第7話 三杯目の涙
彼が料理を黙って食べるのはいつものことだ。黙って泣くのは、初めてだった。
大使のための試作を、エミールの商会の厨房で始めたのは昨日のことだ。本番は明日。今日は味を確かめる日だった。
羊の肩肉をカルダモンとクミンで二時間漬け込み、低温でじっくり焼いた。表面にうっすら焦げ目がつくまで。肉の繊維がほどけるように柔らかくなったら、仕上げに砕いたカルダモンの種をひとつまみ散らす。
焼き茄子のペーストは、茄子を直火で焼いて皮を剥き、胡麻の練ったものとレモン汁を合わせる。ヴェルデンの家庭料理だ。大使が以前、「母の味に似ている」と仰ったことがある。
(他人の母の味を再現する、というのは料理人にとって最も難しい仕事のひとつだ。正解がその人の記憶の中にしかないから)
平焼きのパンを窯から出したとき、ちょうどエミールが商会から戻ってきた。
「試食をお願いしてもいいですか」
「……ああ」
エミールは上着を脱いで、厨房の端にある小さなテーブルについた。私は皿に盛りつけた。羊の香草焼き、焼き茄子のペースト、平焼きパン。それから、干し杏のコンポートを添えた。
「どうぞ」
エミールがパンをちぎった。右手で。私がヴェルデン式に焼いたことに気づいたのだろうか、少しだけ手が止まった。
パンを茄子のペーストにつけて、口に運んだ。
咀嚼する音が、静かな厨房に響く。
羊肉を一切れ、口に入れた。ゆっくり噛んで、飲み込んだ。
それから、動かなくなった。
「エミールさん?」
彼は匙を持ったまま、テーブルの一点を見つめていた。やがて、その目の縁が赤くなった。
涙が一筋、頬を伝った。音もなく。
「……すみません」
「いいえ」
「母の、料理に似ています」
私は息を止めた。
◇◇◇
エミールの母親は、ヴェルデンの港町で小さな食堂を営んでいた。彼が八つのときに亡くなった。
「料理人だったのですか」
「食堂の女主人です。父が漁に出て、母が魚を捌いて、客に出していた」
エミールの声は淡々としていた。けれど、匙を持つ手が微かに震えていた。
「味は覚えていますか」
「……味だけ覚えています。顔はもう曖昧です。声も」
(味だけが残る。それは料理人にとって、最も切ない褒め言葉だ)
「でも、この茄子のペーストを食べて、母が台所に立っていた後ろ姿が見えた気がしました」
私は何も言えなかった。代わりに、干し杏のコンポートを少し温め直して、彼の前に置いた。
「お母さまも、こういうものを?」
「干した果物を煮たものは、よく作ってくれました。杏だったか、無花果だったか。甘くて、少し酸っぱくて」
エミールがコンポートを一口食べた。また黙った。匙を置いて、両手で顔を覆った。肩が揺れていた。
私は厨房の隅に立って、鍋を磨くふりをした。こういうとき、人は一人にしておいたほうがいい。
(でも、完全には離れない。鍋を磨く音だけを、そっと置いておく)
◇◇◇
しばらくして、エミールが顔を上げた。目が赤かったが、声はいつも通り静かだった。
「……三杯目、いいですか」
コンポートのことだった。私は少し笑って、器によそった。たっぷりと。
「甘さ、もう少し控えたほうがいいですか」
「いえ。このままで」
彼が三杯目を食べる間、私はパンの生地をこね始めた。明日の本番用の仕込みだ。手に粉がつく。小麦粉の白い匂いが、厨房に広がった。
「マーサさん」
「はい」
「あなたの料理は、味を思い出させるだけじゃない。その場所に連れていってくれる」
私は生地をこねる手を止めなかった。止めたら、たぶん泣いてしまうから。
「生憎ですが、私はただ料理を作っているだけですよ」
「……ええ、分かっています」
(分かっていない。この人は分かっていない。あなたがそうやって黙って食べて、黙って泣いて、三杯目をおかわりしてくれることが、料理人にとってどれだけ――)
——やめよう。パン生地に集中する。
◇◇◇
夜、商会を出て祖母の食堂に戻った。
ルーカスに送ったレシピ帳の返事が届いていた。ベルタの字で、「坊ちゃまはパン粥を毎朝ご自分で温めておられます」と書いてあった。
その手紙を棚に置いて、祖母の食堂の看板を磨いた。塩と煤で曇っていた木の板が、少しずつ元の色を取り戻していく。
「海風亭」。祖母がつけた名前だ。
磨きながら考えた。この看板を掲げ直す日が来るだろうか。
エミールが言った言葉が、まだ耳に残っていた。「その場所に連れていってくれる」。
この食堂は、私をどこに連れていってくれるのだろう。
(分からない。でも、明日は大使のために料理を作る。明後日のことは明後日考える。今は——この看板を、もう少しだけ磨こう)
夜風が窓の隙間から入ってきた。エミールが直してくれた窓枠は、前よりも少しだけ、風の通りがよかった。
潮の匂いがした。




