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公爵家の食卓を十年支えた料理番の私が辞めた朝、坊ちゃまは初めて泣きました  作者: 秋月 もみじ


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第6話 禁忌の食卓


 ベルタの手紙が、今度は震えていた。文字が右に傾いている。急いで書いたのだ。


 私はエミールの商会の厨房で、翌日の仕込みをしていた手を止めた。封を切ったとき、指先に微かにインクが移った。乾ききっていない。ベルタは封蝋すら待てなかったのだ。


 (嫌な予感がする。鍋の底が焦げるときの、あの匂いに似た予感)


 手紙を読んだ。二度、読んだ。


 ソフィアが、ヴェルデン大使の歓迎晩餐に豚肉を使った。


 手紙を持つ指が冷たくなった。


◇◇◇


 ヴェルデンでは、豚は穢れた獣とされている。口にすることは宗教上の禁忌だ。大使に豚肉を出すということは、その信仰を踏みにじるということ。


 私は十年間、大使が公爵家を訪れるたびに献立を組んだ。鶏か羊、そして魚。香辛料はカルダモンを軸にする。大使がカルダモンの香りを嗅ぐと目を細めるのを、私は知っていた。故郷の香りなのだ。


 (カルダモンは使い方が難しい。多すぎると薬臭くなる。少なすぎると存在が消える。火加減が肝心なのと同じで、量の加減が肝心。鞘ごと軽く潰して、煮込みの最初に入れる。仕上げにもう一粒、今度は種だけ取り出して砕いたものを散らす。二段階。これで香りに奥行きが出る)


 ——いいえ、今はカルダモンの話をしている場合じゃない。


 ベルタの手紙には、こう書かれていた。


「大使が席を立たれました。通訳の方が何か仰っていましたが、私には聞き取れませんでした。ヴィクトル様のお顔が、初めて見るほど白くなりました」


 条約更新の時期だった。両国の通商条約は十年ごとに更新される。その交渉の席で、大使の信仰を侮辱した。


 (これは料理の失敗じゃない。外交の失敗だ)


◇◇◇


 翌朝、エミールが商会に来るなり、私に言った。


「大使閣下が、あなたの名前を出しています」


 エミールはいつも通り表情が薄かったが、声に少しだけ力がこもっていた。


「私の?」


「『以前の料理人を呼べ』と。正確には、『ランベルク家で十年間、私の食卓を理解してくれた料理人がいたはずだ』と」


 私は仕込み中の玉ねぎから手を離した。まな板の上で、半分に切った玉ねぎの断面がつやつやと光っている。


「……ええ、まあ」


「マーサさん」


 エミールが珍しく、私の名前をはっきり呼んだ。


「条約交渉が決裂すれば、両国の商人が困ります。うちの商会も。ノーヴァの漁師たちも」


 知っている。ヴェルデンとの通商条約が切れれば、この港町の干物はヴェルデンに輸出できなくなる。市場の活気が消える。あの魚市場で声を張り上げている人たちの暮らしが変わる。


「私が行くのは、あの人のためじゃありません」


 あの人、という言葉が自然に出た。ヴィクトルのことを名前で呼ぶ気にはなれなかった。


「両国の人たちの食卓のためです。ヴェルデンの香辛料が届かなくなったら、この町の料理だって変わってしまう」


 エミールが小さく頷いた。


「それでいいと思います」


 (この人は余計なことを言わない。ただ頷く。それが今、ありがたい)


◇◇◇


 支度をしながら、献立を考え始めた。頭の中で、大使の好みを棚から引き出すように思い出す。


 羊の香草焼き。カルダモンとクミンで下味をつける。付け合わせは焼き茄子のペースト。パンは平焼きのもの。ヴェルデン式に右手でちぎって食べられるように。


 (十年分の記憶が、全部ここにある。レシピ帳なんか作らなくても、舌が覚えている)


 エミールが馬車の手配をしてくれた。出発は明後日。場所は公爵家ではなく、ノーヴァの港にあるヴェルデン領事館。大使が公爵家に戻ることを拒否したのだ。


 当然だ、と思った。


 そしてもうひとつ、ベルタの手紙の最後に小さく書き添えられていた一文が、目に残っていた。


「ソフィアは泣いて『知らなかった』と言っておりました。ですがマーサさま、あの方は就任時に渡された食材リストすら読んでおられなかったのです」


 (知らなかった、じゃない。知ろうとしなかった。料理人が食卓を預かるというのは、相手の命と信仰を預かるということなのに)


 まな板の上の玉ねぎが、切り口から涙を誘う成分を放っていた。目が滲んだ。


 玉ねぎのせいだ。


 ——玉ねぎのせいということにしておく。

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