挙げませぬが、旦那様は軍議の場で京へ出陣し、全軍が揃わぬうちに大御所様の首を取るべきだと申したそうにございます。

しかし、豊臣家の人々は秀頼公が危険な身に晒されるのを恐れ、籠城を主張し、旦那様は止むを得ず、籠城を決意致しました。

それから間も無くして、二十万とも三十万とも言われる徳川勢が大坂城を包囲し、旦那様は真田丸と呼ばれる徳川勢を迎え撃つための出城を築き、大坂冬の陣が始まったのでございます。

徳川勢が豊臣方の砦を攻め始めた頃、旦那様が私の元へやってきました。

旦那様は「春、そなたの役目は大八と阿梅を守る事だ。決して部屋から出てはならぬ。握り飯を配って歩くのもならぬ。」と私に命じました。

旦那様の最初の側室だった阿梅様は第一次上田合戦で命を落とされたと聞いております。

ですから旦那様はそのようなことを私に命じられたのでしょう。

そして旦那様が築かれた真田丸でも戦が始まろうとしておりました。

ですが私から真田丸の戦を語ることは出来ません。

何故なら私は城中におり、戦を見ていたわけではありません。

ですから旦那様や、幸昌、家臣の高梨内記らから聞いた話しか出来ません。

旦那様らの話によりますと、見事旦那様の策は当たり、徳川勢は真田丸からの攻撃に手も足も出なかったそうにございます。

戦から戻った旦那様達から幸昌の武功を聞いたり、旦那様の活躍を聞かせて頂いたり、今でも昨日のことのように思い出します。

ですがそのような話は長くは出来ませんでした。

真田丸の戦から数日経ったある日のことにございます。

朝方、阿梅と大八と部屋におりましたら、どこからともなく凄まじい音が聞こえました。

私は咄嗟に二人を抱き寄せました。

その刹那、城中から再び凄まじい音が聞こえました。

私は必死に旦那様の言いつけを守り、阿梅と大八を抱きしめておりました。

それから間も無く、あちらこちらから大きな音が聞こえ始めました。

今まで聞いたことのないような大きな音にございました。

何かが崩れる音や、女中の者達の悲鳴、浪人達の騒ぐ声、私は何が起こっているのかさっぱり分かりませんでした。

ようやく音が止んだ頃、真田丸から旦那様が戻ってこられました。

「春!阿梅!大八!皆、無事か!」

私は震える声で「大事ありませぬ。」と答えました。

凄まじい音の正体は徳川勢から撃ち込まれた三百を超える大筒にございました。

そして城中から聞こえた凄まじい音の正体はエゲレスという国の大筒から放たれた弾が天守に当たり、その崩落の音にございました。

その日、大阪城内では御上様、つまり秀吉公の奥方様であられた淀の方の女中達を始めとするものが大勢亡くなったそうにございます。

その日から豊臣方は和睦に傾き、京極忠孝様の陣で和睦の話し合いがあり、そして豊臣家と将軍家は和睦することと相成りました。

このあたりのことはおきく、あなたもよく知っているでしょう?あなたはあの淀の方の女中でございましたからね。

次は夏の陣の話にございますね。

少し疲れましたか?そうですか、そうですか、では続けさせて頂きます。

年が変わり、慶長二十年、大御所様は再び大坂征伐を命じられました。

和睦の際、徳川方は大阪城の堀、二の丸、三の丸、そして真田丸を取り壊す約束をしたそうにございます。

ですから豊臣方は討って出るしかありませんでした。

そうそう、真田丸が取り壊された時、旦那様は皆が寝静まった頃、私を呼び出し、私の前で涙を見せたのでございます。

真田丸は旦那様にとって最初で最後の城にございます。

さぞお辛かったことでしょう。

その時旦那様は私に仰せになりました。

「いずれ徳川勢はまた攻めて来る。堀を失い、真田丸も失い、最早籠城は出来ぬ。しかし、春そなたは生きなければならぬ。生きて阿梅と大八を守るのだ。」

私は旦那様と死にたいと思いましたが、私とて武家の女子にございます。

覚悟はしておりました故、「阿梅と大八を必ず守って見せます。旦那様、御武運を。」と答えました。

豊臣方は河内方面へ出撃したものの、伊達勢、徳川本軍の前に手も足も出ず後藤様は御討ち死に、長宗我部様は行方知れず、毛利様と旦那様の軍勢は伊達勢と激しい戦いを繰り広げた後、城へ戻って参りました。

そしてその夜が旦那様との最後の夜にございました。

その夜、私達の部屋に旦那様、幸昌、阿梅、大八、家臣の高梨内記、堀田作兵衛が集まっておりました。

「春、阿梅、大八そなたらは今宵の内に城を出よ。戦が終わるまで伊達陸奥守様が匿ってくださるそうだ。幸昌、内記、作兵衛、そなたらは私と共に城に残り明日の戦いに臨む。皆、これは永遠の別れではない。いつの日か再び、こうして皆で語り合うための策じゃ。私は命が惜しい。だから明日も必ずこの城に戻ってくる。豊臣の世には戻らぬだろうが、私は豊臣家を四国全土の主として徳川家康に認めさせ、戦が終われば殿様に許しを頂き、一度上田へ戻るつもりだ。少しばかりの辛抱じゃ。皆、それまで息災にな。」

私達は声を揃えて返事を致しました。

旦那様は皆の返事を聞いた後「少し春と二人にしてくれるか?」と言いました。

部屋から皆が出て行くと、旦那様は私を抱き寄せてくださいました。

「長い間苦労をかけたな。礼を言う。」

「私こそ天下一の果報者でございます。」

あまり大きな声では申せませぬが、この時旦那様は口吸いもして下さりました。

「旦那様、私、上田へ行ったらすえにお会いしようと思います。」

すえと言うのは旦那様の最初の奥方様の娘でございます。

「すえのこと、良しなに頼む。」

「別に虐めたり致しませぬ。すえは私の子で無くとも家族にございます故。」

「そう言ってくれるとありがたい」

「旦那様…真田左衛門佐幸村様。御武運を御祈りしております。」

「うむ。」

そして私は大阪城を出て、伊達陸奥守様の陣に向かいました。

伊達陸奥守様の陣に着くと、伊達陸奥守様、御自ら御出迎え下さり奥州の名物ずんだ餅を振舞って頂きました。

終始、伊達陸奥守様は笑顔で「真田左衛門佐殿の妻子の命、この伊達陸奥守政宗が御守り致そう。ほれ、お腹が空いておるじゃろう?ずんだ餅じゃ、さぁ好きなだけ召し上られよ。」と明るくお話をされており、とても敵方の将には見えませんでした。

そして翌日、豊臣方は総掛かりで徳川勢に挑み、毛利勢、真田勢は破竹の勢いで大御所様の陣に迫ったそうにございます。

この日、三方ヶ原の戦い以来倒されることのなかった大御所様の旗印は真田勢によって薙ぎ倒されたそうにございます。

大御所様は旦那様の猛攻に二度も切腹を覚悟なされたとか。

しかし、旦那様は敵の流れ弾に当たり、馬上筒を落としてしまい、敗走したそうにございます。

同じ頃、大坂城は火の手が上がり、落城。

幸昌は豊臣秀頼公のお側近くで「真田左衛門佐幸村が嫡男、幸昌!!」と叫び、自害したそうにございます。

そして旦那様もとうとう討ち取られてしまい、大坂夏の陣はここに終わったのでございます。

伊達勢が大坂を離れるにつき私は娘たちを連れ、一度紀伊に逃れましたが、徳川勢に見つかってしまい、私は大御所様に呼び出されてしまいました。

大御所様に謁見致しましたのは京の都にございます。

大御所様は私が想像していたよりも老けており、その姿はまるで人に化けた古狸でございました。

この老人が父上様と旦那様の敵と思うと仇を討ちたくて仕方がありませんでした。

「戦は既に終わった。案ずるな。そなたの命を取ったりはせぬ。真田親子には手を焼いたが、真田安房守も真田左衛門佐もとうとう死んだ。後は京の都で余生を過ごすがよい。」

大御所様は低い声でそう仰せられますと、すぐ立ち去ってしまいました。

それから私はこの屋敷で余生を過ごさせて頂いております。

旦那様の兄上様は今や十万石の大名。真田の家は安泰にございます。

おきく、長い話に付き合って頂き礼を言います。

私の夫、真田左衛門佐幸村は日ノ本一の武士にございます。

どうかお忘れなきよう。

おきくに旦那様の話をしてから月日は流れ、慶安二年、遂に私も最期を迎えようとしておりました。

いよいよ旦那様にお会いすることが出来ます。

一度限りの今生で真田左衛門佐幸村の妻として生きることが出来、私は果報者でございました。

私の死後、私の墓所は旦那様と幸昌と一所に建てられました。

私は再び二人と共に過ごせるのでございます。

「旦那様。旦那様の策はまた当たりましたね」


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