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公爵家の食卓を十年支えた料理番の私が辞めた朝、坊ちゃまは初めて泣きました  作者: 秋月 もみじ


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第8話 対面の席


 白身魚の香草包み焼きを、私は公爵家で百回以上作った。百一回目は、公爵の対面で作ることになった。


 ヴェルデン領事館の厨房は、公爵家のそれより狭かった。けれど道具は揃っている。オーブンの癖だけ、朝のうちに確かめておいた。右奥の火が強い。パンは左手前に置く。


 (厨房に入れば、どこでも同じだ。火があって、鍋があって、食材がある。あとは手が覚えている)


 条約更新の晩餐。出席者は大使、その随行員三名、そしてヴィクトル・ランベルク公爵。


 エミールは商会の代表として同席していた。ヴェルデンとの貿易に関わる商人として、末席に。


 私は料理人として、エミールの商会から派遣された形になっている。公爵家の元料理番としてではなく。


「マーサさん、献立の最終確認を」


 エミールが厨房の入り口に立っていた。正装している。いつもの地味な商人の服ではなく、濃紺の上着に白いシャツ。


 (……似合う、とかそういうことを考えている場合ではない)


「前菜が焼き茄子のペーストと平焼きパン。主菜が羊の香草焼き。魚料理が白身魚の香草包み焼き。デザートが干し杏のコンポート。すべてヴェルデンの禁忌に触れないものです」


「完璧です」


「生憎ですが、完璧かどうかは大使が召し上がってからでないと」


 エミールが小さく頷いて、食堂に戻っていった。


◇◇◇


 料理を運ぶとき、食堂の空気が変わった。


 大使が最初の皿を見て、目を細めた。パンをちぎり、茄子のペーストにつけて口に運んだ。咀嚼して、飲み込んで、ゆっくりと頷いた。


 随行員たちの肩から力が抜けるのが見えた。


 主菜の羊を出したとき、大使がカルダモンの香りに気づいた。鼻をかすかに動かして、微笑んだ。


 (よかった。二段階のカルダモン、ちゃんと届いた)


 ヴィクトルは、正面の席で料理を見つめていた。


 私が皿を置いたとき、彼と目が合った。十年間連れ添った夫の目だ。灰色の、冷たい目。けれど今夜、その目の奥に動揺があった。


「——マーサ」


 小さな声だった。食卓の上では聞こえないほどの。


 私は何も答えず、次の皿を取りに厨房に戻った。


◇◇◇


 白身魚の香草包み焼きを出したとき、大使が口を開いた。


「素晴らしい。これは——ランベルク家で私がいただいていた、あの料理だ」


 通訳を介して、ヴィクトルにもその言葉が伝えられた。


「公爵、あなたの家にはこのような料理人がいたのに、なぜ替えたのか」


 ヴィクトルの顔から血の気が引くのが、厨房の入り口から見えた。


「大使閣下。この度の非礼については——」


「非礼の話ではない。私が問うているのは、なぜこの料理人を手放したのか、ということだ」


 食堂が静まった。


 ヴィクトルが何か言いかけたが、大使が先に続けた。


「十年間、私の信仰を尊重した食卓を作り続けた人間を、あなたは軽んじた。条約の話をする前に、まずそのことを理解してほしい」


 (大使は怒っているのではない。悲しんでいるのだ。自分の信仰を理解してくれていた食卓が、一夜にして壊されたことを)


 デザートのコンポートを出した。大使は一口食べて、深く息を吐いた。


「この料理人なしに、条約の更新は難しい」


 ヴィクトルが立ち上がった。


◇◇◇


 晩餐が終わったあと、ヴィクトルが厨房に来た。


 十年間、一度も入らなかった厨房に。今夜は、入ってきた。


「マーサ。戻ってこい」


 短い言葉だった。命令の形をしていた。いつもそうだ。この人は頼み方を知らない。


「お断りします」


 私は鍋を洗っていた。手を止めなかった。


「条約のためだ」


「条約のためなら、なおさらお断りします。私は公爵家の料理番ではありません。エミール・ヴァイス商会の料理人です」


 (本当は、まだ正式な契約をしていない。試用期間がとっくに終わっているのに、なし崩しで続いているだけだ。でも、今この瞬間は、そういうことにしておく)


 ヴィクトルの目が揺れた。初めて見る表情だった。困惑。いや、もっと正確に言えば——後悔に近い何か。


「お前がいなくなってから、ルーカスが——」


「坊ちゃまのことは存じています」


 声が少しだけ硬くなった。自分でも分かった。


「坊ちゃまには、卵と乳製品のアレルギーがあります。食べられるものの一覧は、ソフィアさんにお渡しください。もっとも、十年分の記録は全部私の頭の中ですので、紙には書けませんが」


 ヴィクトルは何も言わずに厨房を出ていった。足音が、前よりも少しだけ遅かった。


 鍋を洗い終えて顔を上げたら、エミールが厨房の入り口に立っていた。いつからいたのか分からない。何も言わなかった。ただ、そこにいた。


「……聞いていましたか」


「最後のほうだけ」


「格好悪いところを」


「格好よかったと思います」


 (この人は、こういうときだけ饒舌になる)


 エミールが、洗い終わった鍋を棚に戻すのを手伝ってくれた。二人で黙って片づけをした。


 厨房の窓から、港の灯りが見えた。潮の匂いがした。


 帰り道、エミールが隣を歩いてくれた。相変わらず無口だったが、歩幅を私に合わせてくれていた。


 (この人は、言葉の代わりに歩幅で気遣いをする人だ)

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