僕たちのごくささやかな冒険
深夜の住宅街は昼間より草木の香りが強い。
夜の散歩をするようになって気付いた事の一つだ。
夏を目の前にして、庭木や街路樹が、人間が寝ている間だけ息を吹き返しているのかもしれない。
アスファルトを踏むスニーカーのソウルが立てる音が、いつもより大きく感じられる。
今日はどこへ行こうか。
僕は夜に向かって足を踏み出す。
初めて深夜の散歩をしたのが一ヶ月くらい前。
敢えて理由をつければ、どうしてもコーラが飲みたかったから。冷蔵庫の中には、サイダーしか無かったはずで、それでも本当はまったく構わなかったのだけど、深夜一時半に外へコーラを買いに行く、という思いつきがなぜか頭から離れなくなってしまった。
トイレへ行く振りをして、玄関からスニーカーを取って来ると、窓から屋根とブロック塀を伝って外へ出た。
人気の無い街を歩きはじめると、なんだか足がふわふわとして体がいつもより軽い。
もしかして、少し緊張していたのかもしれない。気持ちを抑えないと小走りになってしまいそうな気がする。
コーラが売っている自動販売機は家から数十メートルの場所にあったのだけど、僕はそれを通り過ぎて、さらに歩いた。中学生が一人で深夜に歩いていると、誰かに会ったら通報されるんじゃないかって心配もあったけど、住宅街の街灯は思いの外暗く、隠れられる陰もたくさんあった。
どこの家も部屋の灯りが消えていて、歩いている人もいない。少し離れた幹線道路から時折車の音が聞こえる以外、とても静かで、頭の中で考えている事が音となって漏れ出しそうな気がした。
僕がここを歩いている事を、世界中の誰も知らない。
それがなぜかくすぐったいような、楽しいような、でも少しだけ寂しいような、不思議と心が軽くなるような。今まで言葉だけは知っていて、それがどんな物なのかは分からなかったけど、もしかしたら、これが自由って感覚なのかも、なんて思えて僕の足はどんどん軽くなっていく。
木の茂った公園は深い闇を作り、小さい頃に読んだ童話の森みたいに見えたし、終電の終わった鉄道の駅は電気を落として廃墟のように見えたし、駅前に一軒だけ開いていたバーガーショップは宇宙ステーションのように見えた。
街の中のあらゆる場所が昼間とは表情を変えていた。
結局家の近くにある自動販売機でコーラを買って、部屋に戻って時計を見ると、随分歩いたように思ったのに、部屋を出てからほんの一時間しか経っていなかった。僕の体は未だに夜に包まれていて、なんだか耳が詰まったように音がくぐもって聞こえた。
それ以来、僕は三日に一度は深夜に部屋を抜け出して、夜の散歩をするようになった。
マキトと会った夜は、もうほとんど夏と言っていい頃で、深夜でも外の空気が重さを感じるくらいに湿っていた。
シャッターの下りた商店街を歩いていると、向かいから一人歩行者がやってくるのが見えた。
散歩中はいつも人の目を避けている。他人を見かけたら、出来るだけ早く身を隠すのが習慣になっていた。
その時も隠れようかと辺りを見回したのだけど、生憎横道は無く、商店街のため街灯も明るめで逃げ込める場所が無い。仕方なく顔を伏せてすれ違おうとすると、「タカアキ」と名前を呼ばれた。
顔を上げると、マキトが嬉しそうな顔で笑っていた。
「何やってんだよ、タカアキ。こんな時間に」
「何って、お前こそ」
「俺は、まあ、散歩」
「お前も?」
「お前もってことは、タカアキもそうなんだ」
そう言うと、マキトはますます嬉しそうな顔をする。
「この辺明るいから移動しようぜ」
僕が言うと、マキトは少し考えて「じゃ、公園行こう、公園」と言って歩き出した。
僕たちは途中の自動販売機でジュースを買って公園へ行った。
普段一人で公園に入る事は無い。正直なとこ、実は少し怖かった。
公園は学校の校庭くらいの広さがあって、一部は噴水なんかがあるのだけど、半分以上が森になっていて、森の中に街灯は数えるほど無い。ただでさえ暗いのに、その街灯の光も茂った葉に半分くらい隠されている。
僕たちは暗い森を抜け、今は止まっている噴水を囲むベンチに座った。
森から流れてくる湿気で、靄がかかったようにベンチの横にある街灯の光も滲んでいる。
「相変わらず学校来てないんでしょ」
マキトが一口ジュースを飲んで聞いて来た。
「まあな。二年になって最初の日の午前中だけ行ったけど」
「行ったうちに入らないって、それ」
マキトが笑う。
「お前も相変わらずなのか」
「うん。相変わらず」
「それでも毎日行ってるんだな、学校」
「うん。行ってるよ」
僕とマキトは、家が近い事もあって、小学校の頃は親友と言っていい関係だった。
そして、中学に入ってからのマキトはいじめられっ子で、僕は不登校の引きこもり。
違うクラスになった事もあって、中学生になってからは二人で遊ぶようなことは無くなっていた。僕たちは、多分二人とも自分の事で精一杯だったんだろう。 僕は自分が学校に行けなくなった理由をマキトに話した事はなかったし、マキトがいじめられるようになった理由を聞いたことも無かった。二人とも小柄で華奢で、人と話すのがあまり得意じゃなくて、外で遊ぶより家でゲームをしたりなんて過ごし方が好きで。
僕が学校に行けなくなったのは、実はマキトと無関係では無い。中学一年になって早々に、マキトがいじめられるようになった。クラスは違ったけど、その事は知っていた。学校の帰りなんかにたまたま会うと、小学生の時のように一緒に帰ってはいたけど、マキトは僕にいじめの事は話さなかったし、僕も聞かなかった。
僕はそんなマキトの事を見て、いつか自分もそうなるんじゃないかって怖くなって、クラスメイトとまともに話が出来なくなってしまった。
隣の席から「教科書見せて」なんて声をかけられるだけで、心臓が爆発しそうなくらいに跳ね上がって、顔は真っ赤になるのに冷や汗が止まらなくなる。そんな僕を見るクラスメイトの目がだんだん変わっていって、その目がまた僕の恐怖を増幅させる。いつの間にか教室のどこかで笑い声が上がるだけで自分が笑われてるんじゃないかって気がして、それだけで体が震えて来るようになって。
ある日社会の授業で、グループを作って市の公共施設の取材をして結果を発表するって課題があって、先生が「それじゃ、グループは好きなように作っていいよ」と言った。
先生にしてみれば、ある意味サービスのようなつもりだったのかもしれない。決められた班ごとじゃなくて、仲のいい仲間なら面倒な取材も楽しく出来るだろう、なんて思ったのかもしれない。
嬉しそうに仲いい通しが声をかけあって次第にグループが出来あがって行く中、僕は自分の席から立ち上がる事も出来ずにいた。先生が心配したのか、僕の横に来て、僕の肩に手をかけながら「まだ人数が足りない班あるか」ってクラスメイトに向かって言った瞬間、僕は気を失った。
それが、僕が学校に行った最後の日になった。
「それにしても、俺が学校行ってるのに、なんでタカアキが行ってないのか、意味分かんないな」
マキトはまるで他人事みたいに軽く言う。
マキトはいつもそうだった。どんな嫌な事があっても、まるでどうって事無いって顔でいる。前向きって言うのとはちょっと違う気がするのだけど、僕なんかよりずっと強いやつだって事は確かだった。
「俺にしてみればお前が学校に行けてる事が信じられねえよ」
「なんで? 俺がいじめられてるから?」
マキトは言いにくい事をさらっと言う。
「ま、まあそう言う事」
「なんてこと無いよ。何かされたりやらされたりする度、俺の経験値は上がってるんだ。もうかなりレベルアップしてるよ」
「レベルアップしても、あいつらに勝てないじゃないかよ」
相変わらず他人事みたいに言うマキトに少しイラっときて、きつい言い方になってしまった。
「何で勝たなきゃいけないんだよ。そのためのレベルアップじゃないもん」
「じゃあ何のためなんだ」
「さあ。何のためだろう」
そう言って、マキトは笑った。
「なんだよそれ。意味ねえ」
釣られて僕も笑ってしまった。
ペットボトルに残ったジュースを飲み干すと、上を向いた目線の先、湿った空気に輪郭が歪んだ月が夜空に浮かんでいるのが見えた。
「それで、タカアキはなんで学校来ないの?」
もう何度も何度もされた質問だった。親からも先生からも数えきれないほど聞かれた。その度僕は口を閉ざしてただじっと下を向いていた。どう説明しても分かってもらえないんじゃないかって気がしたし、説明したとしてもきっと僕に対して失望を感じるだけに決まっている。
「人が、怖いんだ」
考える前に、言葉が滑りだした。きっと、目の前で僕の顔を覗き込むマキトの目と、夜のせいだ。
「分かる。周りにはモンスターしかいなくて、旅に出ないと仲間とは出会えないのにいつまでも最初のエリアから出られないまま、同じ場所をうろうろしてるだけだもんな、俺たち」
「いきなりレベル違いのダンジョンに迷い込んだまま出られなくなっちゃったってとこか」
「それな。でも、たまに宝物も見つかるよ」
「見つかるかぁ?」
「うん。例えば、今この瞬間とかね」
そう言えばこいつは昔から普通の顔をしてこの手の恥ずかしいセリフを言う。
「なんだそれ」
と笑う事で誤魔化したけど、僕はなんだか心の中のほうがざわりと騒いだような気がした。
その日以来、マキトは夜の散歩に僕を誘うようになった。
「冒険の時間だ」
そんなメールが来ると、僕は途端に落ちつかない気分になって、その必要も無いのに慌てて外出の準備をして、布団を人型に盛り上げて部屋の電気を消した。
二人になると、行動範囲が広がった。
ある日はセキュリティの甘そうな古いビルに忍びこんで屋上まで登ってみたり、そのまま隣のビルに飛び移ってみたり、線路に入り込んで駅から駅まで線路上を歩いてみたり、僕たちが通った小学校の校庭の真ん中に寝転んで空を眺めたり。
最後はいつも公園のベンチで少しの間話をした。
夏になると夜明けも早く、僕たちが公園を出る頃には東の空が薄らと赤く染まっていた。
ある日、マキトがコンビニでアイスを買おうと言い出した。
「こんな深夜に中学生が二人で店に行ったら通報されるんじゃないか」
「大丈夫でしょ。コンビニの深夜バイトなんて、きっとそんな事いちいち考えないよ」
「そんなもんかな」
「うん。大丈夫。それにもう夏休みだし、少しは世間も学生には甘くなるよ」
「もう夏休みか」
「それ知らないって、さすがヒッキー」
「うるせえ。誰より休みを楽しみにしてるいじめられっこが」
その頃になると、僕たちはお互いの境遇を冗談のネタに出来るくらいの仲になっていた。
僕たちはアイスを買うため、駅から商店街を少し中に入ったコンビニに向かった。
コンビニに入ってアイスを選ぶ前に雑誌コーナーでゲーム雑誌を見ていると、レジの前で騒ぎが起こった。レジの店員と若そうな女の声で言い合いのようなものが聞こえてきた。
雑誌を戻して僕たちはアイスケースの前まで移動し、レジの前を伺った。レジの前には、僕たちとそれほど年齢の変わらなそうな女の子がいて、店員に何かを頼みこんでいた。
「お願いです。それ買って帰らないと、怒られるんです」
「そう言ってもねえ、法律で売れないことになってるんだよ」
「お願いです。父に頼まれたんです。本当です」
「困ったな。お父さんに自分で買いに来るように言ってくれないかな」
押し問答をする二人の前には、タバコが一箱置かれていた。
「でも、私怒られるんです」
「キミ、まだ中学生じゃないのかな。タバコ以前にこの時間に中学生の女の子が一人で買い物に来るのも良くないと思う。お父さんに話してみて」
僕たちは店員のそのセリフに顔を見合わせた。僕たちまでとばっちりを受けそうな話になって来ていた。店員に気付かれないよう、僕たちは店からそっと出た。
「ねえ、今レジにいたの、久住じゃないかな」
「ほんとか? そういえばそんな気がしてきた」
久住亜紀も、僕たちと同じ小学校出身の同級生だった。中学校では、僕ともマキトとも違うクラスのはずだ。
久住は、おかっぱのように切りそろえた短い髪に、いつも困っているように見える下がり眉の女の子だった。性格も引っ込み思案で、勉強でもスポーツでも、見た目でも目立つ事が無く、小柄ですごく痩せていて、口の悪い男子に「ガイコツ」なんて渾名を付けられていた。
コンビニから遠ざかろうと歩き出した僕の腕を、マキトが掴んだ。
「ね、ちょっと待って」
「なんだよ。早く行こうぜ」
「いいから」
マキトはコンビニの入り口が見える電柱の陰に身を隠す。
「久住が出てくるの待つつもり?」
「うん。なんか気になるんだ」」
僕は勿論、マキトも久住と話をしたことなんてろくになかったはずだ。どういうつもりかわからないまま、僕もマキトの横に隠れた。
少しして久住がコンビニから出て来た。
手ぶらで、ひどく気落ちした様子だ。結局タバコを売って貰えなかったようだった。
「久住」
彼女が僕たちの前を通り過ぎた直後、マキトが声をかけた。
久住は驚きで「ひゃあ」と言う短い悲鳴をあげ、振り向いた。
「何? あれ、何あなたたち。こんなところで何してんの、二人して」
「俺たち、深夜散歩部の活動中。久住も入る?」
マキトがやけに爽やかに言う。
「え、何、どういうこと」
「ねえ、久住はこんな時間にどうしたの」
「買い物。お父さんにタバコ買ってこいって頼まれた」
「でも、売ってくれなかったと」
「そう。どうしよう」
「お父さんに正直に言えばいいじゃん」
思わず僕も口を挟む。
久住は僕の顔を不思議そうに少しの間眺めた。
「小島、学校に来ないでこんな時間に遊んでるんだ」
さりげない口調だったのだけど、責められてるように感じて顔に血が上って来る。僕は俯いて黙る。
「まあ、とにかくここにいないほうがいいよ。公園行こうよ」
マキトが慌てて僕と久住の顔を交互に見ながら言った。
いつものように自動販売機で買ったジュースを持って、三人でいつものベンチに座った。
「ねえ、どこかタバコを買えるとこ知らないかな」
久住が言った。
「わからないけど、この時間じゃもう無理なんじゃないかな」
マキトが答えた。
「そっか。そうだよね」
「お父さん、怒るの?」
「うん。怒る」
「もしかしてだけど、殴られたり?」
久住はマキトの顔を見て、何か言いかけ、結局何も言わずに足元に視線を落とした。
僕は二人の会話を聞きながら、ちょっとしたパニックになっていた。慣れない他人がいることへの違和感と、その他人が受けているかもしれない暴力。体が小刻みに震えだし、上手く息を吸い込めなくなる。ひゅーひゅーと荒い息遣いで喘ぐ僕の様子にマキトが気付いた。
「タカアキ、大丈夫だよ、落ちついて、深呼吸して。大丈夫だから」
マキトに背中をさすられ、ゆっくりと呼吸を整える。
「サンキュー。もう大丈夫」
そんな僕たちの様子を、久住が不思議そうな顔で眺めていた。
「ねえ、どうしたの?」
「あ、タカアキさ、誰かがひどい目にあってるの見ると、こうなっちゃうんだ」
「だって、私の事だよ。小島には関係ないじゃん」
「そこがタカアキのいい所」
驚いて顔を上げると、同じようにびっくりしたような顔の久住と目が合った。いい所って、今こいつはそう言ったのか。
いい所だって?
正直、考えた事も無かった。
「ふうん」
久住が僕たちを見て、クスリと笑い、俯いた。
「なんかいいね、あなたたち」
「でしょ。久住さんも、散歩部入っちゃう?」
「ううん、私はいいよ」
「すぐ決めなくてもいいから、考えておいてよ」
「うん。ありがとう」
深夜の散歩に、時折久住が加わるようになった。
久住はお父さんと二人暮らしで、住宅街の途切れた少し先にある二階建てのアパートに住んでいた。お父さんは夜でも家を空けている事が多いらしく、そうなると翌日の昼くらいまでは帰って来ない。一人の時、久住は部屋の窓にピンクのハンカチを垂らして合図をした。
「こんな映画、ずっと昔見たような気がする」
初めてその合図を見た時、マキトがそう言って笑った。
何度か一緒に歩くうち、僕は久住ともマキトと話すようにリラックスして話が出来るようになった。
久住は毎回別の場所に新しい傷を負っていた。
顔に擦り傷を作っていたり、腕や足に切り傷が出来ていたり、一度少しだけTシャツを捲って、お腹に出来た赤黒い痣を見せてくれたこともあった。髪の毛で隠していたけど、一部の髪がごっそりと抜けている箇所があった。
全て、お父さんに付けられた傷だった。
久住はいくつかの散歩コースの中で、特に線路歩きがお気に入りだった。
一度、もう一駅、もう一駅と久住に頼まれ、結局四駅分も歩いた事があった。
「このままずっと朝が来ないで、ずっと歩いて行けたら楽しいのにね」
枕木を跳ねるように踏みながら、線路のずっと先を見つめて久住が言った。
「レベル100になると、夜が明けない世界のターンがあるよ」
マキトが言う。
「なにそれ」
「経験値が上がれば、いろんな事が可能になるんだって。マキトの持論」
「意味分かんない」
「俺もわからん。マキトにしか分かんない」
「今に二人にも分かるって。大丈夫」
久住が、僕に笑顔を向けながら、肩をすくめた。線路を囲む青白い灯りが、その笑顔を照らす。少しだけ吹いていた風が久住の黒髪をなぶり、細い首筋までが青白く光る。その向こうで、マキトが楽しそうに笑っている。僕たちが線路の砂利を踏む音だけが、世界に響いている。
マキトの言う事を全て理解出来てないのは確かだけど、ひとつだけ、同意する。
この難易度マックスのダンジョンでも、ほんの時たま、宝物が見つかる。
日々に起こる変化は、ほぼ間違いなく望まない方向へと僕たちを翻弄する。
ある夜、僕たちが久住の部屋の前へ行くと、部屋の窓が少し開かれ、そこから紙ヒコーキが飛ばされた。
それは僕たちの頭の上を通り過ぎると、くるりと向きを変えて、ゆらゆらと揺れながら僕たちの足元に落ちた。マキトが拾い、紙を広げると、そこにはひどく乱れた字が並んでいた。
「外に出てる事、お父さんにバレちゃった。もう一緒に行けない。右手が痺れて動かないから左手で書いてる。汚くてゴメン。今までありがとう」
街灯の明かりで、僕たちはそれを読んだ。無言のまま、何度も。
その日はジュースも買わず、僕たちは公園へ行った。
「タカアキ、どうする?」
「どうするって、どうすることも出来ないだろ」
「そうかな」
「当たり前じゃん。学校の先生にでも話すか?」
その選択肢はあり得なかった。僕たちが抱えるトラブルすら見て見ぬ振りの大人たちなんかまったく充てにならない。
「ねえ、久住がお父さんが死んだらって話したの覚えてる?」
それは、一緒に散歩するようになって三回目か四回目、久住が足に黒い痣を作っていて、あまり歩けなくて今日のように直接公園に来た日の事。
「お父さんが死んだら、私どうなっちゃうと思う?」
久住が、唐突にそんな事を言い出した。
「どうなっちゃうって?」
僕が聞くと、久住は慎重に言葉を選んで言う。
「ええと、もしお父さんが死んだら、私は一人なんだけど、どうやって生きていけばいいんだろう」
「お母さんは?」
マキトが聞く。
「お母さんの事はわからない。親戚みたいな人にも会った事ない」
「それなら、きっとそのための施設に入るんだろうね、やっぱり」
僕もマキトも、実際どうなるのか分からなかった。マキトの答えに、その話はそこで終わってしまった。
「覚えてるけど、お前、まさか久住のお父さんの事どうにかしようとでも言うのかよ」
「いや、まさか。ただ、急に思い出しただけ」
マキトの顔が、いつになく暗い。
「ねえ、一度、久住の家に行ってみようよ。もっと早い時間に。お父さんの顔を見てみたい」
「ああ、いいけど」
「それじゃ、明日。明日の夜8時頃出て来れる?」
「なんとか理由つけて出る。一度メールくれ」
「ありがとう。タカアキがいて良かった」
マキトがようやく少しだけ笑顔になった。
アパートのドアにインターフォンは見当たらず、マキトがドアを直接ノックした。
荒い足音が響き、乱暴にドアが開かれた。
久住のお父さんは、ドアの開いたスペースを全て埋めてしまうほどの大男だった。スキンヘッドで不精髭を生やし、ドアを支える腕には、びっしりとタトゥーが入っている。
「なんだ、お前ら」
「あの、僕たちは久住さんのクラスメイトなんですけど、久住さんが教室に忘れたプリントを持って来たんです」
マキトが用意していたセリフを慌てて言う。
「いらねえ。帰れ」
それだけ言うと、男は開いた時以上の乱暴さでドアを閉じた。
「あの、すみません」
マキトが部屋の中へ向かって声をかけるが、二度とドアは開かれなかった。
僕はマキトを待たずにアパートの階段を駆け下り、建物の前にある駐車場の端まで行くと、吐いた。男の体とその背後の部屋から流れ出てくる暴力と絶望に、全身が拒否反応を起こした。
「大丈夫?」
いつの間にかマキトが背中をさすってくれている。
「だ、大丈夫」
荒い息を整え、なんとか答えた。
「なんだよ、あれ」
マキトが呆れたような声で言う。
「無理だ。俺たちがどうこう出来るような事じゃない」
狭い部屋にあんな男と二人、暴力に耐えながら、久住は生きている。
「まあ、そうかも。でも、収穫もあったよ」
「ふざけんなよ。何の収穫だよ」
「気付かなかった? あの部屋、鍵が壊れてる。少なくても、部屋の鍵を探してあちこち歩き回る必要は無いってこと」
「馬鹿か。ゲームじゃねえんだぞ」
「当たり前だよ。ゲームなんかじゃないよ」
軽い口調だったけど、その時マキトはまったく笑っていなかった。
その事に、僕は気付く余裕が無かった。
それから十日ほどが過ぎたある日の午後、久住が僕の家を訪ねてやって来た。
友達が来るなんてまったく無かった僕を女の子が訪ねて来たせいで、母親はひどく嬉しそうにその事を僕に知らせた。
「ちょっと出てくる」
僕は慌てて外へ飛び出した。
あれ以来、マキトからの連絡が無い。
「ちょっと歩こう」
僕が外へ出ると、久住がそう言って歩き出した。何も言わないまま、僕たちは公園へ向かった。
昼間の噴水前は何組もの親子連れが集まっていた。小さな子どもたちが吹きあがる噴水の水に手をかざして歓声を上げている。いつもとはまったく違って見えるそこは、僕たちの場所では無かった。僕たちは噴水を通り過ぎ、森の中のちょっとした広場にあるベンチに座った。
「マキトが、入院した」
前置きも無く、久住が言った。
「え? どういう事? なんで?」
「怪我して、意識が戻らないの」
「いつだよ」
「怪我したのは、昨日の夜。家には戻ったみたいだったんだけど、心配になって今日マキトの家に電話したの。留守番に来てた親戚が教えてくれた」
「何があったんだ」
「昨日の夜の九時ごろ、マキトが突然私の家に来たの。ノックもしないでドアを開けると、部屋に飛び込んで来た。金属バット持って。それでマキトは寝転がってテレビを見ていたお父さんに殴りかかったの。バットは狙った頭じゃなくて、右肩に当たった。お父さんはすぐに起き上がると思い切りマキトを蹴飛ばした。部屋の壁にマキトの頭がぶつかってすごく嫌な音を立てた。私は倒れてるマキトに覆いかぶさった。お父さんは私とマキトの両方をさんざん蹴飛ばした後、そいつどっか捨てて来いって」
「その時マキトはもう意識が無かったの?」
久住は首を振った。
「その時は、まだ意識はあった。私が助け起こすと、なんとか立ち上がって、すぐに二人で部屋から出たの。マキトはごめんって何度も謝ってた。助けられなくてごめんって」
そこまで言うと、久住は顔を覆った。指の隙間から嗚咽が漏れだした。
「久住は大丈夫なのか? その後また何かされなかった?」
「お前もグルかって問い詰められながら、何度も洗面台の水に顔を突っ込まれた。でも、私はいいの。慣れてるから。マキトが、マキトが」
「警察は?」
「言って無い。マキトの親戚の人が、家の階段で足を踏み外したって。マキト、家に入ってから、わざわざ階段で転がったんだよ、きっと。大丈夫だからって、部屋に戻った後、朝になっても起きて来ないから部屋に行ってみたら、意識がなくなってたって」
「病院はどこ?」
「学校の横の立花総合病院」
「すぐ行こう」
僕が立ちあがっても、久住はまだ座ったまま動けずにいる。
「私、行けない。マキトの事見れない。私のせいだから、私のせいだから」
顔を覆う久住の右腕を取って、立ち上がらせた。
その腕はまだ上手く動かないらしく、久住は慌てて左手で僕の手を掴む。よく見ると、その顔にも薄っすらといくつかの痣が浮かんでいる。
レベルアップどころか、僕たちの力はどんどん弱くなっていく。いつか大人になって、本当の力を手に入れるまで、僕たちのライフは残っているのだろうか。逃げ続けている僕より、痛みや恐怖に立ち向かっている二人ばかりなぜ傷を負わなければならないのか。病院に向かいながら、僕はいつのまにか叫び出していた。意味の無い悲鳴を、獣のように叫び続けながら、僕は久住の左手を握って、走った。
二日後、マキトは目を覚ました。
マキトからのメールを見て、僕はすぐに病院に駆け付けた。
「やあ」
頭に包帯を巻かれ、何本かのチューブやコードに繋がれながらも、マキトは笑顔で僕を迎えてくれた。
「大丈夫なのか?」
僕が聞くと、マキトはなぜか照れくさそうに笑った。
「ううん。どうだろう。もしかしたら、後遺症が残るかもって。足か、手か、両方か。リハビリとかもしなくちゃダメっぽい」
「でも、よかった」
「うん。なんとか生きてる」
「俺がかけた復活の呪文が効いたんだよ」
「あは。そんなの使えるほどレベルアップしてたんだ、タカアキ」
「それより、お前、どういうつもりだよ。何一人でやらかしてんだよ」
「まあ、なんでだろう。タカアキを巻き込むような事じゃない気がして」
「パーティー置いて一人でラスボス倒しに行く勇者なんて聞いたことねえぞ」
「なんとかなると思ったんだけどなあ。装備が貧弱過ぎた」
マキトは笑おうとして、そのせいで頭が痛むらしく顔を顰めた。
それから三ヶ月ほどして、ようやくマキトは起き上がる事が出来るようになった。
左半身に麻痺が残っていて、普段は車椅子に乗っている。毎日悲鳴を上げながらリハビリをしてはいるが、歩けるようにはなっても、以前のように走れるようになるかは分からないらしい。
「これにエンジン付けたらダメなのかな。それ出来たらすごくない?」
見舞に行くと、僕に車椅子を押させながら、そんな事を言う。
久住とは、毎週金曜日の夜にメッセージを送り合っていた。
久住のアパートの屋根から伸びる排水パイプの受け石の後ろに、お互い手紙を置いておくことになっている。
未だにスマホどころか携帯すら持たせて貰えない久住と、夜中しか外に出ない僕とでは、そんな方法でしか連絡を取り合う事が出来ない。お互いの近況報告くらいしか書いてはいないけど、その手紙は、お互いに取って、嵐の海の灯台みたいに大事な物だった。そして、久住の書く文字は、相変わらず歪んで乱れている。
僕は深夜の散歩を一人で続けている。
歩くだけじゃ無く、かなりの距離を走り、公園へ行って筋トレをする。
さらに一ヶ月。
胸の筋肉が見て分かるほど盛り上がって来た頃、通販で取り寄せた荷物が届いた。
僕は深夜を待って、その荷物を開けて、中身をタオルで包んでディパックに移した。
僕は久住の部屋の前で、大きく深呼吸をする。
ディパックの中に手を入れ、大振りのグルカナイフの柄を握る。
僕が手に入れた、勇者の剣。
左手でドアを一気に開け、右手で剣を抜きだす。
トイレから短パンを上げながら出てくる大男の顔面に向かって、思い切りそれを振りおろした。
三年ぶりに施設の門を出ると、その先に続く道沿いの桜並木が満開だった。
施設の中にも咲いてはいたが、その香りは格別に芳しく、中の物とはまったく違って感じられた。
施設の前には、両親が待っていた。僕はどういう表情をしていいか分からず、無表情のまま二人に向かって歩き出した。
その時、泣き笑いの表情を浮かべて立つ二人の後ろに、松葉杖で立つマキトと、髪を伸ばして少し大人っぽくなった久住が並んでいる事に気付いた。
二人は舞い散る桜の中で、春のように笑っていた。
僕の顔も、自然と笑顔になる。
僕たちの本当の冒険は、きっとこれから始まる。