第5話 蜂蜜とナッツのパン粥
朝の仕込みをしていたら、厨房の扉が開いた。立っていたのは、世界で一番会いたくて、会いたくなかった人だった。
「お母さま」
ルーカスが立っていた。
寝巻きの上に外套を羽織って、靴が泥だらけで、髪がぐしゃぐしゃで。七歳の小さな身体が、朝の光の中で震えていた。
包丁を置いた。手を拭いた。しゃがんで、ルーカスの顔を見た。
泣いていた。声を出さずに、ただ涙がぽろぽろこぼれている。
「どうして……ここに」
「ベルタが馬車に乗せてくれた」
ベルタ。あの人は、何ということを。
「ひとりで?」
「御者のおじさんがいた。ベルタが手紙を渡してた」
ルーカスの手に、小さく折り畳んだ紙が握られていた。ベルタの字で、一行だけ。
――お許しください。でも、この子はもう限界です。
「お母さま、朝ごはん」
ルーカスが言った。
「お母さまの朝ごはんが食べたい」
◇◇◇
考えるより先に手が動いた。
パン粥だ。蜂蜜とナッツのパン粥。
黒パンを千切る。ナッツを刻む。鍋に水を張る。竈の火を起こす。
(手順はいつも通り。いつも通りでいい。いつも通りにしないと、手が震える。もう震えている。止まれ。止まれ。止まれ)
ルーカスをテーブルに座らせた。椅子が高すぎるから、木箱を積んで台にした。ルーカスの足がぶらぶら揺れている。公爵家の食堂では、足をぶらぶらさせたら叱られた。ここでは誰も叱らない。
鍋の中で麦がとろける。ナッツが浮き沈みする。蜂蜜は最後。先に入れると苦みが出る。
いつもと同じ。何百回と作った、同じパン粥。
けれど、手が震えている。包丁を握れば止まるはずの震えが、今日は止まらない。
「お母さま」
「はい」
「お母さまのご飯、おいしくないって言っちゃだめだって。お父さまに怒られるから」
匙が止まった。
「……誰のご飯が、おいしくないの?」
「ソフィアさまの。でも、おいしいって言わないと、お父さまが怖い顔するから。ルーカス、おいしいって言った」
鍋を見た。ぐつぐつ言っている。火が強すぎる。弱めなきゃ。弱めなきゃいけないのに、手が動かない。
「おなか、痛くなった。ソフィアさまのご飯食べると、おなか痛くなる。でもベルタが怒ったら、お父さまがベルタを叱った」
火を弱めた。
弱めた。
ちゃんと弱めた。大丈夫。鍋は焦げていない。
(なぜ。なぜ誰も止めないの。卵を使ったら駄目だと、なぜ誰も。ベルタは言ったのに。言ったのに、聞かなかったんだ。あの人は、あの男は)
「お母さま?」
「大丈夫よ、坊ちゃま。もうすぐできますからね」
声が平たかった。感情の温度を全部抜いた、空っぽの声。こんな声を出す自分を、初めて聞いた。
◇◇◇
パン粥ができた。
器によそって、テーブルに置いた。蜂蜜を多めに。ナッツを散らして。湯気が立ちのぼる。
ルーカスが匙を持った。ふうふう息を吹きかけた。一口食べた。
泣いた。
今度は声を出して泣いた。
「おいしい。お母さまの、おいしい」
ぼろぼろ泣きながら、匙を止めない。泣きながら食べている。口の周りに粥がついている。涙と粥が混ざっている。
私はテーブルの向かいに座って、この子が食べるのを見ていた。
泣きたかった。泣きたかったけれど、泣いたら塩加減がわからなくなる。もう一杯作るかもしれないから。泣かない。
(嘘。塩加減なんかどうでもいい。泣いたら、この子を連れて帰れなくなるから。泣いたら、離せなくなるから)
◇◇◇
ルーカスが食べ終わって、テーブルに突っ伏して眠った。
小さな寝息が聞こえる。外套を掛け直してやった。泥だらけの靴を脱がせて、足を拭いた。
厨房に戻った。
まな板の前に立った。祖母の形見のオーク材のまな板。
考えた。
この子を、ここに置いておくことはできない。公爵家の嫡男を、勝手に引き取ることは法的にも倫理的にもできない。ヴィクトルが本気で取り返しに来たら、私には何の権利もない。離縁された元妻に、親権はない。
でも。
でも、この子のおなかを守ることはできる。
ここにいなくても。離れていても。私の手が届かなくても。
棚から紙を出した。エミールの商館から借りてきた、上等な羊皮紙の束。
一枚目に、書いた。
「坊ちゃまへ。この本の通りに作れば、あなたは何でも食べられます」
レシピを書く。卵を使わない料理。乳製品を使わない料理。山羊乳のチーズで代用する方法。オリーブの油でバターの代わりをする技。
全部書く。私の頭の中にしかなかった五年分の献立を、全部この紙に書き出す。
パン粥の作り方。黒パンは親指の大きさに千切ること。水は鍋の七分目。火は弱火の、さらに弱め。蜂蜜は最後に入れること。先に入れると苦みが出るから。
ルーカスが読めるように、ふりがなを振った。七歳でも読めるように。大人になっても使えるように。
◇◇◇
厨房の裏口が、かすかに軋んだ。
振り向くと、木箱が置かれていた。裏口の外に、ぽんと。中を見ると、蜂蜜の瓶と、ナッツの袋と、上等な黒パンが一斤。
エミールの姿は見えなかった。足音も聞こえなかった。
ただ、食材だけがそこにあった。
(何も言わない。何も聞かない。ただ、食材を置いていく。この人は、いったい何なのだろう)
蜂蜜の瓶を手に取った。琥珀色の蜂蜜が、朝日に透けて光っている。
レシピの続きを書いた。手が止まらなかった。
午後、ルーカスが目を覚ました。もう一杯パン粥を作って食べさせた。今度は泣かなかった。にっこり笑って、「おいしい」と言った。
夕方、御者に手紙を持たせて、ルーカスを馬車に乗せた。
「お母さま、帰りたくない」
「帰りなさい、坊ちゃま」
「でも」
「これを持っていきなさい」
レシピの束を、ルーカスの小さな手に握らせた。まだ途中だけれど、パン粥の作り方だけは書き終えた。
「読めるわね? ふりがなを振ってあるから」
「……うん」
「ベルタに渡して。ベルタなら、この通りに作ってくれるから」
ルーカスが紙を抱きしめた。くしゃくしゃになるからそっと持ちなさい、と言いたかったけれど、言えなかった。
「残りは送ります。全部書き終わったら、届けるから」
馬車の扉を閉めた。
馬車が動き出した。小さな窓から、ルーカスがこちらを見ていた。紙の束を胸に抱えて、泣いていなかった。
馬車が角を曲がって見えなくなるまで、私は立っていた。
それから厨房に戻って、レシピの続きを書いた。
手が震えていた。今度は止めなかった。震えたまま、書いた。
白身魚の香草包み焼き。卵を使わない衣の作り方。鹿肉の赤ワイン煮込み。乳製品なしでもコクを出す方法。干し林檎の砂糖漬け。バターを使わない焼き菓子。
祖母の看板が、壁に立てかけてある。
「誰かのおなかを満たすために」
私は今、誰かのおなかを満たそうとしている。ここにいない誰かの。手の届かない誰かの。
それでも、書く手は止まらなかった。




