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公爵家の食卓を十年支えた料理番の私が辞めた朝、坊ちゃまは初めて泣きました  作者: 秋月 もみじ


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7/10

第7話 三杯目の涙


 彼が料理を黙って食べるのはいつものことだ。黙って泣くのは、初めてだった。


 大使のための試作を、エミールの商会の厨房で始めたのは昨日のことだ。本番は明日。今日は味を確かめる日だった。


 羊の肩肉をカルダモンとクミンで二時間漬け込み、低温でじっくり焼いた。表面にうっすら焦げ目がつくまで。肉の繊維がほどけるように柔らかくなったら、仕上げに砕いたカルダモンの種をひとつまみ散らす。


 焼き茄子のペーストは、茄子を直火で焼いて皮を剥き、胡麻の練ったものとレモン汁を合わせる。ヴェルデンの家庭料理だ。大使が以前、「母の味に似ている」と仰ったことがある。


 (他人の母の味を再現する、というのは料理人にとって最も難しい仕事のひとつだ。正解がその人の記憶の中にしかないから)


 平焼きのパンを窯から出したとき、ちょうどエミールが商会から戻ってきた。


「試食をお願いしてもいいですか」


「……ああ」


 エミールは上着を脱いで、厨房の端にある小さなテーブルについた。私は皿に盛りつけた。羊の香草焼き、焼き茄子のペースト、平焼きパン。それから、干し杏のコンポートを添えた。


「どうぞ」


 エミールがパンをちぎった。右手で。私がヴェルデン式に焼いたことに気づいたのだろうか、少しだけ手が止まった。


 パンを茄子のペーストにつけて、口に運んだ。


 咀嚼する音が、静かな厨房に響く。


 羊肉を一切れ、口に入れた。ゆっくり噛んで、飲み込んだ。


 それから、動かなくなった。


「エミールさん?」


 彼は匙を持ったまま、テーブルの一点を見つめていた。やがて、その目の縁が赤くなった。


 涙が一筋、頬を伝った。音もなく。


「……すみません」


「いいえ」


「母の、料理に似ています」


 私は息を止めた。


◇◇◇


 エミールの母親は、ヴェルデンの港町で小さな食堂を営んでいた。彼が八つのときに亡くなった。


「料理人だったのですか」


「食堂の女主人です。父が漁に出て、母が魚を捌いて、客に出していた」


 エミールの声は淡々としていた。けれど、匙を持つ手が微かに震えていた。


「味は覚えていますか」


「……味だけ覚えています。顔はもう曖昧です。声も」


 (味だけが残る。それは料理人にとって、最も切ない褒め言葉だ)


「でも、この茄子のペーストを食べて、母が台所に立っていた後ろ姿が見えた気がしました」


 私は何も言えなかった。代わりに、干し杏のコンポートを少し温め直して、彼の前に置いた。


「お母さまも、こういうものを?」


「干した果物を煮たものは、よく作ってくれました。杏だったか、無花果だったか。甘くて、少し酸っぱくて」


 エミールがコンポートを一口食べた。また黙った。匙を置いて、両手で顔を覆った。肩が揺れていた。


 私は厨房の隅に立って、鍋を磨くふりをした。こういうとき、人は一人にしておいたほうがいい。


 (でも、完全には離れない。鍋を磨く音だけを、そっと置いておく)


◇◇◇


 しばらくして、エミールが顔を上げた。目が赤かったが、声はいつも通り静かだった。


「……三杯目、いいですか」


 コンポートのことだった。私は少し笑って、器によそった。たっぷりと。


「甘さ、もう少し控えたほうがいいですか」


「いえ。このままで」


 彼が三杯目を食べる間、私はパンの生地をこね始めた。明日の本番用の仕込みだ。手に粉がつく。小麦粉の白い匂いが、厨房に広がった。


「マーサさん」


「はい」


「あなたの料理は、味を思い出させるだけじゃない。その場所に連れていってくれる」


 私は生地をこねる手を止めなかった。止めたら、たぶん泣いてしまうから。


「生憎ですが、私はただ料理を作っているだけですよ」


「……ええ、分かっています」


 (分かっていない。この人は分かっていない。あなたがそうやって黙って食べて、黙って泣いて、三杯目をおかわりしてくれることが、料理人にとってどれだけ――)


 ——やめよう。パン生地に集中する。


◇◇◇


 夜、商会を出て祖母の食堂に戻った。


 ルーカスに送ったレシピ帳の返事が届いていた。ベルタの字で、「坊ちゃまはパン粥を毎朝ご自分で温めておられます」と書いてあった。


 その手紙を棚に置いて、祖母の食堂の看板を磨いた。塩と煤で曇っていた木の板が、少しずつ元の色を取り戻していく。


 「海風亭」。祖母がつけた名前だ。


 磨きながら考えた。この看板を掲げ直す日が来るだろうか。


 エミールが言った言葉が、まだ耳に残っていた。「その場所に連れていってくれる」。


 この食堂は、私をどこに連れていってくれるのだろう。


 (分からない。でも、明日は大使のために料理を作る。明後日のことは明後日考える。今は——この看板を、もう少しだけ磨こう)


 夜風が窓の隙間から入ってきた。エミールが直してくれた窓枠は、前よりも少しだけ、風の通りがよかった。


 潮の匂いがした。

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