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8コール

作者: 高橋徹

1.

 生まれと育ちは山形で、大学進学を機に関東へと移り住んだ。

 1年留年してしまったものの、何とか東京のIT系の会社に就職することが出来た。

しかし、慣れない残業で身体を壊して会社を辞め、このままでは身動きが取れないということで、実家に戻ってしばらく過ごすことになった。

 身体の調子が良くなってきたところで、働いて身体を慣らして行こうと考えて働き口を探した結果、製造業の会社の派遣社員として働けることになった。

 未知の業界であることや残業・休日出勤が多いこと、大卒出身者がほとんど居ないことによる感覚の違いに最初こそ戸惑いを覚えたものの、皆自分と同じ生まれ故郷の人ということもあり、何とか心身ともに安定して来た。

 慣れてくると徐々に見えてくるものがある。

 会社の上下関係や人間関係、仕事の出来る人とそうでない人、真面目に働く人とどこかやる気の無い人。

 その他にも、掃除が行き届いている場所といつも決まって汚れている場所などの、些細なところにも目が行くようになった。

 それに気付いたところで、どうこうする訳でも無いのだが。

 そんな、心にだいぶ余裕が芽生えてきた頃に、一つの違和感に気付いた。


2.

 それは、電話だった。

 自分が働いている部屋には内線が繋がっており、部署内を繋いでいる。

 外線からの電話は、事務所を通じて内線で繋がるようになっていた。

 電話に出るのは正社員の人が主で、派遣社員の中でも長く働いていて勝手を知っている人がたまに出ることがあった。

 大抵の電話は、3コールもしないうちに誰かしらが出て、状況によっては声を上げて他の人の名前を呼んで誰々からの電話だと伝える、という流れが常になっていた。

 そんな中、一つだけ。

 ある時刻にかかってくる電話だけ、毎回誰も出ていないことに気付いた。

 初めは気付かなかった。電話に誰が出たのか毎回聞き耳を立てている訳でもないし、トイレから戻ってきたら誰かが既に電話で話していたりしたし、仕事内容によっては同じ室内でも電話がかかってきたことすら分からない程離れている場合があったからだ。

 その電話がかかってくるのは、毎週水曜日、定時の17時より30分前の、16時半。

 毎週水曜日のこの時間、いや、この時刻ぴったりにかかってくる。

 しかし、この電話だけは、毎回決まって、絶対に誰も出ない。

 明らかに避ける、という様子でもない。

 ただ、その電話がかかっている間、誰も電話に見向きもせず、まるでその間だけは電話自体が存在していないかのような扱いになっている。

 最初は偶然誰も出なかっただけだろうと思ったが、どの電話も早め早めに誰かしらが出ているのに、その電話だけは出ないという状況はどうにも不自然だった。

 この電話の法則に気付いてからは気になって仕方が無くなり、しばらくの間、16時半になる5分前くらいからは絶対電話の近くで仕事をするようにして、周りの人の様子を観察していた。

 それで、かかってくるタイミング以外に気付いたことが、一つだけあった。

 電話は、必ずコール8回で切れるのだ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 誰も出ないので、コールが8回鳴るのが聞こえてから毎回切れる。

 水曜日の、16時半に、コールが8回。

 この曜日と時刻と数字に、何の意味があるのかは分からない。

 ただ、この電話があまりにも当たり前に受け入れられ、また、あまりにも当たり前に存在を無視されているという違和感が、心の中にべっとりと貼り付いていた。


3.

 昼休みと夕方の定時後残業前の休憩時間は、休憩室に多くの人が集まる。

 誰かにこの話をしたかったのだが、大勢が居る前でこの話をして、何のことかと笑われでもしたらたまったもんじゃなかったので、どうしたものかと二の足を踏んでいた。

 しかしある日、不意にその機会が訪れた。

 休憩室のすぐ近くにある、着替え用のロッカールーム。

 そこは休み時間でもあまり人が来ない場所で、たまに食後の薬を取りに来る人がいる程度だ。

 そこである時、目がかゆかった為目薬を取りに行ったところ、同じ部屋で働いていて、歳も自分に一番近い――と言っても5つ程上なのだが――人が入ってきた。

 その人は缶コーヒー片手に携帯をいじっていて、どうやら暇を潰しに来たようだった。

「お疲れ様です」

「おう、お疲れ」

 さらりと挨拶を交わし、目当ての目薬を差すと、何とはなしに雑談を始める。

 大して興味の無い話題でも、取り敢えず例の話題に移る為の手段として何とかかんとか捻り出す。

 天気の話、季節の話、野球の話……。

 短い休憩時間の間に、先輩のアンテナに引っかかる話を下手に持ち出そうものなら、その話だけで時間一杯使ってしまう。

 口にする話題にさりげなく気を遣っていると、ふと話題は会社の愚痴に移った。

 やれ「パソコンが古い」だの「ソフトが止まってばかり」だの「新年度から刷新したシステムの利用の仕方がまるで統一されていない」だのと……自分も同意出来る話題が多く、先輩の愚痴に対して、本心からしきりに頷いていた。

 と、ここで、不意に電話の話が出て来た。

 先輩は「内線で使うだけなのに、やたらとノイズが乗って会話がしづらい」という旨の文句を言っていたのだが、こちらとしては気になっていた話題を切り出せるチャンスだと意気込んでいるため、申し訳ないが先輩の話は右から左に流れて行った。

「そうですねー。ああ、そういえば」

 それとなく相槌を打ち、遂に話題を切り出す。

「内線なんですけど、毎週水曜日の――」

 16時半に、と繋ごうとした矢先。

「やめとけ」

 ほんの今さっきまで、穏やかな口調で喋っていた先輩が、一転して厳しい声音で制止してきた。

「……え」

 突然の出来事に、思わず戸惑いの声を漏らす。

 先輩はそんな自分の様子を見て、ふうとため息を吐いて残りのコーヒーを飲み干した。

「詳しいことは言えねえんだ。わりいな。ていうか、俺もよく知らねえんだわ」

 ただ、と空になった缶を見つめながら、

「この話題は絶対、誰にも話しちゃいけねえ。じゃねえと――」

 先輩が、ふと上を見上げる。

 なんとなく上を見つめるというよりは、どこか宙の一点を見ているような感じがする。

「――目を、付けられちまうぞ」

「……え」

 再び、戸惑いの声が漏れた。

「この話は終いだ。どうやらこの話題は切り出したやつが目を付けられることがほとんどらしいから、おめえも気を付けろよ」

 言うと、先輩は踵を返してロッカールームの出口へ向かう。

「あ、ちょっと、先輩――」

 こちらの言葉を受け止めることなく。

 先輩は、ドアをばたんと閉めた。

 換気扇が回る小さな音だけが、狭い室内に薄気味悪く響いた。


4.

 その日を境に、自分の周りで、いや正確に言えば自分だけが気付く範囲で、奇妙な現象が起こり始めた。

 普段仕事をしている部屋では、部品を分けて管理する場所の電気は基本は点けておかず、使う人がその時だけ適宜点けるようにしている。

 ある日の朝7時半頃。

 業務開始の1時間前に出勤して、本を読むのが日課になっているのだが、いつも上長が自分より先に来て、電気や冷暖房を点けていた。

 その日出勤した時も既に電気が点いていたのだが、上長が居ない。どうやら、他の部署に行っているようだった。

 だからと言って読書をする予定が変わる訳でも無いので、迷いなく本を開いて本を読み始める。

 5分程経った頃だろうか。

 かちっ、かちっ、かちっ――。

 誰かが、蛍光灯のスイッチの紐を引っ張る音がする。

 部品を管理している場所は棚で仕切られており、棚によりいくつかの通路が出来ているのだが、スイッチの点け方を見て、その内の一つに入って行くのが分かった。

 ああ、上長が入って行ったんだな、と思っていた。

通路と言っても一つにつき精々7~8mの奥行きしか無いので、何か部品を見て戻ってくるだけなら長居したところで数十秒とかかからない。

――と、思っていたのだが。

 このとき、数十秒どころか、数分経っても蛍光灯は点いたままだった。

 流石に違和感を覚えて、読んでいた本から視線を上げる。

 気配がしないような気がするが、数m先のことなので如何せん判断が付かない。

 ――見に行くのも、何か恐い。

 そう思って身を強張らせていると。

 かちっ、かちっ、かちっ――。

蛍光灯が、さっきと同じ順序で消えて行った。

 おかしい。

 普通なら、戻って行くのならば、逆順で消して行くはずだ。わざわざ同じ順序で消して、暗くなった通路の奥から戻ってきたのだろうか。

 更に、ここでもう一つのことに気付いた。

 ――蛍光灯が点く前も後も、どこかのドアが開閉された音が全くしなかった。

 最初に点く前については、上長がこちらから見えない、部屋の奥に居ただけという可能性も十分に有り得た。

 だが今は、蛍光灯が消えた後、その足音はどこにも向かう様子が無い。

 ――いや。そもそも。

 足音自体、最初から一切聞こえていなかった。

 人がいる証拠と言える、蛍光灯が点くと言う現象が起きながら、誰も出てこない。影も形も見えない。

 居ないとおかしい。だけど、誰か居るのか確認するのが怖い。

 本に視線を落としてもまるで頭に入らない状態で、数十秒思案に暮れていると、不意に後ろにあるもう一つの自動ドアが開いた。

「おお、おはよう。……どうした?」

 現れたのは、上長だった。

「ああ、いえ……おはようございます」

 慌ててかぶりを振り、弾みで立ち上がった。

 上長に変に怪しまれないようにしつつ、トイレに行きがてら、勇気を出して先程蛍光灯が点いていた場所とその周辺を隈なく歩き回ることにする。

 歩き回ったのは、上長の席からも角度的には見えない位置なので怪しまれることはないし、確認するのに20秒とかからない広さなので、確認はあっさり終わった。

 ――終わってしまった。

 誰も、誰も居なかった。

 結局、自分の席の後ろのドアも、奥にある(現時点で自分の目の前にある)ドアも、上長が入ってくるまで何の音も立てていなかった。

 つまり、蛍光灯が点く前も点いた後も、この広い部屋に居たのは自分一人だったということになる。

 背筋が、凍った。


5.

 ある日の昼休みのこと。

 45分間の昼休憩の時間になると、いつもなるべく早く社食を平らげ、その後鼻炎を抑える薬を飲み、缶コーヒーを飲むところまでを最初の15分で終わらせ、残り15分ずつを読書と昼寝にそれぞれ充てていた。

 その日もいつも通りのリズムで最初の15分間で諸々のやるべきことを終わらせて、読書と昼寝をする為自分のデスクに向かった。

 その日は、いつもなら2~3人居る他の社員が偶然誰もいなかった。

 しかし、別にそれで薄気味悪く思う程その部屋は暗くないし、どうせすぐに誰かしらが来るだろう、そう思っていた。

 読書に夢中になって、気付けば昼休みは残り15分を迎えていた。ここで昼寝をきちんとしておかないと、午後の勤務に響く。

 読んでいる小説に栞を挟むと、メガネを外し、捲っていた制服の袖を戻して、腕を枕に机に突っ伏した。

 このとき、ああ、そういえばまだ誰も戻ってきていないな、とは気付いていた。

 しかしこの流れに慣れている為かすぐ眠くなり、まどろみの中にその小さな違和感は溶けて行った。

――5分程、経っただろうか。

 初めはすぐに眠れると思ったのだが、思ったより寝つきが悪い。

 しかし突っ伏しているだけでもだいぶ違うので、引き続きこの姿勢を継続しよう――。

 そう思った矢先。

 気配に気付いた。

 後ろに、何かが、いる。

 今までも、寝ているときに後ろに気配がすることはあった。だがそれはもちろん他の人で、後ろを通りかかった時にその気配がするというのは、あまりに当然のことであった。

 だが、今後ろに感じる気配は、「いる」よりも「ある」という言い方の方がしっくりきそうな、何かどろどろした、ひどく不愉快な空気を湛えている。

 ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ――。

 自分も履いている、社員用の靴で歩いたときと同じ音がする。

 だがその音の間隔や大小は、ひどく不安定だった。

 まるで、自分の後ろで千鳥足で歩いているかのような、あるいは、時折歩いて時折走っているような、ひどく不安定な動き。

 自分の後ろのスペースは、そんなに広くはない。

 つまりこの後ろの「なにか」は、そのスペースを目一杯使って、何か妙な動きをしていることになる。

 ぎゅっ、ぎゅぎゅぎゅっ、ぎゅぎゅっ――。

 ひどく不安定なその音のリズムに、どんどん不安が募り、鼓動が速まる。

 なんだ。なんなんだ。こいつは、これは――。

 顔を上げることも出来ぬまま、懸命に目を瞑っていると、不意に後ろの気配が近付いてくるのを感じた。

 ぎゅっ、……ぎゅっ、…………ぎゅっ――。

 今度は、一歩ごとに遅くなっていくかのように、一歩一歩踏みしめるかのように、ゆっくりと、でも確実に、こちらに近付いてくる。

 怖い。

 逃げたい。

 でも、顔も上げたくない。

 気配が背中からほんの数十センチのところまで近付いてきた。

 微かな、生臭い臭い。

 本当に後ろのこれは、人間なのか。

 生きているのか、死んでいるのか。

 人間なのか、人間でないのか。

 様々な疑問が頭を巡っていると、顔(と直感で分かった。なんとなく、としか言いようがないのだが)がゆっくりと近付いてきて、耳元まで寄ってきた。

 もうだめだ――と、思ったそのとき。

 ガーッ、と。

 自分のすぐ右後ろにある自動ドアが、不意に開いた。

 社員の一人が入ってきたのだ。

 その瞬間、後ろの気配は消えていた。

 心の底から安堵すると共に、社員に対して心の奥で深く深く感謝した。

 傍から見れば自分がただ昼寝しているだけの光景なので、社員はいつも通り奥にある自分のデスクに向かう。

 ――しかし。

「……んん?」

 完全に独り言としてだろうが、社員は自分の後ろを通ったとき、何かに反応して、微かに声を上げた。

 社員は一瞬立ち止まり、もう一度んーと唸ると、

「あー……誰か話に出したのかなぁ……困るなぁ……あれ、怖いんだよなぁ……」

 と、ぽそりと呟いた。

 そのとき、背中に微かに視線を感じたのは気のせいだったのだろうか。


6.

 不可解な現象が起き始めてから、1週間程経った頃だろうか。

 例の電話に、妙に違和感を覚え始めた。

 電話は今までと変わらず、毎週水曜日の16時半きっかりにかかってきて、誰も出ることなく、8回コールが鳴ってやがて切れる。

 そこは変わらない。

 だが、音が違う。

 今までは、

 ぷるるるる……ぷるるるる……。

 とごく普通の着信音が流れていたのだが、最近は、

 ぷるる……ざざ……ぷる……ざざざ……るる……。

 といった具合に、途中でまるでノイズが乗ったラジオのような、放送時間を過ぎたテレビの砂嵐のような音が混じって聞こえるようになった。

 これは流石におかしい、周りの人もおかしいと思うだろう――と思って辺りを見回すのだが。

 誰も、何も、反応しない。

 無理矢理反応を隠しているようにも見えず、まるで電話の音に何も不自然なところが無いかのような振る舞いを見せている。

 いつも通りの、純粋なる、無視。

 なんだ? どういうことだ? そんな疑問が再現なく湧いて出て来る。

 着信音は日に日に歪なものになっていき、今ではもはやコールが8回鳴っているのがかろうじて分かるという程度になっていた。

 それならば、この電話のコール自体聞かなければ良いだろうと思い至り、その時間にトイレに行くなどして部屋を出ることにした。

 これならば何も問題はあるまい。そう思っていたのだが――。

 ある日、電話が来る数分前にトイレに行って個室に入っていると、誰かがトイレに入ってきた足音がした。

 その足音は会社指定の靴を履いている割には妙に大きく聞こえて、まるで一歩一歩強く踏みしめているかのようだった。

 やがて、その足音が自分の個室の前で止まる。

 個室の前にある小便器の所で立ち止まったのだろう、そう思った。

 ――と。

 携帯で時刻を確認して、例の16時半を迎えたのを確認した時。

 ぷるるるる……ざざ、ざ……ぷる、ざざ……ぷるっ……ざざざ……。

「なっ……!」

 思わず悲鳴を上げそうになり、慌てて自分の口を塞いだ。

 電話のコール音が、個室の壁のすぐ向こう側から聞こえてくる。

 ちょうど、さっき目の前まで歩いてきた人の辺りから。

 何が起きているのかは分からない。

 しかし、今個室を出るのも気が引ける、というより絶対無理だ。

 そうだ、いつもの電話なら、8回のコールで止むはず。

 そう思い、口を手で押さえたまま、必死で黙りこくって耐え忍んだ。

 …………。

 やがて、トイレを静寂が包んだ。

 ふっと気を緩めて、そろそろ出るかと思い立ち上がった。

 ――その瞬間。

 どんどんどんどんっ、と。

 個室のドアを激しく叩く音がした。

 心臓が止まるのではないかと思う程に驚いた後に、今度はドアノブをがちゃがちゃと回す音がする。

 荒々しい音に、身を竦ませる。完全に総毛立っていた。

 そして、一瞬の静寂が訪れたと思った矢先。

「出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ出ろ」

 生身の人間とは思えないような、ひどく低くしわがれた、それでいてまるでラジオのようにノイズがかった声で、出ろという言葉を連呼された。

 一瞬、単純にこの個室を出ろという意味なのか、他の個室が埋まっているために急ぎで使いたい人がいるのかと思ったが、そういう人であってもこんな恐ろしい真似はしない。

 直感で、「電話に出ろ」と言っているのだと、そう思った。

 その声が止んだ後、ドアの向こうの気配はすっと消え、今度こそいつもの静寂が訪れた。

 恐る恐るドアを開け、誰も居ないのを確認すると、そそくさとトイレを後にした。


7.

 次の日は、正直会社に行きたくない気持ちが勝っていた。

 しかし派遣の身で有給を取れるはずもなく、仕事内容や人間関係が嫌になっていた訳ではない。

 重い足を引きずるようにして車に乗ると、いつも通りの時間に会社に向かった。

 恙なく業務をこなして行き、気付けば時刻は16時半に迫っていた。

 一気に昨日までの嫌な記憶が蘇る。

 この部屋に居ても怖いし、トイレはもっと怖い。

 個室には入らずにいようかとも思ったが、それでは他の人に怪しまれるし、何より、「アレ」をこの目で直視してしまうことへの恐怖もあった。

 いっそ適当な理由を付けて、一度外に出てしまおうか……そんな風に考えていたとき。

「……あれ」

 自然と、声が漏れていた。

 いつもなら一時的に人が減っていたとしても、2~3人は絶対人が居る筈のこの部屋に、自分しか居なくなっている。そういえば、今日は珍しく2人休みで1人早退もしていて、上長や先輩社員は他の部署との打ち合わせが複数入っていると言っていた。

 今、この部屋には、自分一人しか居ない。

 その事実に、総毛立つのを感じた。

 これは、本当にまずいのではないだろうか。

 実際のところ、自分が部屋を抜けて一時的に無人になったところで、自分が責められる訳ではない。元々電話は取っていなかったこともある。

 なので、今のうちに外へ行こうと考えた。むしろ今なら誰にもバレずに外に出られる。

 そう思ったが……。

 こんな風にぐるぐる考えていたのが、仇になった。

 立ち上がって部屋を出ようとした、その時。

 ……ぷるるるる……。

 コールが1度、響く。始まってしまった。逃げ遅れてしまった。

 ……ぷるる、ざざ、るる……。

 コールが2度、響く。

……ぷる、ざざざ、る……。

 コールが3度、響く。

 コールが繰り返されるごとに、ノイズが乗り、音自体も歪なものになっていく。

 きっと、もう。

 何の策を講じても、間に合わない。

 立ち竦んでいると、5度目のコール辺りでだろうか。

 ……ぷるる、ざざ、出ろ……

「……なっ……」

 昨日、トイレの個室で聞いたあの声だった。

 ぞわりと、身体全体に一瞬で鳥肌が立つ。

 コールの音はもはや原形が無くなっていた。

 ……出ろ、ざざざ、出ろ……。

 ……出ろ、出ろ、出ろ……。

 ……ざざざざ、出ろ出ろ出ろ出ろ……。

「ひぃっ……!」

 恐怖のあまり、手で頭を抱え込んでその場にしゃがみ込んだ。

 コールは8回で止み、部屋には静寂が戻る。

 しん……と静まり返った部屋で、辺りを見回すように立った。

 これで終わり……のはずなのに。

 このときはどうしてか、もう何も鳴っていない電話に目が行った。

 そして、吸い込まれるようにそこへ歩いて行き、何も鳴っていない電話の、受話器を取った。

 受話器を耳に当てると、もちろん何も音はしない。

 良かった、何をしてるんだろう自分は、きっと疲れているんだ――そう思って、ふっと笑みをこぼした瞬間。

 きぃぃん……と。

 遥か遠くから声がこちらに向かうかのように近付いてきた。

 そして。


「出た出た出た出た出た出た出た出た」


「うわぁっ!?」

 昨日やつい先程聞いた低い声とは違い、不愉快に甲高い声でけたけたと笑うように、その声は受話器を伝って自分の耳に叩き込まれた。

 悲鳴を上げて、受話器を放り投げて尻餅をつく。

 机の上に投げ捨てられた受話器からは、ひたすらに「きゃはは」と甲高く笑う声だけが聞こえていた。


8.

 もう会社にまともに行けない……などとも思ったのだが、それでも翌日は勇気を出して行ってみた。

 すると、16時半を迎えても部屋には一昨日までと同様に他の何人かが居て、いつも通りその電話だけは誰も出ることがなかった。

 コール音も通常のものに戻っていて、結局その後は何も起こらなかった。

 別段その後何も起こることもなく、その頃から書き始めた小説で賞を取って、本格的に執筆活動に取り組む為に引っ越すからとその会社を辞めるまで、極めて穏便に過ごす事が出来た。

 あれが何だったのかは、今でも分からない。

 しかしあれのことを追及すると、またあの得体の知れない恐怖に追い回されるかと思うと、たまったものではなかった。

 だから、あれのことにはもう触れないことにする。

 今も特に大きな異変は無く毎日を過ごしているが、それでも、少しばかりの弊害はあった。

 電話のコールがあると、8回コールが鳴る前に絶対出るようになった。

 普通もっと早く出るものだから気にはしないが、何かをしていた為にぎりぎりに電話に出て……ということはしなく、いや、出来なくなった。

 ――出た出た出た出た出た出た出た出た――。

 あの声が、不愉快で甲高い笑い声が、また受話器の奥から聞こえてきそうで。



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― 新着の感想 ―
[一言] リアルな触感のホラー!ですね。 それこそ、昔、夏にやっていたホラー番組の台本になりそうなぐらい、完成度の高い作品だと思います。 個人的には、タイトルが特に秀逸だったと思います。 印象深いで…
2015/05/24 21:33 退会済み
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