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公爵家の食卓を十年支えた料理番の私が辞めた朝、坊ちゃまは初めて泣きました  作者: 秋月 もみじ


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9/10

第9話 毎朝の食卓


 食堂の窓を拭いていたら、通りの向こうにエミールが見えた。いつもの遠回り。今日は立ち止まっていた。


 条約更新の晩餐から二週間が経っていた。大使は私の料理に満足し、交渉は再開された。エミールの商会を通じて、私が大使の食事を担当する形で話がまとまった。


 その仕事の合間に、私は祖母の食堂を直し始めていた。壁のひび割れを漆喰で埋め、床板を磨き、棚を作り直した。エミールが木材を手配してくれた。大工も紹介してくれた。


 (この人はいつも、頼む前に動いている。まるで鍋の火加減を見ているように、黙って調整している)


 窓を拭く手を止めて、通りを見た。エミールは商会に向かう途中のはずだ。この通りは商会への近道ではない。むしろ遠回りだ。


 彼が立ち止まっていることに気づいて、私は窓から顔を出した。


「エミールさん、おはようございます」


 エミールが少し驚いた顔をした。見つかるとは思っていなかったのだろう。


「……おはようございます」


「商会はそちらの方角ではないと思いますが」


「朝の散歩です」


「毎朝、この通りを?」


 エミールが黙った。それは肯定の沈黙だった。


「中に入りませんか。お茶くらいなら出せます」


◇◇◇


 食堂の中はまだ工事途中だった。テーブルは一つだけ使える。椅子は二脚。


 私は乾燥ミントの葉を湯に入れて、簡単なお茶を淹れた。祖母がいつも出していたものだ。ミントの清涼な香りが、漆喰の匂いを和らげる。


「この食堂を、また開くのですか」


「まだ分かりません。でも、ここを放っておけなくて」


 エミールがお茶を一口飲んだ。それから窓を見た。私がさっき拭いていた窓だ。朝の光が差し込んで、まだ濡れたガラスがきらきら光っていた。


「この窓の灯りが好きでした」


「え?」


「夜、この通りを歩くと、窓に灯りが見えていた。お祖母さまが営業していた頃の話です。私がノーヴァに来たばかりの頃」


 エミールがヴェルデンからノーヴァに来たのは五年前だと聞いていた。祖母が食堂を閉めたのは三年前。つまり、二年間、彼はこの窓の灯りを見ていたことになる。


「母の食堂にも、こういう窓がありました。四角い窓で、夕方になると黄色い灯りが漏れて」


 (この人の中で、私の祖母の食堂と、お母さまの食堂が重なっている)


「灯りが消えたとき、寂しかった。だから、朝ここを通るとき、窓を見るようになった。誰かが窓を拭いている影が見えると——」


 エミールが言葉を止めた。お茶を飲んだ。もう一口。また飲んだ。時間を稼いでいる。


「見えると?」


「……安心しました」


 私はミントの葉を一枚、指で千切った。意味のない動作だった。手を動かしていないと、顔に出てしまいそうだったから。


◇◇◇


 夕方、食堂の片付けをしていたら、エミールがまた来た。今度は仕事帰りだった。手に紙袋を持っている。


「窓枠の金具です。前に直したとき、少し緩かったので」


「わざわざ?」


「ついでです」


 (ついでで金具を買ってくる人がいるだろうか)


 エミールが窓枠の金具を付け替えている間、私はパン粥を作った。ルーカスのために試作を重ねていたレシピだが、今日は二人分。


 テーブルに並べて座った。エミールが匙を手に取った。


「マーサさん」


「はい」


「毎朝の食卓に、あなたがいてほしい」


 匙が止まった。私の匙が。


 エミールは真っ直ぐこちらを見ていた。この人がこんなに長い文を口にするのは、あの三杯目の夜以来だ。


「毎朝、この通りを歩いて、窓の灯りを見て、あなたが作った朝ごはんを食べる。そういう朝が続いたらいいと、ずっと思っていました」


 パン粥が湯気を立てていた。蜂蜜の甘い匂いが、食堂いっぱいに広がっている。ルーカスのために何度も作り直したパン粥。祖母のレシピ。蜂蜜は最後に垂らす。先に入れると苦みが出るから。


 涙が出た。


 十年間、泣かなかった。ヴィクトルに料理を褒めてもらえなくても泣かなかった。厨房を追い出されても泣かなかった。ルーカスと離れても泣かなかった。


 (嘘。全部泣きたかった。でも、泣いたら手が止まる。手が止まったら料理ができない。料理ができなくなったら、私には何も残らないと思っていた)


 でも今、この人が「毎朝の食卓」と言ってくれた。


 食卓。それは料理を作る場所じゃない。誰かと一緒に食べる場所だ。


「……ええ、まあ」


 いつもの口癖が出た。でも、声が震えていた。


「それは——はい。私も」


 エミールが小さく息を吐いた。安堵の息だった。


 パン粥が冷めかけていた。二人で、黙って食べた。


◇◇◇


 その夜、祖母の看板を下ろした。「海風亭」と彫られた古い板。


 裏返して、空いた場所に、小さく彫った。


 「この人と一緒に」


 看板を元に戻した。表は「海風亭」。裏は誰にも見えない。私だけが知っている。


 (でも、いつかこの看板を新しくするとき、表に別の名前をつけよう。この食堂を、祖母の食堂のままにしておくのではなく、私の——私たちの食堂にするために)


 窓の外で潮風が鳴った。明日も、エミールはこの通りを歩くだろう。もう遠回りとは呼ばない。

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